刺激ばかり追い求める人々

 「あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。
 わたしはあなたに忠告する。豊かな者となるために、火で精練された金をわたしから買いなさい。また、あなたの裸の恥を現わさないために着る白い衣を買いなさい。また、目が見えるようになるため、目に塗る目薬を買いなさい。」(黙示3:17-18)

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 ラオデキヤ教会へのイエスのメッセージ。
 この教会は、金持ちが多かったのであろうか。

 この世でカネの力は、とても強い。
 富者に群がる人も大勢いるほどであることは、小説「杜子春」にも描かれている。
 杜子春は最後に目が覚めたからよかったが、そのような人は現代にはあまりなく、さらにたくさん儲けようとする。
 しかし彼らもストレスを感じるのだろうか、他人に当たる。迷惑を掛け、妨害をする。
 それが自分の強さだと勘違いして我が物顔なのだから、手のつけようがない。
 しかし、それにしても、手に余るほどのカネは、彼らの心をかけらでも満たすのだろうか。
 彼らの求めているものは、むしろ刺激なのではないか。ゲームのハイスコアを目指そうとする類の刺激のように見えて仕方がない。
 彼らには満足感の類がないのだ。というか、満足しないから代わりに刺激を求める。
 内側からわき上がる満足感は、外からの強い刺激とはまるで違う。
 そして、刺激はその場限りのものだが、このイエスと共にある満足感を奪う者はいない。
 だから代替物としての刺激ばかりもっぱら追い求める彼らは「みじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者」としか言いようがなく、しかもその自身の姿に気付いてもいない。

 しかし、このラオデキヤの人々は気づき始めている。
 御父の恵みは、どの人にも降り注がれるのである。

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 健やかな一日をお祈りします!

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