今日も好天に恵まれて涼しい一日。ドライブも楽しいですぞ。
さて今日は、
■専門用語について考える の1本です。
【専門用語について考える】
家を建てるのと同時に掛川へ行ってしまった私には、4月からこの家との生活がやっと始まったのである。
家の外を見ていて、犬走りの砂利とその外側の土の部分が緑色にふわっとしているのに気がついていたが、近寄ってよく見るとそれはスギナの群落。要は雑草である。
「つくし誰の子すぎなの子…」という童謡があったような気がしたのだが、インターネットの検索でも題名が分からなかった。ちょっと残念。
スギナは雑草の中でも質の悪い代表格で、上部の栄養茎を取り去っても地下茎で生きながらえて、翌年になるとまた姿を現しなかなか除去出来ないのだ。
これでは自分の家だけでなくお隣の手入れの行き届いた庭にも迷惑になると思い、草むしりを実行。我が家で初めての敷地のお手入れである。
いざスギナだけでも取ろうと思ったが、砂利の中からは他の雑草も生えていてなかなか容易ならざる戦いになってしまった。
雑草を取り始めると、一番多いのはスギナだが他にもアカザやオオバコ、タデの仲間、マツヨイグサなども結構ある。
この土地を譲っていただいたときに、前の所有者は家の周りに結構花をたくさん植えていて、多くは家の工事の際になくなってしまったが、隣地との境界付近にはそのときの名残の花々が残っている。
雑草と、あってもよい植物を見分けるのはこうしてみると結構大変で、植えた人ならば分かるのだろうが、後から見てみるとスギナの大群に覆われてハーブが出てきたりして、取らずに置くべきかの判断に迷うものもある。
昭和天皇のお言葉に「雑草という植物はありません」というのがあって、確かに雑草という名前の植物はないが、そこに生えて欲しくはない植物が生えていればそれはすなわち『雑草』というわけで、目的植物以外の植物が雑草なのである。
一応農学部で植物を勉強した私としてはある程度の事は分かるものの、狭い敷地での植物の分類となるとなかなか手に負えないものだ。
そこで考えたのは、「植物を勉強した」と言っていながら、自分は一体いくつくらい植物を見分けられるのだろうか、ということ。
自分の専門の事柄を知っているという事は、専門用語を知っているという事である。私の植物の専門用語辞典と言えば植物事典であるはずだが、考えてみると牧野富太郎さんの「牧野日本植物図鑑」も持っていないしなあ。やっぱり不真面目な植物の生徒である。
牧野富太郎博士ほどにならなくても、専門分野と呼べるものを持っている人はどれくらいの数の専門用語を知っているのだろうか。医者だったら病気とその症状をどれくらいの数、知っているのだろうか。
薬剤師だったらどれくらいの数の薬を知っているのだろう。
役人という人は一体どれくらいの数の専門用語を知っていて、それらを駆使した仕事をしているのだろう。
「単語を知っている」ということは全ての分野の基礎である。
前掲の牧野富太郎博士の実績を今に伝える、高知県立牧野植物園のホームページには、牧野博士の勉強の精神が「赭鞭一撻(しゃべんいったつ)」として伝えられている。
学ぶという事、それも権威に寄らずに学ぶということは大変な事だ。
草むしりも結構哲学的なものだ。
さて今日は、
■専門用語について考える の1本です。
【専門用語について考える】
家を建てるのと同時に掛川へ行ってしまった私には、4月からこの家との生活がやっと始まったのである。
家の外を見ていて、犬走りの砂利とその外側の土の部分が緑色にふわっとしているのに気がついていたが、近寄ってよく見るとそれはスギナの群落。要は雑草である。
「つくし誰の子すぎなの子…」という童謡があったような気がしたのだが、インターネットの検索でも題名が分からなかった。ちょっと残念。
スギナは雑草の中でも質の悪い代表格で、上部の栄養茎を取り去っても地下茎で生きながらえて、翌年になるとまた姿を現しなかなか除去出来ないのだ。
これでは自分の家だけでなくお隣の手入れの行き届いた庭にも迷惑になると思い、草むしりを実行。我が家で初めての敷地のお手入れである。
いざスギナだけでも取ろうと思ったが、砂利の中からは他の雑草も生えていてなかなか容易ならざる戦いになってしまった。
雑草を取り始めると、一番多いのはスギナだが他にもアカザやオオバコ、タデの仲間、マツヨイグサなども結構ある。
この土地を譲っていただいたときに、前の所有者は家の周りに結構花をたくさん植えていて、多くは家の工事の際になくなってしまったが、隣地との境界付近にはそのときの名残の花々が残っている。
雑草と、あってもよい植物を見分けるのはこうしてみると結構大変で、植えた人ならば分かるのだろうが、後から見てみるとスギナの大群に覆われてハーブが出てきたりして、取らずに置くべきかの判断に迷うものもある。
昭和天皇のお言葉に「雑草という植物はありません」というのがあって、確かに雑草という名前の植物はないが、そこに生えて欲しくはない植物が生えていればそれはすなわち『雑草』というわけで、目的植物以外の植物が雑草なのである。
一応農学部で植物を勉強した私としてはある程度の事は分かるものの、狭い敷地での植物の分類となるとなかなか手に負えないものだ。
そこで考えたのは、「植物を勉強した」と言っていながら、自分は一体いくつくらい植物を見分けられるのだろうか、ということ。
自分の専門の事柄を知っているという事は、専門用語を知っているという事である。私の植物の専門用語辞典と言えば植物事典であるはずだが、考えてみると牧野富太郎さんの「牧野日本植物図鑑」も持っていないしなあ。やっぱり不真面目な植物の生徒である。
牧野富太郎博士ほどにならなくても、専門分野と呼べるものを持っている人はどれくらいの数の専門用語を知っているのだろうか。医者だったら病気とその症状をどれくらいの数、知っているのだろうか。
薬剤師だったらどれくらいの数の薬を知っているのだろう。
役人という人は一体どれくらいの数の専門用語を知っていて、それらを駆使した仕事をしているのだろう。
「単語を知っている」ということは全ての分野の基礎である。
前掲の牧野富太郎博士の実績を今に伝える、高知県立牧野植物園のホームページには、牧野博士の勉強の精神が「赭鞭一撻(しゃべんいったつ)」として伝えられている。
学ぶという事、それも権威に寄らずに学ぶということは大変な事だ。
草むしりも結構哲学的なものだ。
