意志と肉

 「すると、ペテロがイエスに言った。「たとい全部の者がつまずいても、私はつまずきません。」
 イエスは彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたは、きょう、今夜、鶏が二度鳴く前に、わたしを知らないと三度言います。」
 ペテロは力を込めて言い張った。「たとい、ごいっしょに死ななければならないとしても、私は、あなたを知らないなどとは決して申しません。」みなの者もそう言った。」(マルコ14:29-31)

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 「ごいっしょに死ななければならないとしても、私は、あなたを知らないなどとは決して申しません。」と強弁するペテロ達。

 この後、イエスの予告通り、ペテロは「わたしを知らないと三度言」う。
 イエスと心中する覚悟であっても、いざその場になって詰問されると、イエスを知らないとペテロは言う。

 これは、お調子者ペテロに限った話ではない。
 このペテロの立場に置かれたとき、私たち全てがペテロと同じようにイエスを知らないと言うのである。
 それは、意志とは別の、アダムの肉の性質だからである。俗に言う「我が身かわいさ」というものだろうか。

 イエスは、このアダムの肉、神に逆らうこの肉に赦しを与えるために、極刑の十字架に架かる。
 罪のない自らの肉に十字架という処罰を与えることで、私たちの罪深い肉にも処罰を既に与えたものとみなすことができるようになるためである。

 イエスはここで、ペテロ達をとがめてはいない。
 ペテロが「あなたを知らない」とやらかしても、人間の肉とはそもそもそういうものであり、その肉に赦しを与えるために十字架という杯を飲むのだ、そうイエスは思っていたのではないだろうか。

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