弁解の余地

 「もしわたしが来て彼らに話さなかったら、彼らに罪(註:罪責)はなかったでしょう。しかし今では、その罪について弁解の余地はありません。
 わたしを憎んでいる者は、わたしの父をも憎んでいるのです。
  もしわたしが、ほかのだれも行なったことのないわざを、彼らの間で行なわなかったのなら、彼らには罪(註:罪責)がなかったでしょう。しかし今、彼らはわたしをも、わたしの父をも見て、そのうえで憎んだのです。」(ヨハネ15:22-24)

註:新改訳第二版の注釈より。
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 イエスは律法について、つまり肉の罪についての人々の誤りを認めさせようと、話したり、あるいは、神の子であることの証明としてのわざを行ったりもした。
 罪を罪として認めない限り、父との和解という救いはないからだ。
 もしこのイエスが来ていなかったとしたら、自分の罪について知らなかったのだという弁解もできただろう。

 神の律法が罪のリトマス試験紙であり、すべての試験をクリアできる義人はいない(参/ローマ3:10)。
 ところがパリサイ人はこの律法を守れるとして種々行ない、のみならず他人にまで押しつける。
 イエスが来ても、自分に罪があるなどとはつゆだに思わない。
 そんな彼らに弁解の余地はないのであり、そのことはイエス以来のほぼ全ての肉がそうである。
 バプテスマを受けに来たのは、むしろ取税人や遊女たちであった。

 だから救われるためには、イエスに聴いて罪を罪と分かることにある。
 それはもっぱら、恵みによる。

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