私に聞きなさい

 「主を恐れよ。その聖徒たちよ。
 彼を恐れる者には乏しいことはないからだ。
 若い獅子も乏しくなって飢える。
 しかし、主を尋ね求める者は、
 良いものに何一つ欠けることはない。
 来なさい。子たちよ。私に聞きなさい。
 主を恐れることを教えよう。」(詩34:9-11)

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 「私」に聞け、そうすれば教える、のだそうだ。
 主への畏れを教えてくれるのである。
 「私」とは、キリストである。
 キリストの十字架と復活を教わるとき、神を畏れるということが実感を伴ってはっきりと分かる。
 そのことを言葉にすることに難しさを感じるのだが、神という唯一絶対上位の存在を見いだし、恐れ、ひれ伏し、また、その神の恩寵の中で生かされる、そういったところだろうか。
 そのことを、キリストから直接教わる。

 主を畏れる者は主に寄り頼まざるを得ないので、乏しいものは何もない。
 足ることを知っている。
 獅子のような強者は、強者故に主を畏れることを知らず、自分の力にのみ頼ってどこまでも求めるので、結局飢える。

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幸いへの道

 「幸いなことよ。
 そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は。
 幸いなことよ。
 主が、咎をお認めにならない人、
 心に欺きのないその人は。
……
 わたしは、あなたがたに悟りを与え、行くべき道を教えよう。
 わたしはあなたがたに目を留めて、
 助言を与えよう。」(詩32:1-2,8)

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 ダビデのマスキール。

 肉の罪は肉である以上、生ある限りつきまとう。
 罪をなくすことなどできず、消失することはない。
 主が与えてくださるものは、罪の消失ではなく、罪の赦しである。
 主が罪をおおった人、主が咎を認めなかった人。
 この人々は幸いだ。

 この幸いへの道、行くべき道は、キリストによって開かれた。
 極刑の十字架と、その後の復活が、その道である。
 極刑を受けるべき人間の肉には身代わりの処罰が下され、その処罰が神に承認された結果よみがえる。
 この「死んで生きる」という道をキリストは開いたのであり、そして私たちはこの道を知ろうとしている。
 主から悟りや助言を与えられてこの狭き道を教えられた人々こそ、ほんとうに幸いである。
 この道こそ畑の中の宝、すばらしい値打ちの真珠(マタイ13:44-46)なのだ。

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偶像礼拝

 「私のたましいを御手にゆだねます。
 真実の神、主よ。
 あなたは私を贖い出してくださいました。
 私は、むなしい偶像につく者を憎み、
 主に信頼しています。」(詩31:5-6)

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 「 あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。」(出20:4)。

 十戒の中の、偶像礼拝を禁じたくだりである。
 神のみがほめたたえられる存在なのであり、それ以外は神ではない。
 ところが人間は、作り物を神に似せて、神を拝むように拝みたくなる。
 この旧約の時代であれば、バアルやアシュタロテといったものたちだ。
 今、これらバアルやアシュタロテは、ない。
 ところが人間はどこまでも形あるものを拝む傾向があり、今度はただの人間という「もの」を拝んでしまう。
 神以外のものを神として頼りすがろうという性向は、どこまで突き詰めていっても残る人間一般の性向であり、肉の性質なのである。
 もしこの性質が人間になかったならば、カルト教団は生まれないだろう。

 十戒に照らしてに罪と定められてしまうこの肉の性質も、十字架と復活のキリストは、その業によって赦して下さっている。
 その赦しは、ただ神の恵みである。
 だから、単に「むなしい偶像につく者を憎」むだけの時代はとうに終わり、どこかで偶像にすがってしまうこの肉について、主キリスト・イエスの赦しにどこまでも信頼するのである。
 律法が罪を自覚させ、キリストの赦しに気付いたときにその罪から解放されるのだ。

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旧約と新約

 「どうか、悪者どもや不法を行なう者どもといっしょに、
  私をかたづけないでください。
 彼らは隣人と平和を語りながら、
 その心には悪があるのです。」(詩28:3)

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 「旧約の枠」でゆくと、上の一節のようになる。
 悪者は悪ゆえに片付けられ、律法に照らして善を行う者が救われる。
 これは旧い契約である。

 だが、人となったキリストは、悪人扱いを受けていた取税人達を訪ねていった。
 取税人達は自らの罪深さを嘆き悲しみ、救いを切に求めていたからではないだろうか。
 一方で、旧約の原理で動くパリサイ人は、自らは行わないのに他人に律法を強要する。キリストと彼らパリサイ人とは、激しく対立する。

 本来律法は、およそ全ての者が悪であり罪人なのだ、という地点にまで突き落とす。
 そこまで好き落とされて初めて、人間は罪を自覚する。
 そしてその罪は既に、キリストの十字架と復活によって清算されているのだ。
 これが新しい契約である。

 肉の罪を認めざるをえなくなるのに、悪人も不法な者も王様もない。
 救いの門は、恵みによってどの人にも開かれている。

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悩む者への恵み

 「主はご自身を恐れる者と親しくされ、
 ご自身の契約を彼らにお知らせになる。
 私の目はいつも主に向かう。
 主が私の足を網から引き出してくださるから。

 私に御顔を向け、私をあわれんでください。
 私はただひとりで、悩んでいます。
 私の心の苦しみが大きくなりました。
 どうか、苦悩のうちから私を引き出してください。
 私の悩みと労苦を見て、
 私のすべての罪を赦してください。」(詩25:14-18)

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 引き続き、ダビデによる25篇。

 全ての者はアダムの故に、罪にまみれている。
 悩む者も、何も悩まない者も、等しくそうである。
 詩人は、ひとり悩み苦しみ、「私の悩みと労苦を見て、私のすべての罪を赦してください。」と神に懇願する。
 じっさい、神は悩み苦しむ者にあわれみをかけられ、そうでない者には目も掛けない。罪の自覚が皆無の者に、あわれみは掛けようがない。

 心の苦しみの大きい者、苦悩のうちにある者にこそ、神は救いの手を差し伸べてくださる。
 具体的には罪の赦しだ。
 新訳時代の今は、キリストの十字架と復活とによる救いの契約が、その罪の赦しをもたらす。
 主は、ただ恵みによって、悩む者にその契約を伝えてくださる。
 それも、その悩みが頂点に達したときにこそ、聖書越しに直接知らせてくださるのである。
 それはおそらく、聖書を通読した回数とは何の関係もない。

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[おことわり]
 更新が滞ってしまっていますが、しばらくこの調子が続くものと思われます。
 土日祝はできるだけ更新しますが、平日は難しいです。
(昨日土曜は、疲れで一日中寝てしまいました。)
 申し訳ありませんが、よろしくお願いします。

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主を畏れる人

 「主よ。御名のために、
 私の咎をお赦しください。大きな咎を。
 主を恐れる人は、だれか。
 主はその人に選ぶべき道を教えられる。」(詩25:11-12)

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 人はどういう時、神を畏れることを覚えるのだろう。
 それは、「私の咎」すなわち肉の罪に否応なく気付かされた時だ。

 アダムが善悪の知識の実を食べたとき、彼は自らの裸に気付き、そのことを急に恥じて、いちじくの葉を身にまとった。(創3:6-7)
 そのように、今まで何とも思っていなかった自らの性質や行いが、急に非常に後ろめたく思うようになるときがある。
 それが罪の意識だ。
 その罪の意識を抱えて御前に出るとき、何一つとして、この神から隠しおおせるものはない。
 神の御前に、全てが白日の下にさらされるのだ。
 だから、神の御前に、ただ跪くばかりに畏れかしこまざるをえない。

 神から新しい約束を賜ったこの時代、この罪を赦す道が開かれた。
 イエス・キリストが、十字架と復活によってその道を開いたのである。
 この道を歩むと、どれほど大きな罪の意識であっても、神の御前に義とされて、その意識は解放される。
 「選ぶべき道」とは、このキリストの道のことである。

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