つまずくことのないために

 「これらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがつまずくことのないためです。
 人々はあなたがたを会堂から追放するでしょう。事実、あなたがたを殺す者がみな、そうすることで自分は神に奉仕しているのだと思う時が来ます。
 彼らがこういうことを行なうのは、父をもわたしをも知らないからです。
 しかし、わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、その時が来れば、わたしがそれについて話したことを、あなたがたが思い出すためです。わたしが初めからこれらのことをあなたがたに話さなかったのは、わたしがあなたがたといっしょにいたからです。」(ヨハネ16:1-4)

---

 会堂というのはシナゴーグ、すなわち、コミュニティーそのもの。
 そのコミュニティーから追放されるであろう、そうイエスはそう話す。
 神も神の子も分からない闇は、そうではない光を放逐することこそ良いことだと思っているのである。

 コミュニティーからの追放というのは、大きな逆境だ。
 だがそれでも、光がつまずくことはない。
 何故なら、イエスからあらかじめ知らされていたことが起こったというだけのことだからである。
 いわば予定の範囲内なのであるから、光は、ますます光としての確信を強める。
 このように、イエスと出会って「いのち」をいただいた人が、「いのち」からつまずくことはない。
 闇と比べて、「いのち」、解放された肉があまりにも素晴らしいものだからである。

---

[付記]
 本日の記事は、2009年5月24日付記事に加筆を施したものです。

 よろしければクリック下さい。
にほんブログ村 哲学ブログ キリスト教・クリスチャンへ ブログランキングへ

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )