
* 45 *
人生のあらゆる行為に、回復不能な面はあるのです。
死が関わっていない場合には、そういう面が強く感じられない、というだけのことです。
ふだん、日常生活を送っているとあまり感じないだけで、実は毎日が取り返しがつかない日なのです。
今日という日は、明日にはなくなるのですから。
人生のあらゆる行為は、取り返しがつかない。
その事を死くらい歴然と示しているものはないのです。
養老 孟司
*
それは、かつて世界が歴史上で幾度も経験した未知のウイルスによるパンデミックの始まりであった。
朝には元気にしていたが、午後には急性憎悪し死に至る、という患者が、各地で続出した。
日本では、「COVID‐19」来、十数年ぶりの感染症爆発であった。
師匠と同様に、棋界に確たる痕跡を残した、希代の「天才女性棋士」藤野 桂成は、家族の祈りも空しく、目覚めぬまま息を引き取った。
奇しくも、師匠と同じ対局中に倒れ、3時35分という同じ時刻に、その短い生涯を閉じた。
享年三十二歳であった。
強く、美しいままで、この世を去った。
師匠と同じく、ただ一人の弟子を遺していた。
中村 加奈梨は、師匠との最後の対局で、あの驚きの「反則手」が八十六手目だったことを後に識る事となった。
大師匠も最後の対局の八十六手目で「反則手」を打ち、そのまま倒れた。
加奈梨は、自分の師匠が、どこまでも大師匠が残された轍を踏んで行かれたのだなぁ・・・と、思わずにいられなかった。
棋界のみならず、日本中が天才女性棋士の急逝に衝撃を受けた。
亡くなったその日まで、テレビ画面の中では、健康溌剌とした彼女が笑顔でチョコを食べ、お茶を飲んでいた。
翌日のCMでは、「藤野 桂成氏のご冥福を心よりお祈りいたします」というテロップが流れ、以後、別ヴァージョンのものに差し替えられた。
時節柄、病院から遺体はすぐに荼毘に付され、家族の元には小さな白い箱となって戻ってきた。
(おかえり・・・
お姉ちゃん・・・)
という声すらも出ず、聡美も竜馬も、その白い箱にすがって泣き崩れた。
リヴィングには、ソータとカナリの二人の遺影が家族を見て微笑んでいた。
哀しみに打ちひしがれる聡美と竜馬に、
「お姉ちゃん。
天国でお父さんと仲良く、楽しく将棋指してるよ・・・」
と愛菜が声をかけたが、その光景を脳裏に浮かべると、とめどもなく泪があふれた。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます