割礼

 「しかし私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。
 私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。
 私は神の恵みを無にはしません。もし義が律法によって得られるとしたら、それこそキリストの死は無意味です。」
 ああ愚かなガラテヤ人。十字架につけられたイエス・キリストが、あなたがたの目の前に、あんなにはっきり示されたのに、だれがあなたがたを迷わせたのですか。
 ただこれだけをあなたがたから聞いておきたい。あなたがたが御霊を受けたのは、律法を行なったからですか。それとも信仰をもって聞いたからですか。」(ガラテヤ2:19-3:2)

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 割礼によって、その人は神と契約関係に入る。
 ところが、その大切な割礼についてパウロに言わせると、それを受けるとキリストとは無関係になる、そういうものなのだという。

 旧約時代、人々はみな割礼を受けた。
 だが、割礼を受けた人の中で誰か救われただろうか。
 なかでも救われなかった典型が、伝道者の書(コヘレトの書)を書かざるを得なかったソロモン王だ。
 そして、預言によって示されて、誰もがキリスト(メシア)を待ち望むようになった。

 罪深い私たちの肉と同じ肉をまとった御子イエスが世に来られ、その肉を処断するために十字架に架かられた。
 その処断、罪のあがないが認められて、イエスは復活する。
 この復活のイエスをキリストと信じるとき、この人は、イエスのこの道程と全く同じ道程を歩むことによって罪が贖われ、救われる。
 「神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストとともに十字架につけられました」というのは、だからもっともなことだ。
(「つけられました」は、現在完了形。)
 恵みによって、肉をイエス同様に十字架につけられた私たちは、肉を律する律法に死んでいるのである。

 そうすると、十字架につけられ律法に死んでいる私たちにとっては、かつて神との契約として行っていた割礼にも死んでいる。
 そもそも罪とは、神の律法によって規定される。
 だが、もともとその律法を守りきれない私たちのその罪がイエスの十字架と復活によって赦されたのであるから、割礼についてももちろん同様なのである。

 踏み込んで書けば、新約時代の割礼とは、「十字架につけられたイエス・キリストが、あなたがたの目の前に、あんなにはっきり示され」るということなのだ。
 それが、恵みによる新しい神との契約である。
 ガラテヤ人が復活のイエスに出会っているにもかかわらず、割礼を受けようとする。
 それで、「ああ愚かなガラテヤ人」となってしまう。
 本当に復活のイエスと出会っていれば、迷いようがない。
 イエスの十字架によって、割礼が既に過ぎ去ったものだということが分かるはずだからである。

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[お断り]
 ほんじつの記事は、過去2回出した記事に、更に修正を施したものです。
  [初 出」2008年1月16日
  [2回目]2009年8月 8日 (大幅に加筆)

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