3.11の昨日。
2時46分には、
テレビ中継のサイレンに合わせ、
画面の中の
三陸の防潮堤に並ぶ
子どもたちと共に
黙祷を捧げた。
何を思い出す事もなかったが、
一瞬、ジワリと
涙が込み上げた。
それは、
亡くなった方々への
憐憫の情なのか、
生き残った自分たちへの
サバイバーズ・ギルトなのか・・・。
3.11、パンデミック、
ウクライナ侵攻・・・と、
世界は今も憂いに覆われている。
【それでも生きていく・・・】
という、
あの時の決意の言葉が
脳裏に浮かばない日はない。

3.11では
古楽器工房にある
何十㎏もの工具が
まるで張り子のように
ひっくり返り、
足の踏み場もなかった。
パソコンもテレビも
床に投げ出された。
ギターも粉々になった。
破壊の限りを尽くす
自然の驚異に
身震いした。
そして、
その時、同時に、
2万数千もの命も
沿岸で奪われた。
普段は穏やかな海、
癒しをくれる海、
その海が荒れ狂い
多くの人々を呑み込んだ。
かと言って・・・
東北の人々は
「海を恨む」ということは
なかったと思う。
海が悪いのではないのである。
地震も自然の営みなのである。
我われは大いなる天地の間に
住まわざるを得ない
儚い生き物なのである。

「不幸中の幸い」とも言えるのが、
あの渦中、人々は助け合い、
励まし合い、慰め合ったことだ。
自分もまた、
関西在住の
元同僚や教え子たちから
大いなる慰めや支援を受けた。
ギターの弟子でもあった
ガッちゃんのご主人は、
元自衛隊員だったという事もあり、
遠路遥々、兵庫県赤穂市から
20㎏近い支援物資を携え、
新幹線の止まった中、
バスを乗り継いで
フクシマまで来て下さった。
その恩義は一生忘れられない。
自分もまた
原発爆発と津波で
沿岸部から避難してきた人々で
溢れかえる市内の体育館や
公民館など18ケ所を
ASD(急性ストレス障害)ケアの
ヴォランティアの為に廻っていた。
なので、
その寸暇に
フクシマ駅前で
ご主人から支援物資を
手渡され、そこで、
自衛隊式「敬礼」の互礼をし
「先生は、早く、避難所に
いらして下さい」
と促され、話をする間もなかった。
上空にはヘリが飛び交い
その轟音が絶えず耳に入り、
道路は自衛隊の国防色の車両が
行き交って、まるで、
戒厳令が発令されたかのような
かつて見た事のない、
映画のシーンのようでさえあった。

そのガッちゃんからは、
爾来、毎年3.11の日には、
「こころの支援」を贈って
頂いている。
きのうも
自分が食べて美味しかったから、
と高級焼き菓子の詰め合わせが
届いた。
自分ともガッちゃんとも
仲の良かった
養護教諭のハネちゃんからも
毎年のように
桃を贈って頂いていた。
「定年までは送るからね・・・」
と、年に一度、
電話で談笑していた彼女も
この三月で定年である。
私を支援することが、
フクシマや被災者を
間接的に支援することになるから、
と言う二人の思いを受けて
『復興支援リサイタル』を
6年も続けることができた。
毎年のアンケートを見るに、
のべ1000人以上の人々の
心を癒すことができたのは、
自分を支援してくだすった方々の
おかげと感謝している。
同じく元同僚で
同じ理科のQちゃんからも
『復興支援リサイタル』には
過分なカンパをお送り頂いた。
そして、教え子で
プロ・ピアニストの
オハギとイマダケちゃんは
ドイツと京都から
ヴォランティアで
参加してくれた。
⁂
ブログを再開した
2月初めから、
動画投稿のできる
フェイスブックには
一日一曲
『リュート・マラソン』
と名打って、
拙い演奏をアップし続けている。
この出口の見えないコロナ禍は、
3.11の時の出口の見えない
放射能汚染の恐怖にも酷似しており、
あの頃は「原発うつ」と言ったが、
今は「コロナうつ」が多発して
自殺者も増えている。
そこにきて、
ロシアの戦争勃発である。
自分もたいがい
気が滅入るが、
教育臨床でも、その影響は
顕著に出ており、
不定愁訴や抑うつ感を訴える
子どもたちが漸増している。
去年の十代の自殺者が
5百数十名にもなったというのも
由々しきことである。
だからこそなのか、
『復興支援リサイタル』のような
コンサート活動ができない現在、
多くの人々がYouTube発信を
始めたように、自分もまた、
「音楽による慰め」を
自分に出来るささやかな事として、
心理臨床家/音楽家として
やらせて頂いているのかもしれない。

きのうは
原発事故の特別避難地区にある
山間部の中学校の卒業式に
参列してきた。
卒業生4名、
在校生5名の
僻地校である。
卒業生の二人は
1年生から3年間、
ひとりは2年間、
もひとりは1年間、
それぞれカウンセリングで
相対してきたので、
四人とも教え子同様に
大切な子どもたちである。
その両親や母親たちとも
カウンセリングをしてきたので、
きのうは、ほんとうに心から
「おめでとうございました。
よかったですね」
というお祝いの言葉を
嬉しい気持ちで
保護者に申し上げることができた。

SCは
学校教育法の改正で、
「チーム学校」の一員として
明記されたので、
本来は、嘱託の会計年度職員の
身分ながら「職員」同様なのだが、
まだまだ
お客様扱いされる学校が多く、
きのうも式次第の「来賓」として
記銘されていた。
式場内は
職員、来賓、保護者とも
礼服の黒一式のなかにあって、
自分だけが、勇気が要ったが、
あえて「色物」的存在に徹し、
トリックスターとして
アズールとイエローの
「ウクライナ・コーデ」で臨んだ。
だから、そうとう、
目立っていただろう。
でも、華やいだ明るい
袴を着られる先生もおられるので、
黒一色のダークで厳粛な中に
卓上の花のごと
早春の青空と黄色い花を
ファッションで表現した。
そして、もちろん、
"華やぎ"だけではなく、
子どもたちの未来に
恒久平和があるようにという
願いと祈りをも込めたつもりである。
さすがに、
そこまでの意図を
汲み取ってくだすった方は
おられなかったようだが、
さして顰蹙を買う空気感も
感じられはしなかった。
場のなかにあって、
いちばんの年長者だからか、
普段から先生方に
指導助言をしている立場だからか、
あるいは、
(あのオッサンは変わりもんだから・・・)
と呆れられてるからか・・・(笑)。
⁂
いちばん長く
3年間カウンセリングをやった
Aちゃんに尋ねると
「顔出し、OKっすよ」
とのことだった(笑)。
彼女とは、
サマーコンサートの、
リコーダー&ギターのデュオで
『星に願いを』を
しんみりと演奏して
拍手喝采を得た。

ふだんは
一食350円の給食だが、
この晴れの日だけは、
3.542円もの
豪華な仕出し弁当だった(笑)。
卒業生、在校生を
全員、見送った後、
先生方全員が
ランチルームに集い、
式の無事成功を祝し
会食となった。

2時46分には、
テレビ中継のサイレンに合わせ、
画面の中の
三陸の防潮堤に並ぶ
子どもたちと共に
黙祷を捧げた。
何を思い出す事もなかったが、
一瞬、ジワリと
涙が込み上げた。
それは、
亡くなった方々への
憐憫の情なのか、
生き残った自分たちへの
サバイバーズ・ギルトなのか・・・。
3.11、パンデミック、
ウクライナ侵攻・・・と、
世界は今も憂いに覆われている。
【それでも生きていく・・・】
という、
あの時の決意の言葉が
脳裏に浮かばない日はない。

3.11では
古楽器工房にある
何十㎏もの工具が
まるで張り子のように
ひっくり返り、
足の踏み場もなかった。
パソコンもテレビも
床に投げ出された。
ギターも粉々になった。
破壊の限りを尽くす
自然の驚異に
身震いした。
そして、
その時、同時に、
2万数千もの命も
沿岸で奪われた。
普段は穏やかな海、
癒しをくれる海、
その海が荒れ狂い
多くの人々を呑み込んだ。
かと言って・・・
東北の人々は
「海を恨む」ということは
なかったと思う。
海が悪いのではないのである。
地震も自然の営みなのである。
我われは大いなる天地の間に
住まわざるを得ない
儚い生き物なのである。

「不幸中の幸い」とも言えるのが、
あの渦中、人々は助け合い、
励まし合い、慰め合ったことだ。
自分もまた、
関西在住の
元同僚や教え子たちから
大いなる慰めや支援を受けた。
ギターの弟子でもあった
ガッちゃんのご主人は、
元自衛隊員だったという事もあり、
遠路遥々、兵庫県赤穂市から
20㎏近い支援物資を携え、
新幹線の止まった中、
バスを乗り継いで
フクシマまで来て下さった。
その恩義は一生忘れられない。
自分もまた
原発爆発と津波で
沿岸部から避難してきた人々で
溢れかえる市内の体育館や
公民館など18ケ所を
ASD(急性ストレス障害)ケアの
ヴォランティアの為に廻っていた。
なので、
その寸暇に
フクシマ駅前で
ご主人から支援物資を
手渡され、そこで、
自衛隊式「敬礼」の互礼をし
「先生は、早く、避難所に
いらして下さい」
と促され、話をする間もなかった。
上空にはヘリが飛び交い
その轟音が絶えず耳に入り、
道路は自衛隊の国防色の車両が
行き交って、まるで、
戒厳令が発令されたかのような
かつて見た事のない、
映画のシーンのようでさえあった。

そのガッちゃんからは、
爾来、毎年3.11の日には、
「こころの支援」を贈って
頂いている。
きのうも
自分が食べて美味しかったから、
と高級焼き菓子の詰め合わせが
届いた。
自分ともガッちゃんとも
仲の良かった
養護教諭のハネちゃんからも
毎年のように
桃を贈って頂いていた。
「定年までは送るからね・・・」
と、年に一度、
電話で談笑していた彼女も
この三月で定年である。
私を支援することが、
フクシマや被災者を
間接的に支援することになるから、
と言う二人の思いを受けて
『復興支援リサイタル』を
6年も続けることができた。
毎年のアンケートを見るに、
のべ1000人以上の人々の
心を癒すことができたのは、
自分を支援してくだすった方々の
おかげと感謝している。
同じく元同僚で
同じ理科のQちゃんからも
『復興支援リサイタル』には
過分なカンパをお送り頂いた。
そして、教え子で
プロ・ピアニストの
オハギとイマダケちゃんは
ドイツと京都から
ヴォランティアで
参加してくれた。
⁂
ブログを再開した
2月初めから、
動画投稿のできる
フェイスブックには
一日一曲
『リュート・マラソン』
と名打って、
拙い演奏をアップし続けている。
この出口の見えないコロナ禍は、
3.11の時の出口の見えない
放射能汚染の恐怖にも酷似しており、
あの頃は「原発うつ」と言ったが、
今は「コロナうつ」が多発して
自殺者も増えている。
そこにきて、
ロシアの戦争勃発である。
自分もたいがい
気が滅入るが、
教育臨床でも、その影響は
顕著に出ており、
不定愁訴や抑うつ感を訴える
子どもたちが漸増している。
去年の十代の自殺者が
5百数十名にもなったというのも
由々しきことである。
だからこそなのか、
『復興支援リサイタル』のような
コンサート活動ができない現在、
多くの人々がYouTube発信を
始めたように、自分もまた、
「音楽による慰め」を
自分に出来るささやかな事として、
心理臨床家/音楽家として
やらせて頂いているのかもしれない。

きのうは
原発事故の特別避難地区にある
山間部の中学校の卒業式に
参列してきた。
卒業生4名、
在校生5名の
僻地校である。
卒業生の二人は
1年生から3年間、
ひとりは2年間、
もひとりは1年間、
それぞれカウンセリングで
相対してきたので、
四人とも教え子同様に
大切な子どもたちである。
その両親や母親たちとも
カウンセリングをしてきたので、
きのうは、ほんとうに心から
「おめでとうございました。
よかったですね」
というお祝いの言葉を
嬉しい気持ちで
保護者に申し上げることができた。

SCは
学校教育法の改正で、
「チーム学校」の一員として
明記されたので、
本来は、嘱託の会計年度職員の
身分ながら「職員」同様なのだが、
まだまだ
お客様扱いされる学校が多く、
きのうも式次第の「来賓」として
記銘されていた。
式場内は
職員、来賓、保護者とも
礼服の黒一式のなかにあって、
自分だけが、勇気が要ったが、
あえて「色物」的存在に徹し、
トリックスターとして
アズールとイエローの
「ウクライナ・コーデ」で臨んだ。
だから、そうとう、
目立っていただろう。
でも、華やいだ明るい
袴を着られる先生もおられるので、
黒一色のダークで厳粛な中に
卓上の花のごと
早春の青空と黄色い花を
ファッションで表現した。
そして、もちろん、
"華やぎ"だけではなく、
子どもたちの未来に
恒久平和があるようにという
願いと祈りをも込めたつもりである。
さすがに、
そこまでの意図を
汲み取ってくだすった方は
おられなかったようだが、
さして顰蹙を買う空気感も
感じられはしなかった。
場のなかにあって、
いちばんの年長者だからか、
普段から先生方に
指導助言をしている立場だからか、
あるいは、
(あのオッサンは変わりもんだから・・・)
と呆れられてるからか・・・(笑)。
⁂
いちばん長く
3年間カウンセリングをやった
Aちゃんに尋ねると
「顔出し、OKっすよ」
とのことだった(笑)。
彼女とは、
サマーコンサートの、
リコーダー&ギターのデュオで
『星に願いを』を
しんみりと演奏して
拍手喝采を得た。

ふだんは
一食350円の給食だが、
この晴れの日だけは、
3.542円もの
豪華な仕出し弁当だった(笑)。
卒業生、在校生を
全員、見送った後、
先生方全員が
ランチルームに集い、
式の無事成功を祝し
会食となった。

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