北の心の開拓記  [小松正明ブログ]

 日々の暮らしの中には、きらりと輝く希望の物語があるはず。生涯学習的生き方の実践のつもりです。

「パターナリズム」と行政

2005-10-19 23:31:07 | Weblog
 今日も秋晴れの一日。気温が下がって旭川では初氷とか。そろそろウォームビズの準備が必要かも知れません。

 さて今日は、
■「パターナリズム」と行政 の1本です。

【「パターナリズム」と行政】
 知人が「面白い講演を聴いてきましたよ」と講演会のレジメをくれた。

 講演とは北海道武蔵女子短大の小林好宏先生による「都市の自立、市民の自立~個人主権と行政」というタイトルのもので、この10月17日に札幌コンベンションセンターで開催された第30回北海道都市問題会議での基調講演との事である。

 小林先生は経済学がご専門であるが、著書も多く著されていて情報発進に努められている方である。

 この講演レジメでは、地域や地方都市を巡る問題について昨今の「地方切り捨て」的な風潮に批判的な立場から論を展開されている。そのときのキーワードの一つが「パターナリズム」である。これは後述する事にしよう。

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 小林先生の論では、まず昨今の「公共投資の地方への配分が偏りすぎている」ことへの批判がここ20年くらい前から学界でもしきりに言われ続けてきていると認めた上で、この批判的な人たちは「(中央政府から地方政府への)政府間補助が高率を阻害するもので好ましくない」と主張し続けていると言う。

 かつての国鉄民営化やNTTの分割民営化への課程の中で、これらは皆「大都市圏で黒字で地方部で赤字」という構造的な性格を持つものであったのだが、それらを組織内で配分して全体としてバランスを保っていたものである。

 このように広い空間的にサービスを展開する産業では地域間の内部補助は必ず共通に起こる問題であるはずなのだが、それが都市部からの不満に答える形で分割という形をとる改革が進行しているのである。
 
 今般の郵政民営化で話題になっている郵便事業などはまさにその典型で、日本ならばどこに住んでいようとも葉書は50円、手紙は80円というシビルミニマムなサービス形態が保証されない社会になりつつあるのだ。

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 地域経済や都市問題に関心を持つ人たちは自分たちの町をいかに魅力的にするかという事に関心があるものだが、「経済学はさっぱり役に立たないと思われる事が多いだろう」と小林先生は言う。

 それはそのような人たちの関心の単位は「地域」であるのに対して、経済学が扱うのは「自己の利益を最大化するように行動する個人」としてのホモ・エコノミクス(経済人)だからであって、そこに自ずから違いがあるからである。

 個が全ての考えの根底にあって、地域が根底にはないのである。

 だから経済学的には、「不便な田舎にいると思うのなら便利で満足出来る都会に移住すればよいのだ」と言う事になるのである。そしてそうだとすると、重要な事は「資源としての人口移動が自由に行われる事」で、地域政策の最大の課題は人口の移動を妨げる要因があればそれを除去する事であって、人口をいかに地域にとどめるかなどという発想が出てこないのだ、ということになる。

 そこには効率性はあるが公正性に関心が向いているとは言えないだろう。

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 経済学の大きな流れで言うと、自由主義から政府が積極的に財政に関わるというケインズ主義の流れになり、そしてある意味その行き過ぎからケインズ主義では堤体からの脱却が難しくなったのが今日だと言えよう。

 そしてその打開策として出てきたのが規制緩和、民間の自由な活動奨励、小さな政府、市場原理という流れである。

 市場原理の流れに身を任せるときには個人の自由とそのコインの裏側である個人責任原則が必要で、自己責任という言葉が流行るようになってきたのである。

 確かにもともと近代市民主義では個人主権、個人責任、自主自立が基本原理であり、我々は一人一人が自立した市民としての行動が期待される。

 しかし現実には全ての人がそういう世界には耐えられないわけで、日本の伝統的な社会慣習は【パターナリズム】であったろう、と小林先生は言うのである。

 「パターナリズム」とは現代用語の基礎知識2004によると「父親的温情主義」という訳が付いていて、小林先生は「恩情的干渉主義」という言葉を使っておられる。

 つまり、AとBの二つの選択肢があって相手がAを選びたいと思ったときに、「いや、Bを選んだ方が君のためだよ」と言って本人の意に反して望まない道を選択させるということである。

 パターナリズムはインターネットで検索をすると医療の面で良く出てくる単語であり、一般には本人の意志決定を邪魔する行為であって、「余計なお節介と余計な強制」という意味に捕らえられがちである。

 そしてパターナリズムが弊害だったからこそ自己決定の重要性が叫ばれてきたとも言えるのだ。

 そして、それを超えて、個人の選択の自由をある意味では侵す事が許容される場合はどういうときだろうか、というのがこの論点である。

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 医療においてはインフォームドコンセントという形で情報を最大限に提供して最後は本人の意思を確認する、という行為があたりまえになっているが、そのうえで患者本人の選択よりは、医療経験豊かな立場からみてお薦めの道があるのだろう。

 また教育の面でも、未成熟な生徒の気持ちを最優先にする事は、教育経験豊かなプロの目から見て間違っていると映る事も多いだろう。その場合は生徒がやりたくない事を強制するのが教育だと言えるのである。

 これを行政に置き換えれば、選挙権を持つ大衆の歓迎する事ばかり実行し、歓迎されない事はしないというのは大衆迎合主義(=ポピュリズム)と言われるのであって、良心に従って真に重要な事を実行するに足る説得力を行政も持たなくてはならないのだ。

 逆に社会には構成する市民の「個人の好み」と「公共善」があるのだが、個人の好みがエゴに陥ることなく、そのまま公共善の方向性に合致する事が望ましい。
 それを誘導することは一般には教育だろうが、行政にもその役割はあるのであって、それがパターナリズムなのだ、と小林先生は言うのである。

「大事な事は、行政がパターナリスティックな介入をすれば、それだけ行政にとっては責任が重くなるという事であり、逆に市民の側でも自主・自立・自律を言うのであれば自己責任が重要になる、ということです」とはレジメの言葉。

 この点を曖昧にしたままのポピュリズムが危険な事は間違いないのだ。


 私自身は今日までパターナリズムという単語を違う意味で理解していたので、このレジメを読んで目からウロコが落ちる思いだった。

 まちづくりにあって「善意のお節介」という単語を私はずっと考えていたのだが、それはパターナリズムと同じ意味だったのだ。

 町内会からも善意のお節介が消えて、個人主義が台頭して行く中で様々な弊害が明らかになっているが、現代社会はそれに対してしっかりした理論で批判を出来ずにいたのではないか。

 これからはパターナリズムという理論で、個人主義の行き過ぎに警鐘を鳴らす事にしよう。

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 もっとも、報徳的に言えば「翁が言うには聖人は『中』を好む」ということだろう。この場合の「中」とは距離的に真ん中なのではなくて、竿秤に重りをつけたときのバランスを取る位置も「中」なのである。

 どちらにも偏らず、ということを大事に思えばよいので、パターナリズムも個人主義も結局は「行き過ぎることにろくな事はない」ということなのだろう。

 すぐ熱くなって冷めやすいわが国民性に警鐘を鳴らす一言ではありますねえ。

 
  
コメント (2)
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