信仰とは

 「道を行く人々は、頭を振りながらイエスをののしって言った。「おお、神殿を打ちこわして三日で建てる人よ。
 十字架から降りて来て、自分を救ってみろ。」
 また、祭司長たちも同じように、律法学者たちといっしょになって、イエスをあざけって言った。「他人は救ったが、自分は救えない。
 キリスト、イスラエルの王さま。たった今、十字架から降りてもらおうか。われわれは、それを見たら信じるから。」また、イエスといっしょに十字架につけられた者たちもイエスをののしった。」(マルコ15:29-32)

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 死の間際まで人々にののしられ続けるイエス。
 イエスは極刑を執行されている身としての、当然受けるべきことを受けている。
 まさに、肉を極刑によって処罰しきってしまおうというわざなのだ。

 「十字架から降りて来て、自分を救ってみろ。」というのは、自分の利益だけを求めようとするご利益宗教の見方であり、イエスを信仰することとは全く異なる。

 また、祭司長達は言う。「たった今、十字架から降りてもらおうか。われわれは、それを見たら(イエスをキリストと)信じるから」。
 この人たちにとって、信じるとか信仰というのは、一体なんなのだろうか。
 もっとも、彼らは既得権益を守るためにやっていることなので、彼らに何かを期待する方が間違いだろう。

 信仰とは、今こそ十字架上のイエスが作り上げようとしているものである。
 アダムの肉に身代わりの処罰を与えた上で、よみがえって「いのち」を与えるのである。
 信仰とは、だから、「ある」か「ない」かのどちらかなのだ。
 十字架のイエスに出会ったか、そうでないか。
 私が最初に行った教会の牧師は、「信仰は螺旋階段」と言っていて、当時の自分はいたく感心したものだが、実は螺旋階段(だんだんに信仰が増す)などではない。
 むしろスイッチだ。しかも、そのスイッチは自分で入れることはできず、恵みによってキリストが入れてくださるものだ。

 そうすると、イエスに祈り求めることは、このスイッチを入れてくださること、イエスと出会うことだけ、といっていい。
 「いのち」へのスイッチを入れてくださるからこそ、この十字架のイエスはキリスト(救世主)なのである。

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