看護士の小枝子が何気なく振り向くと、驚きのあまり手にしていたファイルを床に落っことした。
十年も昏睡していた少年が上半身をムックリ起こして鼻のチューブを今まさに抜こうとしていたからだ。
「先生―ッ!
朔ちゃんが、目を覚ましましたッ!」
小枝子は声を張り上げてドクターコールをした。
とたんに大学病院中に衝撃が走り各科の教授連が病棟へと駆けつけた。
初診時の主治医で十年前はまだ講師だった早川は、いまや小児科の准教授となっていた。
「朔ちゃん。わかるかい?」
早川は三才の朔に語りかけた。
目覚めたばかりでボンヤリとしていた朔は
「・・・・・・」
無言のまま自分をとり囲む白衣の集団をゆっくりと見まわした。
十年のコーマ(昏睡)から覚醒したレアケースは並みいる教授陣でさえ臨床経験がなかった。
さすがのプロフェッショナル集団もまるで竜宮城から還ってきた浦島太郎を見るが如くだった。
「おかあちゃんは?・・・」
朔は母の所在を尋ねた。
両親は、朔が三才のとき自動車事故で即死していた。朔だけが意識不明の重体だったが、奇跡的に命はとりとめた。
早川は、その事実を三才の朔に告げるのはまだ早いと判断して言葉を濁した。
「おかあちゃーんッ!・・・」
朔がベソをかきはじめると、小枝子がすかさずベッドサイドに進み、大きな赤ちゃんを胸に抱いた。
朔の意識は曇ることなく日増しに清澄さを増し、リハビリスタッフの献身的介護に支えられ運動機能も次第にとり戻してきた。
「サエコちゃん・・・」
「なーに?」
「ひとりで、オシッコしてきていい?」
小枝子は朔の劇的な快復経過に驚いていた。
「だいじょうぶ? 行けるの? ひとりで・・・」
「うん・・・。行けると思う」
「じゃ、行ってみようか・・・」
そう言うと、小枝子は母親のような慈愛の眼差しで朔を送りだした。
朔は足を不自由そうに引きずりながら数十メートルはあろうかというトイレを目指した。
そんなリハビリを繰り返していたある日のこと。
小児科病棟のICU(集中治療室)の前で女の人が泣いていた。
「残念ですが、今夜が山かと・・・。
意識のもどる見込みはないかと思います・・・」
そんな難しい言葉が朔の耳に入ってきた。
ガラス越しに見るとまだあどけない少女が機械に囲まれありとあらゆる管がつけられてちょうどスパゲッティに絡まっているようだった。
朔は足を引きずるように泣いてるその子の両親に近寄ると
「プーさんが欲しいんだって・・・。
家のベッドの上にある・・・」
と言った。
泣いてる母親が、朔のほうを振り返ると
「なーに?・・・。この子・・・」
と肩を抱く夫に尋ねた。
父親がすこし嗜めるように朔に言った。
「ぼく、ごめんね。
いま、うちの子が大変なんだよ・・・」
朔は悪びれるふうでもなく、今度はその父親に向かって囁いた。
「あのね。リナちゃんね・・・
プーさん連れてきて・・・って、言ってるよ」
「?・・・」
父親は混乱したような表情で
「何だって? 理奈が・・・」
「うん」
「どうして君は、そんなこと言うんだい?」
「なんなのよッ! この子・・・」
母親は声を荒げてとり乱しはじめた。
父親がそれを制していると、この騒ぎを聞きつけた小枝子が慌ててとんできた。
「どうされました?」
「看護婦さん。なんなんです? この子・・・」
「朔ちゃんが何か・・・」
「娘が危篤だって言うのに・・・。
プーさんが欲しいだなんて・・・。
悪ふざけにも度があるでしょッ!」
母親は怒りを顕らわにした。
父親はその肩を抱きながら、しばし冷静さをとり戻し、言葉をつないだ。
「ねえ、サク君? だっけ・・・」
「ええ・・・」
小枝子が応えた。
「どうして、ウチの子がプーさんが欲しい・・・って、知ってるの?」
母親はそんな馬鹿なことを真剣に少年に質している夫の顔をキッとした表情で睨んだ。
「だって、リナちゃんが言ってるんだもん・・・」
小枝子はハッとした。
なぜ朔が、昨晩、救命救急で入院した理奈のことを知っているのか・・・。
部屋にはまだネームプレートさえ入れられていないのに・・・。
「ねえ、朔ちゃん。
理奈ちゃんのプーさん、どこにあるの?」
小枝子が尋ねてみると
「ベッドの上に忘れてきたんだって・・・」
ここにおいて、夫婦は顔を見合わせた。
「ほんとに、プーさん、あるんですよ・・・」
父親が驚きの表情でポソリと語った。
小枝子がそれを受けて
「ベッドに? ・・・」
と尋ねた。
父親はコクリとうなずいた。
「なーに。あなたたち・・・」
母親が、信じられない、という表情でふたりの顔を睨んだ。
「リナちゃん。
はやく、プーさんに会いたいんだって・・・」
朔がつまらなそうにうつむいたままポツリと言った。
父親は小枝子の目をのぞき込むと二、三度ちいさくうなずいて妻に向かって言った。
「これから、家にもどって取ってくるよ・・・」
妻は無表情に固まったままもはや抗うでもなかった。
父親がタクシーを飛ばし家に戻るとプーさんは少年の言うとおり、チョコンとベッドの上にお座りしていた。
(これって・・・)
と父親は怪訝な気分を払えなかったが今は一刻も早く愛娘のもとにそれを届けるしかなかった。
黄色の可愛らしげなプーさんが娘の枕元に置かれると、殺伐とした集中治療室の空気がどことなく穏やかになった。
部屋に戻った朔のところに父親が顔をだした。
「朔くん。ありがとう・・・。
理奈がとっても喜んでいるみたいだよ・・・。
でも、不思議なんだ、おじさん・・・
どうして、朔くんがプーさんのことがわかったのかどうしても解らなくって・・・」
朔はしばらく困ったかのような表情をすると言った。
「パパ、ママ、ごめんなさい・・・だって」
「えっ?」
「リナちゃんが・・・」
「???・・・」
小枝子が訊いた。
「理奈ちゃんの声が聞こえるの?」
「うん・・・」
父親の顔が硬直した。
「どうして? ・・・
どうして、ごめんなさい、だなんて・・・」
「言うことをきかないで、飛び出しちゃったからでしょ・・・」
そうなのだ・・・。
親子三人でコンビニに寄ってレジをしている間に、まだ行っちゃいけないよ、という注意を聞かずにドアから飛び出して車に跳ね飛ばされたのである。
父親の頬に光るものが一筋流れた。
「理奈ぁ・・・」
すると、突然朔は自分のベッドから跳ね起きて、不自由な足を引きずって廊下に飛び出した。
小枝子と父親はたまげて
「どうしたのッ?
ねぇ、朔ちゃんッ!」
朔は猛烈な勢いで応えもせずにICUに向かっている。
父親もただ事じゃない様子に度肝を抜かれた。
小枝子がやっと朔の腕をつかむと
「はなしてッ! サエコちゃん。
リナちゃんが、たいへんなんだッ!」
父親の顔面が蒼白になった。
小枝子はハッとなり朔の腕をつかむなり走った。
朔が引きずられるようにICUに到着するとガラス越しに
「リナちゃーんッ!
ダメだーッ!
その子たちといっちゃ、ダメだーッ!」
と体を折り曲げて絶叫した。
何事が起きたかと、父親も母親も、そして看護士、医師たちもあっけにとられていたが、途端にバイタルランプが点滅しだし、ピーピーピーというけたたましい警告音が部屋中に鳴り響いた。
血圧、心拍数が低下しだしたのだ。
「いやーッ!」
母親が絶叫した。
父親も茫然と立ち尽くしたままだった。
担当医や早川たちが理奈の周りにワラワラと集まって、強心剤を注入したり除細動器をチャージし始めた。
スタッフ外の小枝子は朔を背後から抱きながら救急スタッフの処置に目を奪われていた。
「その子をつれていくなーッ!
ぼくがいくーッ!
ぼくをかわりにつれていけーッ!」
小枝子の腕のなかで朔が絶叫した。
「待てッ!」
担当医が当てようとしていたフルチャージ電極を早川が制止した。
数秒して、警告音が鳴り止み心拍・血圧のバイタル値が安定し始めた。
「朔ちゃんッ! 朔ちゃーんッ!」
廊下で小枝子が絶叫した。
腕の中の朔がグッタリしてピクリともしなかったからだ。
ICUでは、理奈の小指がピクリと動いた。
「先生ッ!」
担当医が早川を信じられないという顔で見た。
次の瞬間。
理奈の目蓋が開いた。
そして
「ママぁ・・・」
と小さな声を上げた。
「嘘だ・・・」
早川が漏らした。
母親は両手を唇に当てると娘の枕元にひざまずいた。
「理奈ちゃんッ!」
理奈の目にはしっかりと光が戻ってきていた。
「ママぁ・・・
おみずぅ・・・」
看護士が飛んでいって吸い口を持ってきた。
母親がそれを受けとると
「理奈ちゃん。
はい・・・お水よ・・・」
と震える手で娘の口に水を流し込んだ。
父親は涙で顔をクシャクシャにさせながら娘の前髪を慈しむように梳いていた。
「パパぁ・・・」
「・・・? なんだい?」
「おにーちゃんは? どこ?」
「・・・・・・」
それが朔のことだと気がつくのに父親は数秒を要した。
そして、ガラス越しに廊下を振り向くと小枝子の腕の中に抱かれたまま微動だにしない朔に目をやり・・・
「おにいちゃんは・・・
あそこにいるよ・・・」
と、やっと声に出した。
すると、理奈がパーッとした笑顔になって
「おにーちゃん。
おそらがとべるようになったんだって!
いいなぁー・・・」
と言った。
小枝子はもう二度と目覚めることのない少年の安らかな寝顔に頬ずりをした。
「朔ちゃん・・・
お母さんと、お父さんに・・・
逢えるんだね・・・」
*