イエス・キリストの十字架、復活、そして「いのち」にあずかるということについて
平成隠れキリシタン
イエスの血肉を食らう
「イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。
わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。
わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物だからです。
わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしも彼のうちにとどまります。」(ヨハネ6:53-56)
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私は料理が好きで、昨晩はあんかけ焼きそばを作って食べた。うまかった。
ところが、これを食べればもう何も食べずに済むということはなく、いっとき腹が満たされてもまた減ってしまう。
肉の食べ物は、朽ちてゆくアダムの肉を維持するために死ぬまで食べ続けなくてはならない。死を迎えるまで何度でも腹が減る。
それとは違い、イエスの血肉、イエスが与えるまことのパンは、一度食らうことがかなえばそれで足りる。その意味において、「まことの食物」、「まことの飲み物」なのである。
もう腹が減らなくなるというのではない。
神との関係性を回復して魂が満ち足り、それはずっと続くのである。それが、上に言う「いのち」である。
では、それはどこで手に入れることが出来るのだろうか。
イエスが肉をさらし血を流した十字架においてである。
十字架につけられ血を流し肉が裂けたイエスとの出会いがあったときにはじめて、イエスの血肉に接する。
狭き道に入らされて、自分の十字架を負ってゴルゴダの丘を登らされ、そうして気付くとこの十字架のイエスにばったりと出会う。
そして、このイエスと共に復活をとげる。そのときに、アダムの違反によって失われていた「いのち」が回復するのである。
この一連のプロセスが、イエスの血肉を食らうということになろう。
このようなものであるから、信仰とはあるかないかのどちらかしかない。
このようにしてイエスと出会っても、やはり腹は減る。
しかし、満ち足りた魂は、自力で食うものを調達できる。五千人の給食は、もはや不要なのである。
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わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。
わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物だからです。
わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしも彼のうちにとどまります。」(ヨハネ6:53-56)
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私は料理が好きで、昨晩はあんかけ焼きそばを作って食べた。うまかった。
ところが、これを食べればもう何も食べずに済むということはなく、いっとき腹が満たされてもまた減ってしまう。
肉の食べ物は、朽ちてゆくアダムの肉を維持するために死ぬまで食べ続けなくてはならない。死を迎えるまで何度でも腹が減る。
それとは違い、イエスの血肉、イエスが与えるまことのパンは、一度食らうことがかなえばそれで足りる。その意味において、「まことの食物」、「まことの飲み物」なのである。
もう腹が減らなくなるというのではない。
神との関係性を回復して魂が満ち足り、それはずっと続くのである。それが、上に言う「いのち」である。
では、それはどこで手に入れることが出来るのだろうか。
イエスが肉をさらし血を流した十字架においてである。
十字架につけられ血を流し肉が裂けたイエスとの出会いがあったときにはじめて、イエスの血肉に接する。
狭き道に入らされて、自分の十字架を負ってゴルゴダの丘を登らされ、そうして気付くとこの十字架のイエスにばったりと出会う。
そして、このイエスと共に復活をとげる。そのときに、アダムの違反によって失われていた「いのち」が回復するのである。
この一連のプロセスが、イエスの血肉を食らうということになろう。
このようなものであるから、信仰とはあるかないかのどちらかしかない。
このようにしてイエスと出会っても、やはり腹は減る。
しかし、満ち足りた魂は、自力で食うものを調達できる。五千人の給食は、もはや不要なのである。
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