聖書の力

 「すると復活の際には、その女は七人のうちだれの妻なのでしょうか。彼らはみな、その女を妻にしたのです。」
 しかし、イエスは彼らに答えて言われた。「そんな思い違いをしているのは、聖書も神の力も知らないからです。復活の時には、人はめとることも、とつぐこともなく、天の御使いたちのようです。」(マタイ22:28-30)

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 祭司階級であるサドカイ人が、復活についてイエスに問うた。
 イエスを試そうと思ってのことだ。
 ところが、彼らの質問というのが、なんとも彼らの無理解を単に暴露しただけのものであった。
(その質問の全体は無価値なので、上には載せていない。)
 「復活」というものについて、彼らは実は、根源的な勘違いをしていたのだ。
 繰り返すが、彼らは祭司階級、支配者階級である。
(加えて、現世主義者だ。)

 「復活は、すぐそこにある。」

 こう書いたならば、どう思われるだろうか。
 私は思うのだが、昨日も世界のどこかで、ひとりかふたり、ひっそりと「復活した」と思っている。
 その人にとって、誰が妻か(夫か)などということは関係がない。妻(夫)がいる/いない、ということが、関心事としてはさしたるものではなくなってくるから。
 アウグスティヌスは放縦な女性遍歴のさなか神を求め続け、復活するや粛々と女性関係をすべて整理してしまう。
(というより、神がばっさばさと整理なさる。剪定されている(ヨハネ15:2)のだろうか。)

 この復活への道を切り開いてくださったのは、イエスだ。
 十字架を背負ってゴルゴダの丘を登る。
 その十字架に架けられて、死ぬ。
 そして三日後に、復活する。

 これが「復活への道」であり、ひな形だ。
 律法群が内奥の罪を知らせる。
 イエスがこれ以上ないほど分かりやすく、山上の説教で罪に気付かせてくださるから。
 気付いた罪に、責められ続ける。
 蟻地獄にはまったように、ぐんぐんと死へと吸い寄せられる。
 砂の流れにあがなうことはできず、とうとう死ぬ。これが十字架だ。
 そして、イエスと同じように復活する。
 罪からの解放、「いのち」だ。
 そういうわけで、聖書の力が絶大なのだ。
 イエスが与えるもの(聖書、神の力)というのは、たったひとつ、この「いのち」だ。
 そのためには、まずは聖書を通して自身の罪に気付いてもらわなくてはならない。約束のみ言葉がある。

 「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。」(マタイ7:7)

 これはもちろん、「いのち」についての約束だ。
 そのためには、こうである必要がある。

 「兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか。」(マタイ7:4)

 自分の目の中にある丸太に気付け、と仰っているのだが、「丸太」が「罪」のことだ。
 他人の「おが屑」など、全くもってどうでもよい。

 聖書の力は、「丸太」に気付かせることにこそある。


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