キリストのあらわれかた

 「さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。
 わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」
 これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったからである。
 このことばを聞いて、群衆のうちのある者は、「あの方は、確かにあの預言者なのだ。」と言い、
またある者は、「この方はキリストだ。」と言った。またある者は言った。「まさか、キリストはガリラヤからは出ないだろう。
 キリストはダビデの子孫から、またダビデがいたベツレヘムの村から出る、と聖書が言っているではないか。
 そこで、群衆の間にイエスのことで分裂が起こった。」(ヨハネ7:37-43)

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 イエスの言葉を聴いた群衆の反応について。
 イエスがやはり本当にキリストなのだという人々と、ガリラヤからキリストが出るはずがないという人々とに分裂する。
 想像だが、それほどキリスト待望論、救世主待望論が、この時代に大きかったのではないだろうか。
 それはローマ支配からの解放という願いに基づいていたかもしれない。
 あるいは、利権、利害などの様々なしがらみで、社会全体が行き詰まってしまっていたからかもしれない(パリサイ人にしても利害構造の中でやっている)。
 この人々の中に魂の救済の類を求めていた人は、ごく少数だったような気がする。六千人の給食で、なぜ人々はマナばかりを求めたのだろうか(6章)。

 キリストがキリストであることは、救われてはじめて分かる。
 十字架と復活のキリストは、私たちを世から救うために来た。
 私たちが世に打ち勝つことができるように、障害物を処理してくれる。すなわち、罪の赦しだ。
 アダムの肉が解放されるのである。
 私たちの外側をどうこうするのではなく、内側から変えてくださる。
 私たちの内に聖書が据わるのである。それは最早外にあるのではない。
 そのようなことがあってはじめて、キリストに出会ったと了解できる。
 復活のキリストは公生涯のときとは違って、苦しみのさなかに、そっとドアをたたいてやってくる(黙示3:20)。
 あまりにもさりげなく、気付かないほどだ。それほどまで、気遣ってくださる。

 大声で「私はキリストだ」と来ることは、今の世にはけっしてない。もし、そんなことがあるとしたら、それはにせキリストだ(参/マタイ24:4-5)。

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