父からの報い

 「人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から、報いが受けられません。
 だから、施しをするときには、人にほめられたくて会堂や通りで施しをする偽善者たちのように、自分の前でラッパを吹いてはいけません。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。
 あなたは、施しをするとき、右の手のしていることを左の手に知られないようにしなさい。
 あなたの施しが隠れているためです。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。」(マタイ6:1-4)

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 人前で善行をすることの報い、それは人様が褒めてくれることである。
 だから、「彼らはすでに自分の報いを受け取っている」。
 褒められて、それでおしまい。
 父からの報いは、その「自分の報い」とは全く異なる。

 父からの報いとは、子として下さること、義と認められることでなくて何だろう。
 そのような「報い」を受けるために、「右の手のしていることを左の手に知られないように」せよとイエスは仰る。
 自分自身すら気付かないうちに、神が善行をしたと認めて下さるような、そういう営み。
 善悪の基準は神にあるのであり、それを形にしたものが律法である。

 意識せずともすらすら律法の教えを行うことができるほどに、厳しく自らを律してゆく。
 そして限界に行き着いてイエスの律法に倒れた先に、その人は約束された父の報いを得るのである。
 その道は、十字架と復活を通して、イエスが切り開いてくださっている。

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