イエスが会いに来てくださる恵み

 「パリサイ人は、群衆がイエスについてこのようなことをひそひそと話しているのを耳にした。それで祭司長、パリサイ人たちは、イエスを捕えようとして、役人たちを遣わした。
 そこでイエスは言われた。「まだしばらくの間、わたしはあなたがたといっしょにいて、それから、わたしを遣わした方のもとに行きます。
 あなたがたはわたしを捜すが、見つからないでしょう。また、わたしがいる所に、あなたがたは来ることができません。」(ヨハネ7:32-34)

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 イエスが上のように言っているこの時点では、イエスが何のことを指して言っているのかは誰にも分からなかっただろう。
 だが、この新約聖書に接する私たちには、イエスの言わんとすることが十字架と復活のわざのことであることが明らかである。

 イエスは全人類の肉の罪、その処理を成し遂げて、そして復活した。
 ヨハネ福音書によると、復活したイエスは、まずマグダラのマリアに現れ、次いで弟子たちに現れ、さらにその8日後に、トマスも含む弟子たちに現れている(20章)。
 しかし、一般の人々、パリサイ人、祭司長たちには現れていない。引用聖句どおりだ。

 このように、復活のイエスの方から私たちに会いに来てくださる。
 こちらからイエスに会いに行くことは不可能だ。
 イエスを見つけるのではなく、イエスが私たちを見つけるのであり、これが恵みである。言い換えると、恵みとは自分で探し当てる類のものではなく、祈りつつ待ち続けるほかないものである。

 使徒行伝でパリサイ人サウロにイエスが現れたのもまた、恵み以外の何者でもない。
 誰にでも、イエスと出会うことがかなう。

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