駒子の備忘録

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劇団チョコレートケーキ『治天ノ君』

2019年10月10日 | 観劇記/タイトルた行
 東京芸術劇場シアターイースト、2019年10月9日19時。

 激動の明治、昭和に挟まれた「大正時代」、そこに君臨していた男の記憶は時代からすでに遠い。暗君であったと語られる悲劇の帝王、大正天皇嘉仁(西尾友樹)。しかしそのわずかな足跡は、人間らしい苦悩と喜びの交じり合った生涯が確かにそこにあったことを物語る。明治天皇(谷仲恵輔)唯一の皇子でありながら、家庭的な愛情に恵まれなかった少年時代。父との軋轢を乗り越え、自我を確立した皇太子時代。そして帝王としてあまりに寂しい引退とその死。今や語られることのない、忘れられた天皇のその人生、その愛とは?
 脚本/古川健、演出/日澤雄介、舞台美術/鎌田朋子、照明/松本大介。2013年初演、2016年に再演され読売演劇大賞選考員特別賞、優秀男優賞、優秀女優賞を受賞した舞台の三演。全一幕。
 
 再演を観たお友達がすごくよかったので、と誘ってくださったので出かけてきました。以前に触れたのはチギちゃんの『まほろば』の演出と、別の友達に誘われて行った俳優座に書いた脚本だけで、名前と違って全然甘くない劇団、というくらいの認識は一応ありました。やっと劇団公演が観られて嬉しかったです。
 あと、シアタートラムといい芸劇のシアターイースト/ウェストといい、私はこのタイプの劇場がとても好きなのです。そして二時間ないし二時間半くらいの一幕舞台も超好みなのでした。
 ドライアイを完全に忘れるくらい、自分でも引くくらいにしゃくり上げるように泣きまくる観劇になりました。
 大正天皇の物語だ、という知識だけで臨んだのです。学校の歴史の授業では近代史がおろそかになる典型で、私は申し訳ありませんが病弱で短命だった天皇、という程度の認識しか持っていませんでした。ただ、暗愚と言われることも多いがそれはむしろ後の世のイメージ操作で…というイメージも、事前にちゃんとあったかな。あとは、この代からやっと側室制度をやめたんだよね、とかね。
 私にとっては天皇陛下といえばやはり昭和天皇で、でも私が物心ついたときにはすでにだいぶおじいちゃんだった印象ですし、その後の平成時代の方が私の人生においては長かったので、こちらの天皇陛下の印象も強いです。作中で陛下とか殿下とか先帝とか皇太子とか言われると、どの時代から見た誰のことだっけ、と軽く混乱もします。でもそんな舞台ならではの自由自在な時間の行き来も素晴らしい作品でした。
 舞台には玉座と、そこから伸びる赤絨毯の通路?のみ。一度曲がって客席に入るその延長上のお席で、ベスポジでした。
 最初は、ヒストリカル・ロマンスのように観ていたんですよね。主人公とヒロインが、政略結婚だけど仲良くやっていこうね愛を育んでいこうね、なんて言うところから始まったんですからね。さらに、厳格な父親に後継者としてあまり認められていなかったり、世襲を窮屈に感じる一方で義務を果たすことや理想の実現に燃えていて…というのもせつなかったりロマンチックだったりで萌え萌えで、典型的なプリンスもののように思えたのです。
 が、次々出てくる政治家たちの名前が、もはや物語として消費している幕末ものによく出てくるものばかりで、その地続きっぷりに気づいてまず震撼しました。で、明治天皇って、要するに幕末の大政奉還で急に京都から東京に連れてこられた当時の天皇とかで、それまではほとんど実権みたいなものがなかったんだろうに、そこから豪腕振るって大帝とまで言われる傑物になったのか、という今さらながらの驚きとか、たとえば降嫁した和宮さまとか、あのあたりとどういう血縁関係の皇族なんだっけ?と自分の知識のなさゆえのつながらなさへの困惑とか、いろいろ忙しくなってきたのです。
 さらに明治帝が嘉仁に、孫の代までのつなぎでいいみたいなことを言うものだからオイオイとなり、そして改めてそれが昭和天皇のことだもんね…となると、再来週にはその孫の即位礼があるんじゃなかったっけ、と現代への、現実への地続きっぷりにまた震撼したのでした。
 また当時の政治家がみんなちゃんとしているんですよ。もちろん登場人物はすべて実在した人物だけれども物語はフィクションです、とはことわられているし、なのでこのまんまではなかったろうとはもちろん思うんだけれど、でもたとえば比較して今の内閣総理大臣がこんなに真摯に国や国民や天皇家のことを考えているとはとても思えないわけですよ。考えていたら即位パレードに自分も乗っかろうとか思いつくワケないんですから。ホント何様のつもりなんだよ、と言いたいです。当日私は東京にはいない予定ですが、天皇家の車輌に手を振っても総理になんて目もくれたくないです。なのにセットでついてくるんでしょう? 本当にヤダ…(ToT)
 話を戻しますが、私は弱虫なので努力が嫌いなんですね。報われなかったときの虚しさに耐える勇気がないからです。だから努力しなくともできること、好きなこと、得意なことばかりをしがちです。そういう人間にとって、自分の宿命から決して逃げようとせず、向き合い、引き受け、背負い、それに値しようと懸命に努力する人の生き様は本当に心打たれるものです(私がタカラジェンヌを敬愛しているのはこういう部分も大きいのかもしれません)。なのに、どんなに努力しようとも、一番認めてもらいたかった人からの理解が得られなかったりする。あるいはどんなに才能や野心や理想があっても健康が損なわれてしまい、万全の活動ができなくなったりする…魂は自由なのに、人間は所詮は器である肉体に縛られ、閉じ込められる存在なのでした。その体ごと当のその人なのだとわかっていても、口惜しい…そのあたりからもうずっとダダ泣きでした。
 女性が貞明皇后節子(松本紀保。何度か舞台で観ていますが、あまり松たか子と似ていると思ったことはないけれど今回は目元が完全に同じじゃん!と思えて驚いたなあ…そしていつも素晴らしいですが今回は本当に素晴らしかったです)しか出てこないので、たとえば苦しい決断をした裕仁(浅井伸治)には当時もうお妃はいたの支えてくれる良子さまはもういたの?と案じないではいられませんでした。みんないい人でみんな優しくて賢くてみんなに良かれと思って動いていて、けれど見ようによっては非情に見えてしまう選択をせざるをえなくて…三演の今は当今自らが生前退位を申し出それが叶った世だけれど、初演時は、まして作中当時は、摂政を置くなんてとんでもないことだったんでしょうしね。幼児が継いだので成人する間まで…みたいなケースではなかったわけですからね。また、病気に関する理解やイメージもだいぶ違っていたことでしょう。今ならもう少し違ったろうに…という、言っても詮ないたらればにまた泣くしかありませんでした。
 ゆっくり変化していることは確かにたくさんあるのだけれど、それはいい方への変化ばかりとは限らなくて、たとえば昭和天皇には弟宮が何人かいたのだけれど(平成天皇にも今上にも弟宮はいた、いるのだけれど)、今や男子は…みたいな状況だったりもするわけです。普通に考えると皇族の在り方って人権侵害なのでは?という現代的な視点も出てきているわけで、何が正しいのかすら怪しくなってきました。あと、この作品では一切描かれていませんでしたが、私は皇室が神事を司っているのはけっこう大きいことなのではないかと思っていて、怠惰な国民の代わりに身を清め神に祈り国を守ってくれている部分があると感謝しまた敬愛しているのですが、それってやっばり苦役を押しつけているとかそれこそ人身御供に差し出しているようなものなのではないかなどと思うと、後継者がいなくなるのと同時に消失するのも幸せなのかも…と思わなくもありません。
 作品を見終えたときに観客の多くが感じ考えることは、初演と再演と今回とでは短い間隔ながらすでにしてけっこう世相が違うが故に、かなり大きく違うのではないでしょうか。物語は若き皇太子が清濁併せ呑んで摂政となり国を継ぐ、というところで終わるわけですが、彼が継いだのは結局のところ大日本帝国であって今の日本国ではないし、その後この国はそして彼は大東亜戦争に敗れることになるわけです。
 その上に築かれた今の国を、主権者である我々国民はうまく運営できているのでしょうか? そう突きつけられた気もします。
 俳優のお辞儀その他の所作が素晴らしく、動きもドラマも最低限のほぼほぼ会話劇なんだけれど、中身はとても豊かで複雑で繊細で、その上でとても明晰で研ぎ澄まされ、すがすがしくも美しい舞台でもありました。観られてよかったです。








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