さばいてはいけません

 「さばいてはいけません。さばかれないためです。
 あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。
 また、なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか。
 兄弟に向かって、『あなたの目のちりを取らせてください。』などとどうして言うのですか。見なさい、自分の目には梁があるではありませんか。
 偽善者たち。まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができます。」(マタイ7:1-5)

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 山上の説教より。

 こどもの日、私は甥と、公園で野球をしていた。
 犬を芝生の中に入れることは禁止されているのだが、お構いなしに犬を芝生で散歩させる人が後を絶たない。
 それを見る度に私は憤るのだが、そんな私は逆に公園の管理人から注意を受けた。
 木製のバットはだめだとのこと。
 言われてみれば、ゴルフの素振りが禁止なのだから、そりゃ木製バットも当然だめだろう。
 私は内心、ひどく気恥ずかしかった。
 注意を受けたことが、ではなく、犬の散歩を憤ったことが気恥ずかしかった。
 「さばくとおりに、あなたがたもさばかれ」るということの、小さな相似形のような出来事だった。

 「さばいてはいけません。」という説教は、律法以上に厳しいものだ。
 さばくまいとすればするほど、守ることの出来ないことに絶望する。
 それどころか、人は気付くといつの間にさばいている、そういう存在だ。
 人のことなら、全身のうちの目、その目の中のこんな小さいちりですら、見逃さない。
 それでイエスは、私たちを「偽善者たち」呼ばわりする。
 そのことこそアダムの肉の罪深さ、その象徴であり、自分の目の中の梁(新共同訳では「丸太」)に当たる。

 イエスは仰る。
 「まず自分の目から梁を取りのけなさい。」
 目を塞ぐ丸太、これを自力で取りのけることは、できない。
 神の恵みによって、イエスが丸太を抜いてくださるのだ。
 そして目が見えたとき、復活のイエスが見えて信じることが叶う。
 気付くと人をさばく性向は、相変わらずだ。
 ただ、そのような罪の性質が、イエスの十字架によって赦されている。

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