受洗するイエス

 「さて、イエスは、ヨハネからバプテスマを受けるために、ガリラヤからヨルダンにお着きになり、ヨハネのところに来られた。
 しかし、ヨハネはイエスにそうさせまいとして、言った。「私こそ、あなたからバプテスマを受けるはずですのに、あなたが、私のところにおいでになるのですか。」
 ところが、イエスは答えて言われた。「今はそうさせてもらいたい。このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです。」そこで、ヨハネは承知した。
 こうして、イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると、天が開け、神の御霊が鳩のように下って、自分の上に来られるのをご覧になった。
 また、天からこう告げる声が聞こえた。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」(マタイ3:13-17)

---

 イエスとは、受肉した神の子である。
 人間と同じ肉、アダムの肉で覆われた神の子である。
 アダムの肉で覆われているが、人間のどうしようもなさとは異なって、罪を犯さない肉なのである。
(ここで罪とは、もちろん律法に照らしている。)

 ところでヨハネが水のバステスマを授けているのは、罪の赦しを与えるためである(ただ、それは、イエスが後に授けるバステスマの型でしかない)。
 そこに、罪のないイエスがこられて、なんとヨハネから水のバステスマをお受けになった。
 罪がないにもかかわらず、自ら罪のある身として受洗する。
 言い換えると、神の子イエスは罪深き人間と同じ地点に立ってくださった。 こうしてイエスの十字架への道が始まったことを、天はお喜びになる。

 そういうわけで、人間が肉を持つ故の苦しみ悲しみ辛さを、イエスが身をもってご存じであり、神の子イエスは、私たち人間の罪深さをよく分かってくださっているのである。
 イエスはそれゆえに、私たちの戸の外に立って、今も叩いてくださっている(黙3:20)。

---

 よろしければクリック下さい。
にほんブログ村 哲学ブログ キリスト教・クリスチャンへ ブログランキングへ

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )