『人生を遊ぶ』

毎日、「今・ここ」を味わいながら、「あぁ、面白かった~ッ!!」と言いながら、いつか死んでいきたい。

  

怪談『こけしの里』

2022-08-09 07:13:12 | 創作

 加納 顕継(あきつぐ)は、大学の卒論に『こけしの民俗学的研究』という大雑把なテーマを設定した。

 そもそも、その事を思いついたのは、遠い幼い日の不思議で妖しい体験がもとになっていた、と言ってもいいだろう。

 幼くして父を亡くし、母ひとり子ひとりで育った彼は、小学生になったばかりの夏休みに、山里の一軒家にある母親の実家に、初めて連れられて行った。

 その旧家は、山奥ゆえ昭和の戦禍も逃れ、建て替えも建て増しもないまま時代の空気を其処ここに封じ込めたような独特の匂いがあった。

 平成の御世になり、さすがに電灯はともっていたものの、土間のある玄関は昼なお暗く、その仄暗さは旧家の発する匂いとともに幼い顕継の五感には強く印象付けられていた。

(なんだか、気持ちわるいなぁ・・・)

 というのが、彼の最初の内言として脳裏に沸いた。

 

「ただいまぁ・・・っ」

 という母の屈託のない明るい声が、旧家の奥まで通るようだった。

「はーい・・・」

 と奥から、呼応する女性の声がした。

 声の主は、母よりも幾分老けたような母の姉だった。

「いらっしゃい。遠い処、大変だったわねぇ・・・」

 と伯母さんは土間に立つ親子を労った。

「アキちゃんは、初めてだもんねぇ・・・。びっくりしたでしょ、山んなかで・・・」

 と言いながら幼子を見て微笑んだ。  

 顕継はすこしばかり引きつった笑みを目の前の女性に見せていた。

 

 母とふたり、3LDKのマンション住まいの彼にとっては、田舎の家の広く長い廊下は、まるで異次元の空間に通ずる回廊のように映った。

 その仄暗さは、胎内へ回帰していくような産道を遡るような感覚に陥るようでもあった。

 奥の奥にある居間は、マンションの全部屋を合わせたよりも広い畳のひと間だった。

 そこには、伯母さんの夫であるオジさんがいた。

「いらっしゃい」

 でっぷりしたカラダに笑みを湛(たた)えながら親子は歓迎された。 

 お盆帰りだったので、一服してから、仏間にふたりは並んで線香をあげた。

 その欄間には、先祖代々のモノクロ遺影がずらりとならび、眼下の家人を見下ろしていた。

(きもちわるいなぁ・・・)

 と顕継は、初めて見るそれらの故人の無機質な表情に冷たいものを感じた。

 

 母の実家は、代々が女当主で、男性は若死にする家系だった。

 その傾向は、本家を離れた母親にまで及んでいるという符合を、顕継は大学生になって初めて気が付いた。

 女当主は、いずれも、代々が産婆を生業としていた。

 現当主は入り婿のオジさんでなく、伯母さんがそうで、そして、その伯母さんもまた助産婦であった。

 近隣の集落は、昭和の頃からすでに過疎地だったが、老齢化が進み、助産婦の需要があるようにも思えず、何で生計を立てていたのか、幼い頃の顕継には知る由もなかった。

 

 母の仕事の都合で、わずか二日ばかりの里帰りだった。

 何もない田舎だったので、それ以上いても退屈するよりなかったことだろう。

 下手に山歩きでもしたら迷子にならないとも限らないし、顕継には虫捕りの興味もなかった。

 伯母夫婦には子どもがいず、したがって、顕継には母方のいとこがいなかった。

 父方には、いるにはいるのだが、母子家庭となった今、その付き合いも切れていた。

 顕継は、次いつ来れるかもわからない山里の一軒家を隈なく見てやろうと、子どもらしい好奇心に疼くのを押さえきれず、伯母さんに「家ん中見てもいい?」と了解を取て、ひと部屋ずつ探検ごっこを開始した。

 

 伯母夫婦ふたりだけで住むには広過ぎるといっていいほどの部屋数がある。

 かつては、大家族が暮らしていたのだろうと、幼い顕継にも容易に想像がついた。

 納戸や物置もあり、昭和の頃の不思議な家電品やら書画骨董のたぐいもあった。

 チビッ子探検隊は、まるでタイムトラベラーにでもなったように、むかしの品々たちを通して、かつて感じた事のないような空気感に浸って心を躍らせていた。

 それは、ゲームの中のヴァーチャル空間ではなく、リアル空間のアイテムなのである。

 いくつかの部屋で興味深い物を見つけもしたが、顕継の目に留まったのは、古びた色褪せた一枚の写真だった。

 

 それは、たしかあの仏間にあったはずの、どの老婆かは定かではないが、その中の一人にちがいないと少年探検家は推察した。

 彼の目を奪ったのは、その異様な姿である。

 気がつくと、いつの間にか、その写真を持ち出していた。

 少年は、仏間のそれと照合してみようと、絵解きの好奇心にかられたのである。

 あった、あった。これだ。

 たしかに、そこには同じ婆様の顔があった。

 その目は、ほかの先祖の爺様・婆様たちと同じように遠くの一点をぼんやりと見つめているかのような無表情で映っていた。

 しかし、顕継の手にしていた遺影の異様さは、表情にではなく、その全身像にこそあった。

 今度は、その奇妙な姿のわけを知りたい、という欲求が、幼い心に抑えがたいほどに、ふつふつと沸き上がった。

 彼は、母に少しばかり似た伯母さんに当たってみるよりない、と幼心にそう考えた。

 

「このお婆ちゃん、だーれ?」

 勝手に持ち出した写真を、居間で談笑していた伯母さんの鼻先にそれを突き出した。

 母親は、一瞬、息子の手元を見て怪訝な顔をした。

「あんた、何もってきたの?」

「・・・」

 顕嗣は返答に窮し、ただ、モノクロの遺影を母に向けるだけだった。

「あら・・・。なーに、この子、ひいお婆ちゃんの写真なんてもってきて・・・」

と言ったものの、その内心、ギクリとした。

 

 それは、母親自身も、幼い頃に、その目が奪われた奇妙な遺影だったからである。

 どう奇妙なのか・・・。

 昔の人の着物姿だが、立ち姿が異様だった。

 まるで棒人間のように、着物の両手部分がなかったのである。

 首、肩とあって、そこからストンと脚まで一直線だった。

 そう。ちょうど木偶(でく)人形の「こけし」のような形がいちばん近いと言っていいかもしれない。

「隻手」というのは、片腕の人を言うが、曾祖母には両腕がなかった。

 その風変りな姿を、幼いころの母親も気になりながらも、長ずるにつれ、いつしか思い出すこともなくなっていた。

 

 曾祖母の名が「タエ」というのは、おぼろげながら聞いた記憶があった。

 図らずも、顕継と親子二代で抱いた疑問は、助産婦を継いだ姉にのみ伝えられていた加納家の禍々しい物語で解き明かされた。

 その奇譚を、ひょんなことから、お盆の里帰りに自分が聞くことになるとは、母親は夢にも思っていなかった。

 *

 加納 タエが女当主だった明治の頃。

 この集落も農村としてけっこう繁栄していたという。

 しかし、地主以外の小作農の暮らしは安楽とは言えず、貧乏の子沢山という貧農の一家もすくなくなかった。

 娘は人減らしのために遠くの村に身売り同然に縁付けさせられることも日常であった。

 無医村ではあったが、集落に産婆だけはいた。

 それを担っていたのが、加納家の代々の女当主たちであった。

 タエも母親、祖母からその生業を受け継いだのである。

 

 顕継が家の探検で、ついぞ見つけ得なかった古い屏風が、納戸の奥に今もひっそりと保管されていた。

 その屏風は、「白絵屏風」といい、専らお産の時にのみ用いられたものである。

 鶴亀や松などの吉祥を表すものが描かれているものの、胡粉(ごふん)という貝殻を砕いて粉にしたものを顔料として、白一色でのみ描かれているため、どこか妖しい感じが漂う屏風でもある。

 これは、お産の時に、産婦の衝立として、村人たちが当家に借り受けに来るもので、そして、そこに代々の女当主が産婆として随行するのであった。

 姉が祖母から聞いた話では、祖母も幾度も村内のお産に立ち会ったが、年にニ度、三度ほど、その屏風を逆さに立てることがあったという。

 

       

 

 本来、屏風をそのように使うのは不祝儀事、すなわち、死人を出して葬儀を執り行う時とされていた。

 その様式を、お産にやるとは、如何なることか。

 しかも、話を聞くと,赤子が死産の時に行われるのではないという。

 先に、家人が産婆の家から屏風を持ち運び、産婆が到着した時には、すでに、産婦の仕切りに逆さに立てかけてあるのだという。

 それを見た産婆は、産婦や家人の思惑を察し、生まれ出た赤子を盥に張ったうぶ湯に沈め、その中で臍の緒を切るという。

 ・・・と、どうなるか。

 想像するだに、おぞましくもあるが、赤子は、ひと息も吸わずして溺死する。

 つまり、間引かれる、のである。

 

 山里の貧農の、子沢山の家では、そうして望まれない赤子は、産婆の処置によって、始末されたという。

 今日の「中絶」「堕胎」と違うのは、産み月まで育った赤子を沈めることである。 

 それは、泣きこそしないが、完全に人の形をした赤子なのである。

 如何な貧困ゆえとは言え、殺生は殺生である。

 その生殺与奪は家人が決めるとはいえ、手を下すのは、産婆の役目だった。

 その後は、水子供養がされるのかどうかは定かではない。

 ⁂

 ある日、名僧と名高い仙厓(せんがい)和尚の処に、首切り役人が訪ねてきた。

 今でいう、刑務執行官という公職である。

 月に幾人かの罪人の首を撥(は)ねるのが、彼の役目であった。

 剣の腕もそれなりでなければ、すっぱりと人の首は落とせないものである。

 藁束や米俵を切るのではない。

 活きた生身を刀身で切断するのである。

 その感触は、当然、執行者には伝わり、記憶にも残るのだろう。

 彼は、名僧・仙厓に、自分はこのままこの仕事を続けてもいいのだろうか・・・と、問うた。

 季節は、冬の終わりから春先にかけての頃だった。

 仙厓は、彼の懊悩を察すると、まだ枝葉に残雪の積もった竹林を指さして、あそこの竹をその刀で切ってみよ、とだけ言った。

 首切り役人は、怪訝に思いながらも、覚えのある腕に物を言わせて、えいっ、と見事な斜め切りにした。

 とたんに、バサリと枝葉に積もっていた雪が彼の頭上に被さった。

 役人は、ハッとして、和尚の顔を見ると、仙厓は黙ってうなずいた。

 何をか悟った役人は「首切り役人」を辞したという。

 ⁂

 姉妹の祖母は、おっかさんは自分の腕を罰したのだろう・・・と、言ったという。

 自分には出来ぬゆえ、幼馴染の男友達に頼んで、その両の腕(かいな)を鉞(まさかり)で、切り落とさせた。

 失血死こそ免れたが、それをも厭わなかった覚悟があったに違いない、と祖母は、目を潤ませて姉に語り聞かせたという。

 

 なんという覚悟。なんという潔さ。なんという自罰行為・・・。

 

 日本各地の村里には、木で作った人形が今も伝統工芸品としてある。

 それは、かつては「木偶(でく)」と呼ばれていた。

 今日では死語になったが、「でくのぼう」という悪口がある。

 これは、「木偶の坊」と書き、でくのように役に立たない(気が利かない)と、人をののしる言葉であった。

 木偶のなかに、貧困のために間引かれた赤子たちを哀れんで、その親たちが供養のためにとこしらえた人形がある。

 その木偶人形を親たちは「こけし」と呼んだ。

 それは、「子化身」「子消し」という意味なのである。

 

 加納 タエは、自らの生業とはいえ、その手で多くの「子消し」に携わった。

 晩年、自らの罪業を悟るに至り、その両腕を切り落とすことで、自らが「こけし」となって、この世に生をみなかった子たちの供養をしたのである。

 

 

 

 

 


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