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閉塞状況とは外に壁があるのではない。
自分を変えようとしないところから始まる。
養老 孟司
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『カナ研』こと「カナリ研究会」は細々ながらも続いていたが、ここにきて、「奨励会」所属の女流棋士たちも参加するようになった。
下は小学生の初段から、上は二十代までの5人である。
あの公開対局をした中村初段も当然ながらメンバーに加わり、月に一度の会で「女神様」の謦咳に接する喜びを感じていた。
女流棋士会の為には、年に一度の研修会に「特別講師」を引き受けることになった。
また、時間に余裕があれば、師匠の故郷である瀬戸市のために、「将棋祭り」にも顔を出し、名誉市民だった師匠の跡を継ぐことにもなった。
不二家のチョコのCM、伊藤園の「おーいお茶」のCMも師匠の跡を継いだ。
他にも、愛聖園の理事職も受け・・・と、八面六臂の活躍だった。
棋戦は、八大タイトルの防衛という大事業にのみ心血を注ぎ、他の公式戦やイベント大会はすべて出場を見合わせた。
それでも、「将棋の普及」という事に於いては、いささかも手を抜いてはいなかった。
マスコミも将棋界のドル箱を見逃すはずもなく、ライターによる著作集や新聞社による写真集まで亡き師匠に迫るほどの版数が出版された。
なかには、本人も苦笑するものがあった。
『美棋神 降臨❣』
『天才〈女〉棋士 伝説』
『カナリの、かなりな日々』
本人も大手出版社に口説き落とされ、渋々、一冊の『自選 棋譜集』解説本を書いたが、その発売記念サイン会では、将棋会館から数百mもの長蛇の列が連なり、会館職員が交通整理に立つほどであった。
ワイドショーの取材班も殺到し、カナリ自身がそのフィーバーぶりにいちばん驚いた。
その印税のすべては『愛聖園』に寄贈した。
カナリにとって、目指すべき峰に掲げられた旗は「二代目」の「永世八冠」であった。
そのためには、なんとしても、八大タイトルを五期ずつ取らねばならなかった。
その偉業を成し遂げても、「8×5」でタイトル40期どまりで、師匠の持つ「100期」の半分にも満たなかった。
それほどに、父の持つタイトル数は、真の偉業に相応しかった。