一夜明けても
吉田選手の敗戦の話題と
タカ・マツペアの金メダルで
どの局も盛り上がっている。
まさに
勝者と敗者、明と暗、
対照的な姿ではあるが、
どちらも人の生(よ)にある
人生の瞬間を
映し出しているように
感じられた。
殊に、
「霊長類最強」だの
「絶対女王」と称されていた
吉田選手の敗戦に伴う
哀しみ、辛さ、悔い…
といったネガティヴな感情は
誰しも思い当たることがあり、
同情の涙をこぼした人たちも
多かったことであろう。
今回の五輪で、
誰よりも、何よりも、
「王者も負ける」
ということの意味について
知らしめてくれた事こそ
偉大な功績だったと感じた。
そう…。
ヒトは、いつかは
負けるものなのである。
それは、ラテン語の
「メメント・モリ」
(いつか必ず死すことを忘れなよ)
という警句を
想い起こさせる。
どんな、
強者も賢者も富者も、
「死」に勝つことはできぬ。
そんな不条理とも思える
運命的な存在であるのが
ヒトというもので、
ならば何故に生を得ているのか、
という根源的な意味について、
我われは時として、
痛恨の敗北から学ぶことがある。
*
今日生まれた赤子でさえ
そのゴールは死である。
初めから死ぬと決まっていて
何故、生まれてくるのか?
生物学的には種の保存の為、
地球生命体の進化の為、
遺伝子の伝達の為…と、
説明されるだろう。
そもそも進化といっても、
宇宙は10の33年後に
膨張速度が光速を超えて
素粒子が崩壊し
消滅すると考えられている。
高度な知性体まで進化すれば、
あるいは、マルチユニバースと言われる
他の宇宙へと転移できる術が
可能になるのかもしれず、
また、不老不死の術も
得れるかもしれない。
それでも
「意識する存在」という立場は
普遍であり、やはり、
その存在の意味は何か、
という根源的な問題からは
逃れられない。
最近のスピリチュアルな書では、
「自分を体験するためである」
という答えに、
一応、辿り着いている。
「今、ここで
生きていることを味わうため」
と言ってもいいかもれしない。
*
宇宙では
相対的変化がないと
何も体験できない。
闇だけでも
光だけでも
何も見えないように。
「一にして全」では、
何も始まらず何も終わらない
「定常状態」だけが続いて、
それは「無」「真空」と同様である。
そこで
「生と死」
「勝ちと負け」
「+と―」
「NとS」
のような対極が生じてきたのである。
そして、
ヒトは意識というものを持って、
その変化の「ゆらぎ」の中で
「自分」という体験をしているのである。
これを「遊んでいる」と捕らえるか
「苦行」と捕らえるかは、
自分次第なのである。
*
伊調選手は
「亡き母が後押ししてくれて四連覇できた」物語を
我われに見せてくれ、
吉田選手は
「亡き父に力を貸してくれるよう祈ったが四連覇できなかった」物語を
我われに見せてくれた。
『日本怪談劇場』の
「耳なし芳一」を視ていたら、
聞き覚えのある声の和尚が登場し、
中村俊一という俳優をメモッて調べてみたら
『刑事コロンボ』の名作
「別れのワイン」のエイドリアン役
(ドナルド・プレザンス)の吹き替えだった。
シリーズ屈指の名作で
コロンビアン(コロンボ・ファン)なら
まず第一に挙げる作品なので、
すでに何十回観たかわからない。
それゆえ、
その吹き替えの声色が
引っ掛かったのは
当然過ぎることだったかもしれない。
ただ、中村俊一で検索しても
もはや画像では
一つもヒットしなかった。
以前から興味のあった
橘曙覧(たちばなのあけみ)の
『独楽吟』という五十二種の歌に
目を通して味わってみた。
すべて
「たのしみは~」
で始まり
「~とき」
で終わる歌である。
なかなかに
いい歌がいくつかある。
「いやなる人の来たりしが…」
では、
つい最近も、年に一度くらい
訪ねてくる嫌な人に
思ったことと同じく、
わかるワカルと小膝を打った。
吉田選手の敗戦の話題と
タカ・マツペアの金メダルで
どの局も盛り上がっている。
まさに
勝者と敗者、明と暗、
対照的な姿ではあるが、
どちらも人の生(よ)にある
人生の瞬間を
映し出しているように
感じられた。
殊に、
「霊長類最強」だの
「絶対女王」と称されていた
吉田選手の敗戦に伴う
哀しみ、辛さ、悔い…
といったネガティヴな感情は
誰しも思い当たることがあり、
同情の涙をこぼした人たちも
多かったことであろう。
今回の五輪で、
誰よりも、何よりも、
「王者も負ける」
ということの意味について
知らしめてくれた事こそ
偉大な功績だったと感じた。
そう…。
ヒトは、いつかは
負けるものなのである。
それは、ラテン語の
「メメント・モリ」
(いつか必ず死すことを忘れなよ)
という警句を
想い起こさせる。
どんな、
強者も賢者も富者も、
「死」に勝つことはできぬ。
そんな不条理とも思える
運命的な存在であるのが
ヒトというもので、
ならば何故に生を得ているのか、
という根源的な意味について、
我われは時として、
痛恨の敗北から学ぶことがある。
*
今日生まれた赤子でさえ
そのゴールは死である。
初めから死ぬと決まっていて
何故、生まれてくるのか?
生物学的には種の保存の為、
地球生命体の進化の為、
遺伝子の伝達の為…と、
説明されるだろう。
そもそも進化といっても、
宇宙は10の33年後に
膨張速度が光速を超えて
素粒子が崩壊し
消滅すると考えられている。
高度な知性体まで進化すれば、
あるいは、マルチユニバースと言われる
他の宇宙へと転移できる術が
可能になるのかもしれず、
また、不老不死の術も
得れるかもしれない。
それでも
「意識する存在」という立場は
普遍であり、やはり、
その存在の意味は何か、
という根源的な問題からは
逃れられない。
最近のスピリチュアルな書では、
「自分を体験するためである」
という答えに、
一応、辿り着いている。
「今、ここで
生きていることを味わうため」
と言ってもいいかもれしない。
*
宇宙では
相対的変化がないと
何も体験できない。
闇だけでも
光だけでも
何も見えないように。
「一にして全」では、
何も始まらず何も終わらない
「定常状態」だけが続いて、
それは「無」「真空」と同様である。
そこで
「生と死」
「勝ちと負け」
「+と―」
「NとS」
のような対極が生じてきたのである。
そして、
ヒトは意識というものを持って、
その変化の「ゆらぎ」の中で
「自分」という体験をしているのである。
これを「遊んでいる」と捕らえるか
「苦行」と捕らえるかは、
自分次第なのである。
*
伊調選手は
「亡き母が後押ししてくれて四連覇できた」物語を
我われに見せてくれ、
吉田選手は
「亡き父に力を貸してくれるよう祈ったが四連覇できなかった」物語を
我われに見せてくれた。
『日本怪談劇場』の
「耳なし芳一」を視ていたら、
聞き覚えのある声の和尚が登場し、
中村俊一という俳優をメモッて調べてみたら
『刑事コロンボ』の名作
「別れのワイン」のエイドリアン役
(ドナルド・プレザンス)の吹き替えだった。
シリーズ屈指の名作で
コロンビアン(コロンボ・ファン)なら
まず第一に挙げる作品なので、
すでに何十回観たかわからない。
それゆえ、
その吹き替えの声色が
引っ掛かったのは
当然過ぎることだったかもしれない。
ただ、中村俊一で検索しても
もはや画像では
一つもヒットしなかった。
以前から興味のあった
橘曙覧(たちばなのあけみ)の
『独楽吟』という五十二種の歌に
目を通して味わってみた。
すべて
「たのしみは~」
で始まり
「~とき」
で終わる歌である。
なかなかに
いい歌がいくつかある。
「いやなる人の来たりしが…」
では、
つい最近も、年に一度くらい
訪ねてくる嫌な人に
思ったことと同じく、
わかるワカルと小膝を打った。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます