
チャイムの音がした。
「はーい」
「・・・あの、水島ですが」
「お待ちしていました。どうぞ、お入りください」
その患者・水島 奈緒美は、スラリとして都会的な顔立ちをした、なかなかの美人だった。
***
私はカルテを手にするとソファに深々と腰を沈めた。
年齢を聴くと二十七歳とのことだった。
主訴は入眠困難、中途覚醒、早朝覚醒・・・そして気力減退、厭世感、気分の日内変動という。
明らかに欝の所見である。
心因を尋ねると、父親が亡くなったばかりだ、という。
なら、無理もない。典型的な対象喪失性の欝である。
彼女は父ひとり娘ひとりの父子家庭であったので天涯孤独になったという。
「じつは・・・。父の死についても、母の死についても、何かひっかかるものがあって・・・」
そう言うと、奈緒美は奥歯に物が挟まってでもいるように、もどかしそうにうつむいた。
「と、いいますと?」
「はい・・・」
奈緒美はなかなか心の鍵を開けずにいた。
「なんでも、どうぞおっしゃって下さいね・・・」
そう言うと、私はしばしの時間を彼女に与えた。
奈緒美は意を決したようにポツリ、ポツリと語りだした。
父親は、脳梗塞で要介護の老人だった。
ある日、ヘルパーさんが帰った後、奈緒美が作った「おでん鍋」のモチ入り巾着を咽につまらせて、救急に運んだのだが結局は手遅れになって亡くなったという。
「それは、ご自分の責任だ・・・と、どこかでお考えなんですか・・・」
彼女は弱々しく首を折った。
母親はというと、奈緒美の高校時代に、修学旅行に持参する旅行用バッグをデパートに買いに出かけた帰り道に、無免許高校生のバイクに追突されて脳挫傷で亡くなったという。
なるほど、両親どちらの死も彼女がらみには違わなかった。
旅行代理店に勤める彼女は、友人の勧めで、ある日、拝み屋さんに自分の前世やら因縁、墓相などを見てもらったという。
「それで、どうだったんですか?」
「はい。なんだか、私は昔・・・武士だったらしく、
なんでも・・・無礼を働いた町人を切り捨てた、というので、その恨みをかったまま、前世は終わったらしいんです・・・」
「それが、ご両親の死と関係があると・・・」
「ええ・・・」
「納得はされました?」
「いえ・・・。なんだか、ピンとこなくって・・・」
それから、しばらく生育歴などを聞いてから彼女を退行催眠に誘ってみた。
それは、被験者を催眠状態にし年齢をさかのぼらせて、トラウマや自責感の生じた頃の感情を再体験させることによって健常な自我を再構築しよう、という狙いのセラピーである。
私はそれに、近年、欧米で注目されつつある前世療法というものをバッテリーさせてみようと思った。
***
カウチに横になった彼女はやすやすと催眠状態に陥った。
「はい・・・。あなたは今、二十七歳の会社員です。
さあ・・・。だんだん、若くなってハタチの頃を想い出しましょう。
どんな風景が見えますかぁ? 」
「お父さんと・・・
一緒に食事をしてます・・・
成人式の晴れ着・・・」
奈緒美は、二十歳の風景の断片をジグソー・パズルのピースを集めるように脈絡なく語り出した。
「さあ・・・。こんどは、十五歳・・・。
あなたは中学生です。
教室の中が見えますかぁ・・・?」
しばらくして、奈緒美はゆっくりとうなずいた。
「そこに、誰がいるのかおしえて下さい・・・」
「アンちゃん・・・。
キミちゃん。ヤスコ・・・。
片桐くん・・・・・・」
「好きな人は、そこにいますか?」
「いいえ・・・」
「それでは、今度は小学校に行ってみましょうか・・・。
今、3年生です・・・。
先生は誰ですかぁ・・・? 」
「コンドー・・・ヨシコせんせい・・・」
「あなたは今、何をしていますかぁ・・・?」
「お習字をしてます・・・」
「何て、書いてるんでしょうねぇ・・・」
「登山・・・」
「じょうずに書けていますかぁ・・・?」
奈緒美はうなずいた。
「それじゃー・・・こんどは、保育園に入ってみましょう・・・。
あなたは、今、年長さんです・・・。
お昼寝から、目が覚めたばっかりですねぇ・・・。
そこは、何組ですかぁ・・・?」
「ゾウ組・・・」
「となりにいる子は誰ちゃんなの? ・・・・・・」
「あすかちゃん・・・」
***
なかなか順調にさかのぼってきた。
「さあ・・・。今、あなたは、ベッドでキョロキョロ、キョロキョロ・・・天井を見まわしています。
きのう、生まれたばっかりです。
どんなものが、今、見えていますかぁ・・・」
「白いもの・・・」
「はい・・・。それでは、こんどはお母さんのお腹の中にもどってみましょうか・・・」
そう言って、しばらくすると、彼女は苦しげな表情をして腕を胸の前に縮ませた。
母体の産道を通るときの締めつけ感なのだろう。
そして、それはすぐに穏やかな安らぎの表情に変わった。
いくぶんか笑みさえ浮かんでいる。
きっと子宮内の羊水に浮かんでいるのに違いない。
「奈緒美さ~ん。聞こえますかぁ~?」
彼女はほんの数ミリだけ首を縦に動かした。
「今・・・何が、聞こえていますかぁ・・・」
これには返答にかなりの時間が要した。
胎児になりきった彼女の認知システムが、処理のおそいPCのようにビット数がダウンしたかのようだった。
「タイコ・・」
と、微かに唇が動いた。
太鼓・・・。
それは、おそらくは胎内では大きく響いているであろう母親の鼓動音かもしれない。
私はやや緊張した。
「さぁ・・・。遠くの方に白ーい、うすーい幕がありますよ・・・。
ゆーっくり・・・と、そちらの方へ近づいてみましょうかぁ・・・」
奈緒美は無表情のままで、何の反応も示さなかった。
胎児の世界観は未知なるものなので、私はただ、
観察するのみであった。
「さぁ・・・。あなたは、今・・・幕の前に、立っていますね・・・」
1分ほどして奈緒美は恐ろしくゆっくりと首を倒した。
「さぁ・・・。それでは、そこに手をかけて、その幕の向こうをちょっとだけ、のぞいてみましょう・・・」
奈緒美は硬直したままだった。
「だいじょうぶですよ・・・。
怖くないですよ・・・。
さぁ・・・」
瞬間、奈緒美は苦悶の表情を呈した。
(マズイッ・・・)
と思った。
そして、これ以上の退行を断念してリアルタイムに戻そうと決断した時だった。
「おまえは、だれだッ・・・」
・・・という、野太い「男の声」が、奈緒美の口から出た。
私はゾクッとして、思わず、ペンを床に落とした。
男は怒鳴るように言った。
「なぜ、ここにいるッ!」
私はペンを拾うことも忘れ
「あ、あなたは、誰ですか・・・?」
と震える声で尋ねた。
「わしは、オギノヤスキチだ・・・」
と言った。
「あなたは、い今、どこに・・・
おられるのですか?」
と一気呵成に訊いた。
「ミマサカの
ナカノゴオリじゃ・・・」
そこまで言うと、奈緒美は苦悶の表情から顔面蒼白になりはじめた。
かなりヤバい。
私は、危険と判断して、すぐさま順行催眠に切り替えた。
「さぁ・・・。あなたは、今、こちらに戻ります・・・。
もう、白い幕からは離れました・・・」
そして、順に、順に、加齢させて、どうにか現在まで戻しおおせた。
「さぁ・・・。ゆっくり、目を覚ましてみましょう・・・。
とても、穏やかな気分になっています・・・」
と誘導すると、奈緒美は薄っすらと目蓋を開いてくれた。
私は安堵に胸をなでおろした。
***
私は奈緒美に「オギノヤスキチ」なる人物を知らないか尋ねてみたが、案の定、知る由もなかった。
ミマサカ・・・つまり「美作」は、今の岡山県北東部に相当するあたりだと思うが、これについても奈緒美は何の知識も持たなかった。
私は、催眠中、彼女が人格交代したことについてはいっさい告げなかった。
パキシル10mg 3T
ソラナックス20mg 3T
レンドルミン20mg 1T
それぞれ1週間分の処方箋と次回の診察予約表を彼女は渡されて帰っていった。
あの声は、一体なんだったんだろう。
***
私は、土日の休診を利用して、名古屋から新幹線で岡山まで来ていた。
お昼は、有名な「魚嘉」という鮨屋で軽く一杯やった。
それから、タクシーに乗り旧美作藩のある辺りの古刹を尋ねてみた。
何のアポもなく飛び込みで寺の社務所を訪れてみたが、思いのほか、ご住職や寺男さんが親切に対応してくれた。
私の目的は人別帳の調査にあった。
もしも檀家であれば、そこには亡くなった人たちの名前が古くは江戸時代くらいまで記録されているはずである。
私は、その閲覧を申し出ると、ご住職はさして深いワケも尋ねずに庫裏から埃のかぶった和綴じの冊子の束を寺男に持ってこさせた。
私は恐縮しながら本堂の隅をしばらく借りて分厚く茶色に染み焼けた幾冊もの紙束と格闘しなければならなかった。
毛筆の走り書きはそれぞれ代々の住職の癖もあり判読に骨を折ったが、一日目は、たいした収穫もなかった。
私はご住職に事の顛末を正直に話して本堂の片隅に一夜の宿泊を許された。
翌朝は、寺男さんの差し入れてくれた特大握り飯と厚切りの沢庵を頬張りながら、さっそく検索作業に精を出した。
今日中に帰らねば明日の診療に差し支えるので、祈るような気持ちで私は膨大な資料の頁を繰っていった。
そして、ちょうど昼頃。
とうとう私は「中野郡 荻野 安吉」なる実在の人物を発見した。
寛永5年とあった。
しかも、「慙死」と一筆あった。
どうも下級武士のようである。
(殺されたんだ・・・。この人)
ナカノゴオリというのは、今では全くないが、当時のこの近辺にあった郡らしい。
***
私は、お寺の方々に厚くお礼を述べると、調査結果に満足して帰京した。
道すがら『のぞみ』の中で、慙殺された下級武士・荻野 安吉と水島 奈緒美のラインが、いかにして結びつくのか、どう考えても分からなかった。
奈緒美が2回目のセラピーにやってきた。
だいぶ夜、休めるようになったという。
気分も少し、落ち着いたらしい。
抗鬱剤は通常、3週間くらいで効くものだが、安定剤が思いのほか奏効したようだ。
「この一週間で何か変わった事がありましたか?」
奈緒美はちょっと間を置いて
「こないだの催眠をしてから何度か変な夢を見たんです」
と言った。
「どんな?」
「はい・・・。
なんだか、汚い着物を来たお侍さんが町人の夫婦を刀で斬って殺してしまうんです・・・」
「どういう場面なの?」
「さぁ・・・。よくは覚えていないんですが・・・。
なんだが、夫婦ものは駆け落ちしようとしている感じで・・・」
「じゃ、侍はその女性に振られた腹いせみたいなのかしらん・・・」
「ああ・・・。そんな、感じみたいでした・・・。
なんか、嫉妬の感情のような・・・」
「ほぉ・・・。
それを感じました?」
「いや・・・
夢ではそう思いませんでしたが、今、当てはめてみるとなんとなく腑に落ちるような気がして・・・」
「なるほど・・・」
ここで私は切り込んでみた。
「水島さんがこないだ言ってた、昔、前世は侍だった・・・という、拝み屋さんの言った侍と、夢に出てきた侍はどこか関係ありそうですか?」
「・・・・・・・・・」
奈緒美は急に絶句して、うつむいた。
「水島さん・・・」
返事がなかった。
「奈緒美さん・・・」
そう呼びかけると、ギロリと鋭く目をむいた奈緒美が、顔をあげ
「だから、殺してやったんだ・・・」
と、荻野 安吉に、豹変して、笑った。
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