信仰によって恵まれる

 「そこに、三十八年もの間、病気にかかっている人がいた。
 イエスは彼が伏せっているのを見、それがもう長い間のことなのを知って、彼に言われた。「よくなりたいか。」
 病人は答えた。「主よ。私には、水がかき回されたとき、池の中に私を入れてくれる人がいません。行きかけると、もうほかの人が先に降りて行くのです。」
 イエスは彼に言われた。「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」
……
 父が死人を生かし、いのちをお与えになるように、子もまた、与えたいと思う者にいのちを与えます。」(ヨハネ5:5-8,21)

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 長年の病気持ちにイエスは「よくなりたいか」と尋ねる。

 「子もまた、与えたいと思う者にいのちを与えます」、つまり救いは恵みである。わざではない。
 救いたいと思う人をイエスは救うという恵み。
 イエスは、この38年間もの長きにわたって病気である人を、癒したいと思った。
 38年もの長さだから、というのはあまり関係がないような気がする。
 救いたくなったから救った、これが全てなのではないだろうか。
 恵みとは、このようなもので、因果関係を越えた世界である。
 善行をよりたくさん行った結果救われます、というのとは異なる。

 とはいっても、そもそもイエスを信じない人が恵まれるであろうか。
 イエスはひとりでもパリサイ人を救ったであろうか。
 イエスに「よくなりたいか」と問われた病人は、イエスの問いとは無関係な、池の水がどうの、という、とんちんかんなことをイエスに答える。
 これはこの病人が長年人々から見捨てられていたからで、ともかく日頃自分の思っていること(うっぷんの類)をひさびさの話し相手であろうイエスにぶちまけている。
 だがこの病人もまた、その人なりにイエスこそ自分を何らかの形で助けてくれると思っている。

 イエスを信じより頼んでこそ、因果関係を越えた恵みがあり、病人はその恵みにあずかった。
 この病人は何かよきことをしたわけではない。
 信仰によってこそ恵まれ救われるのである(参/ローマ3:28)。

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