「嘲弄される神

 「それで、ピラトは群衆のきげんをとろうと思い、バラバを釈放した。そして、イエスをむち打って後、十字架につけるようにと引き渡した。
 兵士たちはイエスを、邸宅、すなわち総督官邸の中に連れて行き、全部隊を呼び集めた。
 そしてイエスに紫の衣を着せ、いばらの冠を編んでかぶらせ、
 それから、「ユダヤ人の王さま。ばんざい。」と叫んであいさつをし始めた。
 また、葦の棒でイエスの頭をたたいたり、つばきをかけたり、ひざまずいて拝んだりしていた。
 彼らはイエスを嘲弄したあげく、その紫の衣を脱がせて、もとの着物をイエスに着せた。それから、イエスを十字架につけるために連れ出した。」(マルコ15:15-20)

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 十字架刑の決まったイエスがローマ兵の侮辱に遭う。

 イエスは神、それも肉をまとった神であるから、私たちの日常での苦しみを、よくご存じであられる。
 上の聖書箇所で、イエスは異邦人のローマ人から嘲弄されている。ユダヤ人からではない。
 汚れた存在だとユダヤ人が日頃忌避している連中が、イエスを侮辱するのである。

 肉を持った神・イエスは、そのような屈辱をも体験されているから、私たちがこのような目に遭う時でも、私たちの気持ちを手に取るように理解されるお方なのだ。
 人に理解されるのと神に理解されるのとでは、択一ならばどちらの方が心強いだろうか。

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