イエス・キリストに対する信仰

 「とすると、律法は神の約束に反するのでしょうか。絶対にそんなことはありません。もしも、与えられた律法がいのちを与えることのできるものであったなら、義は確かに律法によるものだったでしょう。
 しかし聖書は、逆に、すべての人を罪の下に閉じ込めました。それは約束が、イエス・キリストに対する信仰によって、信じる人々に与えられるためです。
 信仰が現われる以前には、私たちは律法の監督の下に置かれ、閉じ込められていましたが、それは、やがて示される信仰が得られるためでした。
 こうして、律法は私たちをキリストへ導くための私たちの養育係となりました。私たちが信仰によって義と認められるためなのです。
 しかし、信仰が現われた以上、私たちはもはや養育係の下にはいません。
 あなたがたはみな、キリスト・イエスに対する信仰によって、神の子どもです。」(ガラテヤ3:21-26)

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 律法は、「すべての人を罪の下に閉じ込め」、すべての人に自身が罪深いと悟らせる。
 この罪深さはアダムの肉に由来し、性質として備わってしまっているものなので、律法を守り行なおうとして救われることはないし、それ以前にこの律法を守り通せるものではない。

 このアダムの肉の罪から解放するのが、「イエス・キリストに対する信仰」である。
 むしろ、律法で追い込んで罪を自覚させ、十字架がその人をその罪から解放する、というところだろうか。
 律法なくして十字架はなく、十字架なくして律法に意味はない。
 「イエス・キリストに対する信仰」とは、端的に、イエスの十字架と復活への信仰なのだ。
 この信仰は、アダムの肉が赦されて義とされたというものであるから、もはやこのアダムの肉を責め立てていた律法は不必要になる。「私たちはもはや養育係の下にはい」ないのである。

 そうすると、私たちはこの「イエス・キリストに対する信仰」をどのようにして獲得できるのだろうか。
 それは、私たちの意志によるものではない。
 恵みによって与えられるもの、信じさせられるものである。
 復活のイエスが訪れてくださって、信じさせられる。
 そこが、律法によって自ら義を立てようとする営みとは全く異なるところである。

 「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。」(マタイ7:7)

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[一版]2010年 3月 6日
[二版]2015年 8月23日
[三版]2018年 9月16日(本日)

 健やかな一日をお祈りします!

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