イエス・キリストの十字架、復活、そして「いのち」にあずかるということについて
平成隠れキリシタン
イエスとつながりあう
「いましばらくで世はもうわたしを見なくなります。しかし、あなたがたはわたしを見ます。わたしが生きるので、あなたがたも生きるからです。
その日には、わたしが父におり、あなたがたがわたしにおり、わたしがあなたがたにおることが、あなたがたにわかります。」(ヨハネ14:19-20)
---
「わたしが父におり、……」のくだりは、英語聖書NKJでは 、
"I am in My Father, and you in Me, and I in you." となっている。
御父にあるイエス。
「あなた」は、そのイエスのうちにあり、そしてそのイエスは「あなた」のうちにある。
「その日」、すなわち復活のイエスに出会って「あなたがたも生きる」日には、イエスとその人との関係は、そのように互いが互いのうちにあるようになる。
その人は、御父にあるイエスの一部となる。
また、そのイエスは、その人の一部になって下さるのである。
御父にあるイエスが、その人の一部になって下さるというのは、その人が義と認められたということである。
イエスの復活と同じようにして御父によってよみがえった人は、その罪深い肉にもかかわらず、義(正しい)とみなされる。
「みなされる」というからには、本来の罪深さそのものに変わりはない。
だが、その罪深さが御父によって赦されたのである。
罪は律法によるのだから、イエスの歩む狭き道を歩んでよみがえったということは、結局モーセのその律法から解放されて自由になることを意味する。
律法は最後まで存在する神の秩序なのであるが(マタイ5:18)、その人は律法に死んで恵みに生きるのであって、だからこそ律法の役割が貴重なのだともいえる。
そして「その日」、その人はイエスの一部になることができる。
律法その他の介在物なしに、イエスとつながりあうのである。
このことは、このヨハネ福音書のこれから先、通奏低音として流れ続ける。
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[付記]
本日の記事は、2009年4月26日付記事からのものです。
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その日には、わたしが父におり、あなたがたがわたしにおり、わたしがあなたがたにおることが、あなたがたにわかります。」(ヨハネ14:19-20)
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「わたしが父におり、……」のくだりは、英語聖書NKJでは 、
"I am in My Father, and you in Me, and I in you." となっている。
御父にあるイエス。
「あなた」は、そのイエスのうちにあり、そしてそのイエスは「あなた」のうちにある。
「その日」、すなわち復活のイエスに出会って「あなたがたも生きる」日には、イエスとその人との関係は、そのように互いが互いのうちにあるようになる。
その人は、御父にあるイエスの一部となる。
また、そのイエスは、その人の一部になって下さるのである。
御父にあるイエスが、その人の一部になって下さるというのは、その人が義と認められたということである。
イエスの復活と同じようにして御父によってよみがえった人は、その罪深い肉にもかかわらず、義(正しい)とみなされる。
「みなされる」というからには、本来の罪深さそのものに変わりはない。
だが、その罪深さが御父によって赦されたのである。
罪は律法によるのだから、イエスの歩む狭き道を歩んでよみがえったということは、結局モーセのその律法から解放されて自由になることを意味する。
律法は最後まで存在する神の秩序なのであるが(マタイ5:18)、その人は律法に死んで恵みに生きるのであって、だからこそ律法の役割が貴重なのだともいえる。
そして「その日」、その人はイエスの一部になることができる。
律法その他の介在物なしに、イエスとつながりあうのである。
このことは、このヨハネ福音書のこれから先、通奏低音として流れ続ける。
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[付記]
本日の記事は、2009年4月26日付記事からのものです。
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イエスのわざ
「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしを信じる者は、わたしの行なうわざを行ない、またそれよりもさらに大きなわざを行ないます。わたしが父のもとに行くからです。」(ヨハネ14:12)
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ここでいうわざとは何だろう。
五千人の給食をすることだろうか。
ラザロを生き返らせることだろうか。
そういったことは、いわゆるにせキリストでもできることであり、それによって私たちを惑わそうとするかも知れない。
そうではなく、イエスのわざとはこれからイエスがしようとしていることであり、死んでよみがえることである。
そのイエスの道に従って、イエスを信じる私たちも十字架の苦しみののちに復活する。
そのとき、肉とは何か、またこの肉に罰を与え続けた律法とは何かが分かって、私たちはそういったものから解放されるだろう。
人が変わるのでは、まったくない。責めるものから解放されるのである。
イエスを信じる者は、このよみがえりという最大のわざを行う。
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ここでいうわざとは何だろう。
五千人の給食をすることだろうか。
ラザロを生き返らせることだろうか。
そういったことは、いわゆるにせキリストでもできることであり、それによって私たちを惑わそうとするかも知れない。
そうではなく、イエスのわざとはこれからイエスがしようとしていることであり、死んでよみがえることである。
そのイエスの道に従って、イエスを信じる私たちも十字架の苦しみののちに復活する。
そのとき、肉とは何か、またこの肉に罰を与え続けた律法とは何かが分かって、私たちはそういったものから解放されるだろう。
人が変わるのでは、まったくない。責めるものから解放されるのである。
イエスを信じる者は、このよみがえりという最大のわざを行う。
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私たちはどこへ行くのか
「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。
わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。
わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。
わたしの行く道はあなたがたも知っています。」(ヨハネ14:1-4)
---
弟子たちにイエスが語り続ける。
イエスは私たちの場所を、あらかじめ備えてくださっている。
その上で、「また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます」。
そこでは、復活のイエスと私たちとがともに過ごすのである。
だから、私たちはどこへ行くのかをよく知っている。
そのイエスを信じるとき、心を騒がす必要はない。
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わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。
わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。
わたしの行く道はあなたがたも知っています。」(ヨハネ14:1-4)
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弟子たちにイエスが語り続ける。
イエスは私たちの場所を、あらかじめ備えてくださっている。
その上で、「また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます」。
そこでは、復活のイエスと私たちとがともに過ごすのである。
だから、私たちはどこへ行くのかをよく知っている。
そのイエスを信じるとき、心を騒がす必要はない。
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お大切
「さて、過越の祭りの前に、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知られたので、世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された。
……
あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。
もしあなたがたの互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」(ヨハネ13:1,34-35)
---
古来、日本のキリシタン達は、愛を「お大切」と言っていた。
私が耳にした話では、当時のイエスズ会(?)が聖書を日本語に翻訳する際に、直訳して「愛」とはせずに「お大切」と、いわば意訳したとのこと。
なぜかというと、当時の日本語では「愛」という言葉は良い意味合いではなかったからだとか。
今日の日本でも、「愛」という言葉には茫漠とした印象を私は持つ。
さてイエスが与える新しい戒め、それは旧来の律法とは全く異なる。
「あなたがたは互いに愛し合いなさい」、つまり、互いに大切にしあいなさい、そういう戒めだ。
この新しい戒めを遵守することにより、近年の心理学者マズローが指摘した「承認欲求」(周りからその存在を承認されたい欲求)を、互いに満たし合うことが叶うだろう。
ベストセラー「悩む力」(姜尚中 著)という駄本にすら、「相互承認」という同様のことばが登場するが、それほど人は他人から承認されたがっている。
だから、その人を承認して大切にするということは、その人を愛するということに直結する。
イエスの「新しい戒め」は、理に叶っているのだ。
ならばそうすればいいに決まっているのに、人はなぜ、こうも人を愛せないのだろう。大切にできないのだろう。
「世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された。」
端的に言えば、世に愛はない。
この世においては、相手を大切になど、してはいない。
一見大切にしているように見えて、実は自分「だけ」の利得を追い求めている。
「金の切れ目が縁の切れ目」、これが世である。
そうではなく、イエスがこの洗足の場面で大切にした人々は、「世にいる自分のもの」である。この「世」ではない。
世のごく一部に、(やみを愛するのではなく)光の方にやってくる人がいる(参/ヨハネ3:19-21)。
そのような人たちの中で、イエスが奴隷になって足を洗った如く互いに仕え合って、互いに承認し合う。これが本来のエクレシアであるはずだ。
イエスが与えられた「新しい戒め」は、互いに大切にし合うことで相手に喜びを与え、自分も喜びを得るものである。
---
[付記]
本日の記事は、2009年4月12日付記事に筆を加えたものです。
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……
あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。
もしあなたがたの互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」(ヨハネ13:1,34-35)
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古来、日本のキリシタン達は、愛を「お大切」と言っていた。
私が耳にした話では、当時のイエスズ会(?)が聖書を日本語に翻訳する際に、直訳して「愛」とはせずに「お大切」と、いわば意訳したとのこと。
なぜかというと、当時の日本語では「愛」という言葉は良い意味合いではなかったからだとか。
今日の日本でも、「愛」という言葉には茫漠とした印象を私は持つ。
さてイエスが与える新しい戒め、それは旧来の律法とは全く異なる。
「あなたがたは互いに愛し合いなさい」、つまり、互いに大切にしあいなさい、そういう戒めだ。
この新しい戒めを遵守することにより、近年の心理学者マズローが指摘した「承認欲求」(周りからその存在を承認されたい欲求)を、互いに満たし合うことが叶うだろう。
ベストセラー「悩む力」(姜尚中 著)という駄本にすら、「相互承認」という同様のことばが登場するが、それほど人は他人から承認されたがっている。
だから、その人を承認して大切にするということは、その人を愛するということに直結する。
イエスの「新しい戒め」は、理に叶っているのだ。
ならばそうすればいいに決まっているのに、人はなぜ、こうも人を愛せないのだろう。大切にできないのだろう。
「世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された。」
端的に言えば、世に愛はない。
この世においては、相手を大切になど、してはいない。
一見大切にしているように見えて、実は自分「だけ」の利得を追い求めている。
「金の切れ目が縁の切れ目」、これが世である。
そうではなく、イエスがこの洗足の場面で大切にした人々は、「世にいる自分のもの」である。この「世」ではない。
世のごく一部に、(やみを愛するのではなく)光の方にやってくる人がいる(参/ヨハネ3:19-21)。
そのような人たちの中で、イエスが奴隷になって足を洗った如く互いに仕え合って、互いに承認し合う。これが本来のエクレシアであるはずだ。
イエスが与えられた「新しい戒め」は、互いに大切にし合うことで相手に喜びを与え、自分も喜びを得るものである。
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[付記]
本日の記事は、2009年4月12日付記事に筆を加えたものです。
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