『いのち』のための働き

 「イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからです。
 なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい。それこそ、人の子があなたがたに与えるものです。この人の子を父すなわち神が認証されたからです。」
 すると彼らはイエスに言った。「私たちは、神のわざを行なうために、何をすべきでしょうか。」
 イエスは答えて言われた。「あなたがたが、神が遣わした者を信じること、それが神のわざです。」(ヨハネ6:26-29)

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 五千人の給食にあずかった群集は、もっとパンが欲しくてイエスを探し当てる。

 食べる(生活する)、ということはとても大切だ。
 だが、それよりも大切なことがある。「いのち」を頂くことだ。
 恵みによって「いのち」が与えられれば、食べるための働きも、おのずとできるようになる。

 「いのち」が与えられるための働きとは何であろう。
 それはイエスを救い主、神の子と信じることに他ならない。
 「信じる」というとかなり違って、より正しくは「信じさせられる」のである。
 「信じざるを得ない」と言い換えてもいい。
 だから、これは大変な働きになる。
 承服させられるのだから。
 この「信じさせられる」とは、神のわざ、神からの恵みである。
 その過程で、私たちは大変な働きをいやいやせざるを得なくなるだろう。
 それが、「いのち」が与えられるための働きである。

 誰もが恵まれ得るのである。行ないではない。
 給食にあずかった五千人も、わざや身分によってパンにありつけたわけではない。

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