宝塚大劇場、2022年3月1日12時。
東京宝塚劇場、4月27日18時半。
1936年、ハリウッド。セレブたちが集まる倶楽部、ココナツ・グルーヴでは、新作映画『スペインの風』の制作発表パーティーが開かれていた。カルメンを演じるエレン・パーカー(天彩峰里)やエスカミリオを演じる現役闘牛士ヴィセント・ロメロ(芹香斗亜)らの紹介が行われている中、突然原作者のキャサリン・マクレガー (潤花)が激しい剣幕で飛び込んでくる。映画の脚本が自分が書いたものとかけ離れたものになっていると抗議に来たのだ。会場が大騒ぎになる中、突然フラッシュが焚かれ、ひとりの男が現れる。パリの風俗を撮影した写真集で一世を風靡したカメラマン、ジョルジュ・マルロー(真風涼帆)だった。激高した表情を撮られたキャサリンはフィルムを渡すようジョルジュに詰め寄るが…
作・演出/小池修一郎、作曲/フランク・ワイルドホーン、音楽監督・編曲/太田健、編曲/青木朝子。内戦下のスペインを舞台にしたミュージカル、2006年初演。全二幕。
初演の感想はこちら。
今回の上演のマイ初日雑感はこちら。
東京では友会のおかげで11列目どセンターという、たいそう観やすくありがたい席で観ました。フィナーレなんかはやはり圧巻でしたね。
東西で一度ずつ、かつ間がけっこう開いた観劇になったため、それなりに新鮮に楽しく観ました。観ないでいた間に勝手に悪い方へ捏造していた違和感は、実際に観るとそんなには感じませんでした。
それでもやはり、いろいろと感じ考えさせられるところがあり、ぶっちゃけいろいろと問題がある作品だな、とは改めて思いました。まあ問題のない作品なんてないんですけれどね。ただここ最近数作の、主にフェミニズム的に、また人権感覚的に引っかかる問題の在り方とはちょっと違って、今回は主に戦争の描き方や扱い方について私はいろいろと引っかかりました。でも要するに結局は人間というものをどう捉えるかということにつながるので、すべては同根なのかなとも思いますけれどね。ともあれ今の時代、作り手にはなおいっそうの感覚のアップデートと、何故その作品を今こう作るのか、ということに関してよくよく考えることを望みたいと思います。16年経ってるのにほとんど間違い探しのレベルでしか変化がないなんて、はっきり言って手抜き以外の何ものでもないでしょう。ハナから完全に完成された100年後もそのまま上演されるべき完璧な出来の作品、とかならいざ知らず(ちなみに人も世の中も常に変化する以上、そんな舞台なんてありえないんじゃないかしらん…発表された時点から不変である小説や漫画だって「読まれ方」は変わってくるのだし)当時から「話スカスカやん」という批評がトップコンビの退団に捧げる涙とは別レベルで語られ、再演決定の報にも「そこまでの作品か?」と疑問が囁かれていた作品です。何故もっと手を入れないのか、何故これでいいとふんぞり返れるのか、その根性がまず気にくわないんですよホントにさあ…(><)
1幕は、わりといい気がします。恋愛の立ち上がりがややイージーな気がしますけれど、実際にはこんなものだと思うし、宝塚歌劇なんだから常にものすごく運命的でドラマチックでないといけない、ということはないと思うので、個人的には嫌いじゃないです。
ただ、サグラダ・ファミリア場面での暗転で要するにやってることになっているんですかねこのふたり? いわゆる朝チュンみたいな他に場面がないので、ペギーってジョルジュの孫ってことにする意味はあるのかなあ?とついつい思ってしまうのです。いや、別にふたりがプラトニックだったと思っていたとかではなくて、大人なんだしやることやってる方が自然だと思うんですけれど、当然避妊すべきものだとも思うので、ホイホイ子供ができたことにする「お話の作り方」に違和感を持つのです。それに、心当たりがあるならジョルジュは言葉は悪いですがいわゆるやり逃げをしてるってことになるじゃないですか。いや妊娠している可能性があるからこそキャサリンを帰国させたのだ、とイケコは言うのかもしれませんが、ならジョルジュもついてって全力でフォローすべきだろう、と言いたいわけです。父親の責任ってそういうことでしょ? 外国の戦争に身を投じるより、自分の妻子を守ることの方が大事なのではないでしょうか。そういう視点がないのが嫌なんです。
あと、愛し合ったらセックスする、のはいいとしてセックスしたら子供ができる、とイージーにするのが嫌。再三言いますが避妊という発想がそもそもないように見えるのがとにかく嫌なんです。それに子供の存在こそが真の愛の結晶であり証明なのだ、みたいなイメージをフィクションで再生産していくことには大いなる問題があると私は考えています。普通セックスは避妊ありきでするもので、子供が欲しいというときにだけ避妊せずするものだ、ということを一般常識としてほしい。なので物語上も、愛し合ったらセックスする、だが避妊するのが普通なので普通子供はできない、というのがもっとメジャーな展開になっていくといいと思います。宝塚歌劇ではトップコンビがらみのメインの筋でアロマンティックとかアセクシャルを扱うことはまずないでしょうから、そこは考慮しなくていいのではないかと思います(これは差別ではなく、ジャンル区分の問題として。男役と娘役のトップコンビを中心に作劇される以上、そこで扱うストーリーは主にシスジェンダー・ヘテロセクシャルのものになる、というだけのことです)。
ペギーはキャサリンの孫でありさえすればいいのであって、祖父はジョルジュでなくても全然関係ないはずです。キャサリンが帰国後に別の男性と恋愛しその子供を産んでも、それはジョルジュとキャサリンの恋愛がかりそめのものだったということにはなりません。なのにいじましくもジョルジュの孫とさせるイケコのその男性特有のいじましさが、もう本当に嫌です。男性はそういう形でしか女性の人生に爪痕を残せないと思っているんでしょうが、はっきり言って迷惑です。そんな呪縛からキャサリンを解放させてあげたかった…
そもそもキャサリンは、これは2幕の話ですが、「♪あなたに出会う前は私ただの愚かな女だった」と歌わされるような女性ではありません。単なるメロドラマではない社会派の作品を執筆し、組合の必要性を考え、結婚と離婚を経験し、広い世界を自分の目で見たいと自分の足で母国を出てきた女性です。キャラクターに対する敬意が足りないぞイケコ! ジョルジュに男のエゴを自覚させる程度の視座があるなら、さらにもう一歩踏み込んでほしかったです。
さて話を戻しますが、そんなわけで1幕はいいと言えばいいのですが、やはりザラつくのは民兵の訓練場面です。攻め込まれるから武器を持って対抗しよう、というのはわかる。でもあんなに簡単に市民が武器を手に取れるものなの? イヤこのあたりは史実なんでしょうけれど、でもあのライフルはいったいどこから出てきたものなの? 猟銃として一般家庭にほぼ常備されていて人々はごく日常的に使いこなしていたということなの? 銃器に関しては欧米と本邦は違いすぎるので感覚的によくわからないのですが、その中で女性も戦おうと立ち上がる、というのもわからなくはないのだけれど、子供たちまで兵士になろうと訓練に参加することをあんなふうに肯定的に描いてしまっていいの? けなげでいじらしい、みんなでがんばろう、みたいになっちゃってるけど、子供にはそんなことはさせられない、みんなで守るべきだ、という視点はまったくなくていいの? では彼ら市民たちはいったい何を守っているの? 地元の町、故郷、領土、つまり土地、地面ってことなの? それって家族より人命より本当に大事なもの? 家財背負って家族とともに「聖地」を逃げ出した『眩耀の谷』の展開に私はいたく感動しましたが、たとえばそういう発想はまったくなくていいの?
せめてキャサリンに何か言わせて、ラ・パッショナリア(留依蒔世)に「何を甘いこと言ってんだ」とやり返させちゃってもいいから、これは非常事態だとしてもあまり良くないことなのではなかろうか、という視点はあった方がよくないですか? 今よりずっと平和だった16年前の日本で上演するにも、よりキナ臭くなった今の日本で上演するにも。
イケコはもはやいい歳かもしれませんけれど、それでも今の日本が戦争を起こしたら男だというだけで兵隊に引っ張られるんだと思うんだけど、それでいいという考えなのかなあ。この作中で日本は「ファシストの国になってしまった」みたいに歌われていますが、その大日本帝国を総括も縁切りもできていなくてむしろそこに回帰したいという人が今のこの国の中枢にいるんだなってことが日々露呈している昨今なワケですよ。プーチンはまだ改憲などの手続きを踏んで戦争に突入したようですが、本邦の一部の政治家は憲法が国家権力を縛るものだという基本も理解していないし、だから改憲とかやたら言い出すし、下手したらそれすらせずただそのままに隣国に戦争をふっかけることをしそうな勢いですよねもはや。そして今の国連が経済制裁なんかくらいしか手が打てずロシアに対して実力行使で戦争を止めることができないように、聞く気のない馬鹿に憲法を遵守させる強制力を持つ者って実はいないわけじゃないですか。ことは良心や良識にかかっていて、しかし馬鹿にはそれがない。戦争ってやった者勝ちなんです。今の日本が早晩そうならない保証はどんどんなくなってきているのです。我々はむしろこの作中ではバルセロナ市民の側などではなく、モロッコで挙兵したフランコ将軍旗下の市民の方に近くなる可能性が高い。上が勝手に起こした戦争に、嫌だと言いつつ巻き込まれ、武器を持たされる側になる方がよりリアルなのではないでしょうか。そんなとき、こんなふうに、攻められたから武器を取って立ち向かう者たちの物語を描いていていいのでしょうか。戦争は始まってしまったら終わりで、戦争が起きないように、事前に外交なりなんなりで努めて関係を築くことが大事なんですけれど、たとえばそういう物語を今こそ描くべきなのではないでしょうか。
また、それでも戦争が始まってしまった場合には、この時点ではアギラール(桜木みなと)の主張が正しいのではないかと私は思ってしまうのです。自由のために立ち上がる、それはいい。だが戦う以上勝たないと意味はないわけで、その場合やはり組織立って戦略的に戦わなきゃ無理でしょう。PSUCとかPOUMとかの政党政治のコマにされたくないのはそりゃわかるよ、でもバラバラではできることには限りがあると思うのです。これはお話だから、主人公が「ONE HEART」と歌えばみんなが一致団結して盛り上がって感動的に幕が下りるんだけど、実際にはあの睨み合いから、空に向けて威嚇射撃があったらそこから絶対に撃ち合いになるわけじゃないですか。あんなふうに一方が武器を下ろして丸腰になり、丸腰の相手を撃つことを躊躇して軍や警察が撤退するなんて多分ありえない。しかもお話の中ですら、一部の市民は武器を完全には手放さず、歌いながら行進する過程で何人かが銃を拾い上げますよね? あれはなんなの? めっちゃ怖いんですけど…なので楽曲の良さとかコーラスの素晴らしさに対する感動で震えるのと同時に、戦争の恐ろしさや愚かさへの怒りに震えるし、それをこうもイージーな「お話」に仕立ててしまうことへの恐怖や怒りに私は震えるのです。こんなんで気持ちよく泣けたりしません。それでいいのかなあ?
2幕になると、そのアギラールさんが実は小者であることからお話はしょうもない展開をし出すので、全体になんだかなあ感が漂ってくるのでした。
結局アギラールは国のためとか民のためとか理想の政治社会体制のためとかの志はなく、権勢欲とか支配欲とかで動いているのであって、しかもおそらくはなんかちょっと美人でかつちょっと生意気だからこそそそられるみたいな理由でキャサリンに固執し出し、コマロフ(夏美よう)にさくっと粛正されるのはもはやほとんどギャグです。これをある程度一本筋を通して演じきっているずんちゃんはホント偉いよ…
そして主人公たちも敗走を始めるので、その意味でもまたしょっぱい。このくだりで、母国に帰りたがるタリック(亜音有星)をまたあんなに否定的に描く必要性はあるのかとか、外国人であるにもかかわらずここまで協力してきてくれた仲間に対してヴィセントがけっこうひどいことを言って、かつ和解のあとに謝りもしない脚本なのはどうなんだとか、いろいろ引っかかってなおさら素直に感動しづらいです。
ラストについても、ジョルジュがものすごくヒロイックであるとかはないと思うのでいいんだけれど、これで戦争の愚かさや虚しさを描けていることになるのか、私にははなはだ疑問です。しかも結局この戦争はフランコ軍がマドリードに入城して終結するわけで、つまりファシストの勝利に終わっているわけです。悪が勝つんですね。ファシズムが悪であることにはさすがに議論の余地はないと思うので。それが史実なんだけれど、こう切り取られるとなおさら虚しいのです。
なのでトータルでホント虚しいんだよなあ…もちろんそれでもジョルジュは最後に再度、「♪一つの心に固く結ばれ明日を目指し歩いて行こう」とある種の希望を歌い上げてお話を締めるのだけれど、やはりとても空虚に聞こえるんですよ…それは現代の、ちゃんとしたオリンピックを無事に開催させた今のスペインのことがほとんど描かれていないからでもあるかもしれません。ペギーとエンリケ(奈央麗斗)との会話に何かもう少し足せていたら、また違ったのかもしれませんが、そういう視線がおそらくイケコにはないんですよねえ…
だからやっぱりトータルで、安全なところにいるつもりの(けれどもはやいつ兵隊に引っ張られるかわからない)イケコが、ある種の理想のロマンとして、ジョルジュみたいな生き方を祭り上げているだけのように思えてしまうのです。
でも本来は芸術家肌のカメラマンだったジョルジュが報道カメラマンに転向してしまうこと、そしてやがてはそのカメラさえも置いて銃を持ち兵士として戦いそして死んでしまうことのあまりの悲しさ、虚しさ、無意味さがあまり考慮されていない気がします。それはキャサリンもそうで、彼女は劇作家だったのに、ラジオニュースの原稿を書くようになってしまう。もちろん生きていれば興味の方向性が変わることはありえるのだけれど、それとは別に、報道ではなく創作でしかできないことって確かにあるはずなのに、それを当の創作家であるはずのイケコがわりと無自覚に作中で返上させちゃっているのが本当に残念です。もちろん創作なんて衣食足りたのちにすること、戦争みたいな非常時には役に立たない、という考え方もわかりますが、でも私たちはそれを震災とかウィルス禍の状況下で「でもやっぱり必要だ」って守り抜いてきたのではないの? なんかそういう雑さが、ホント残念で虚しいんですよねえ…
熱演する組子にはまったく責任はありません。かなこはもうちょっと芝居が上手くなってほしかった気はするけれど、ナベさん、ほまちゃん、せとぅーにアラレ、大活躍でしたし本当に組の戦力でした。退団は残念ですが、その後のご健勝もお祈りしています。
もはやトップ・オブ・トップのゆりかちゃんの余裕綽々の仕上がりきった男役っぷり、本当に鮮やかでした。ええ声で情の濃い芝居をするかのちゃん、「愛の真実」も芝居歌として素晴らしく、フィナーレのデュエダンはまさしく至高。さらに大輪の花となっていってくれることを期待します。ハイローは…まあちょっと不安だけど…
そしてこれまた仕上がりきっているキキちゃん、引き続き本当になんでもできるずんちゃん、プログラムの位置におっ!となったもえこ、充実していますね。キヨちゃんもこってぃもよりギラギラしてきたし、りっつはホント頼もしいし、さよちゃんもヒロコも着実にポジションを上げてきていて万全です。もちろんじゅっちゃんがまた素晴らしかった! 観られませんでしたが新公のナニーロ、春乃さくらちゃんとも評判は上々でしたね。未来は明るいと信じられます。
ハイローの次、良き当て書きの良き作品に恵まれて、ゆりかちゃんが無事にご卒業できますように。キキちゃんへのいい代替わりができますように。組力がさらに上がっていきますように。一ファンとして、切に願っています。
東京宝塚劇場、4月27日18時半。
1936年、ハリウッド。セレブたちが集まる倶楽部、ココナツ・グルーヴでは、新作映画『スペインの風』の制作発表パーティーが開かれていた。カルメンを演じるエレン・パーカー(天彩峰里)やエスカミリオを演じる現役闘牛士ヴィセント・ロメロ(芹香斗亜)らの紹介が行われている中、突然原作者のキャサリン・マクレガー (潤花)が激しい剣幕で飛び込んでくる。映画の脚本が自分が書いたものとかけ離れたものになっていると抗議に来たのだ。会場が大騒ぎになる中、突然フラッシュが焚かれ、ひとりの男が現れる。パリの風俗を撮影した写真集で一世を風靡したカメラマン、ジョルジュ・マルロー(真風涼帆)だった。激高した表情を撮られたキャサリンはフィルムを渡すようジョルジュに詰め寄るが…
作・演出/小池修一郎、作曲/フランク・ワイルドホーン、音楽監督・編曲/太田健、編曲/青木朝子。内戦下のスペインを舞台にしたミュージカル、2006年初演。全二幕。
初演の感想はこちら。
今回の上演のマイ初日雑感はこちら。
東京では友会のおかげで11列目どセンターという、たいそう観やすくありがたい席で観ました。フィナーレなんかはやはり圧巻でしたね。
東西で一度ずつ、かつ間がけっこう開いた観劇になったため、それなりに新鮮に楽しく観ました。観ないでいた間に勝手に悪い方へ捏造していた違和感は、実際に観るとそんなには感じませんでした。
それでもやはり、いろいろと感じ考えさせられるところがあり、ぶっちゃけいろいろと問題がある作品だな、とは改めて思いました。まあ問題のない作品なんてないんですけれどね。ただここ最近数作の、主にフェミニズム的に、また人権感覚的に引っかかる問題の在り方とはちょっと違って、今回は主に戦争の描き方や扱い方について私はいろいろと引っかかりました。でも要するに結局は人間というものをどう捉えるかということにつながるので、すべては同根なのかなとも思いますけれどね。ともあれ今の時代、作り手にはなおいっそうの感覚のアップデートと、何故その作品を今こう作るのか、ということに関してよくよく考えることを望みたいと思います。16年経ってるのにほとんど間違い探しのレベルでしか変化がないなんて、はっきり言って手抜き以外の何ものでもないでしょう。ハナから完全に完成された100年後もそのまま上演されるべき完璧な出来の作品、とかならいざ知らず(ちなみに人も世の中も常に変化する以上、そんな舞台なんてありえないんじゃないかしらん…発表された時点から不変である小説や漫画だって「読まれ方」は変わってくるのだし)当時から「話スカスカやん」という批評がトップコンビの退団に捧げる涙とは別レベルで語られ、再演決定の報にも「そこまでの作品か?」と疑問が囁かれていた作品です。何故もっと手を入れないのか、何故これでいいとふんぞり返れるのか、その根性がまず気にくわないんですよホントにさあ…(><)
1幕は、わりといい気がします。恋愛の立ち上がりがややイージーな気がしますけれど、実際にはこんなものだと思うし、宝塚歌劇なんだから常にものすごく運命的でドラマチックでないといけない、ということはないと思うので、個人的には嫌いじゃないです。
ただ、サグラダ・ファミリア場面での暗転で要するにやってることになっているんですかねこのふたり? いわゆる朝チュンみたいな他に場面がないので、ペギーってジョルジュの孫ってことにする意味はあるのかなあ?とついつい思ってしまうのです。いや、別にふたりがプラトニックだったと思っていたとかではなくて、大人なんだしやることやってる方が自然だと思うんですけれど、当然避妊すべきものだとも思うので、ホイホイ子供ができたことにする「お話の作り方」に違和感を持つのです。それに、心当たりがあるならジョルジュは言葉は悪いですがいわゆるやり逃げをしてるってことになるじゃないですか。いや妊娠している可能性があるからこそキャサリンを帰国させたのだ、とイケコは言うのかもしれませんが、ならジョルジュもついてって全力でフォローすべきだろう、と言いたいわけです。父親の責任ってそういうことでしょ? 外国の戦争に身を投じるより、自分の妻子を守ることの方が大事なのではないでしょうか。そういう視点がないのが嫌なんです。
あと、愛し合ったらセックスする、のはいいとしてセックスしたら子供ができる、とイージーにするのが嫌。再三言いますが避妊という発想がそもそもないように見えるのがとにかく嫌なんです。それに子供の存在こそが真の愛の結晶であり証明なのだ、みたいなイメージをフィクションで再生産していくことには大いなる問題があると私は考えています。普通セックスは避妊ありきでするもので、子供が欲しいというときにだけ避妊せずするものだ、ということを一般常識としてほしい。なので物語上も、愛し合ったらセックスする、だが避妊するのが普通なので普通子供はできない、というのがもっとメジャーな展開になっていくといいと思います。宝塚歌劇ではトップコンビがらみのメインの筋でアロマンティックとかアセクシャルを扱うことはまずないでしょうから、そこは考慮しなくていいのではないかと思います(これは差別ではなく、ジャンル区分の問題として。男役と娘役のトップコンビを中心に作劇される以上、そこで扱うストーリーは主にシスジェンダー・ヘテロセクシャルのものになる、というだけのことです)。
ペギーはキャサリンの孫でありさえすればいいのであって、祖父はジョルジュでなくても全然関係ないはずです。キャサリンが帰国後に別の男性と恋愛しその子供を産んでも、それはジョルジュとキャサリンの恋愛がかりそめのものだったということにはなりません。なのにいじましくもジョルジュの孫とさせるイケコのその男性特有のいじましさが、もう本当に嫌です。男性はそういう形でしか女性の人生に爪痕を残せないと思っているんでしょうが、はっきり言って迷惑です。そんな呪縛からキャサリンを解放させてあげたかった…
そもそもキャサリンは、これは2幕の話ですが、「♪あなたに出会う前は私ただの愚かな女だった」と歌わされるような女性ではありません。単なるメロドラマではない社会派の作品を執筆し、組合の必要性を考え、結婚と離婚を経験し、広い世界を自分の目で見たいと自分の足で母国を出てきた女性です。キャラクターに対する敬意が足りないぞイケコ! ジョルジュに男のエゴを自覚させる程度の視座があるなら、さらにもう一歩踏み込んでほしかったです。
さて話を戻しますが、そんなわけで1幕はいいと言えばいいのですが、やはりザラつくのは民兵の訓練場面です。攻め込まれるから武器を持って対抗しよう、というのはわかる。でもあんなに簡単に市民が武器を手に取れるものなの? イヤこのあたりは史実なんでしょうけれど、でもあのライフルはいったいどこから出てきたものなの? 猟銃として一般家庭にほぼ常備されていて人々はごく日常的に使いこなしていたということなの? 銃器に関しては欧米と本邦は違いすぎるので感覚的によくわからないのですが、その中で女性も戦おうと立ち上がる、というのもわからなくはないのだけれど、子供たちまで兵士になろうと訓練に参加することをあんなふうに肯定的に描いてしまっていいの? けなげでいじらしい、みんなでがんばろう、みたいになっちゃってるけど、子供にはそんなことはさせられない、みんなで守るべきだ、という視点はまったくなくていいの? では彼ら市民たちはいったい何を守っているの? 地元の町、故郷、領土、つまり土地、地面ってことなの? それって家族より人命より本当に大事なもの? 家財背負って家族とともに「聖地」を逃げ出した『眩耀の谷』の展開に私はいたく感動しましたが、たとえばそういう発想はまったくなくていいの?
せめてキャサリンに何か言わせて、ラ・パッショナリア(留依蒔世)に「何を甘いこと言ってんだ」とやり返させちゃってもいいから、これは非常事態だとしてもあまり良くないことなのではなかろうか、という視点はあった方がよくないですか? 今よりずっと平和だった16年前の日本で上演するにも、よりキナ臭くなった今の日本で上演するにも。
イケコはもはやいい歳かもしれませんけれど、それでも今の日本が戦争を起こしたら男だというだけで兵隊に引っ張られるんだと思うんだけど、それでいいという考えなのかなあ。この作中で日本は「ファシストの国になってしまった」みたいに歌われていますが、その大日本帝国を総括も縁切りもできていなくてむしろそこに回帰したいという人が今のこの国の中枢にいるんだなってことが日々露呈している昨今なワケですよ。プーチンはまだ改憲などの手続きを踏んで戦争に突入したようですが、本邦の一部の政治家は憲法が国家権力を縛るものだという基本も理解していないし、だから改憲とかやたら言い出すし、下手したらそれすらせずただそのままに隣国に戦争をふっかけることをしそうな勢いですよねもはや。そして今の国連が経済制裁なんかくらいしか手が打てずロシアに対して実力行使で戦争を止めることができないように、聞く気のない馬鹿に憲法を遵守させる強制力を持つ者って実はいないわけじゃないですか。ことは良心や良識にかかっていて、しかし馬鹿にはそれがない。戦争ってやった者勝ちなんです。今の日本が早晩そうならない保証はどんどんなくなってきているのです。我々はむしろこの作中ではバルセロナ市民の側などではなく、モロッコで挙兵したフランコ将軍旗下の市民の方に近くなる可能性が高い。上が勝手に起こした戦争に、嫌だと言いつつ巻き込まれ、武器を持たされる側になる方がよりリアルなのではないでしょうか。そんなとき、こんなふうに、攻められたから武器を取って立ち向かう者たちの物語を描いていていいのでしょうか。戦争は始まってしまったら終わりで、戦争が起きないように、事前に外交なりなんなりで努めて関係を築くことが大事なんですけれど、たとえばそういう物語を今こそ描くべきなのではないでしょうか。
また、それでも戦争が始まってしまった場合には、この時点ではアギラール(桜木みなと)の主張が正しいのではないかと私は思ってしまうのです。自由のために立ち上がる、それはいい。だが戦う以上勝たないと意味はないわけで、その場合やはり組織立って戦略的に戦わなきゃ無理でしょう。PSUCとかPOUMとかの政党政治のコマにされたくないのはそりゃわかるよ、でもバラバラではできることには限りがあると思うのです。これはお話だから、主人公が「ONE HEART」と歌えばみんなが一致団結して盛り上がって感動的に幕が下りるんだけど、実際にはあの睨み合いから、空に向けて威嚇射撃があったらそこから絶対に撃ち合いになるわけじゃないですか。あんなふうに一方が武器を下ろして丸腰になり、丸腰の相手を撃つことを躊躇して軍や警察が撤退するなんて多分ありえない。しかもお話の中ですら、一部の市民は武器を完全には手放さず、歌いながら行進する過程で何人かが銃を拾い上げますよね? あれはなんなの? めっちゃ怖いんですけど…なので楽曲の良さとかコーラスの素晴らしさに対する感動で震えるのと同時に、戦争の恐ろしさや愚かさへの怒りに震えるし、それをこうもイージーな「お話」に仕立ててしまうことへの恐怖や怒りに私は震えるのです。こんなんで気持ちよく泣けたりしません。それでいいのかなあ?
2幕になると、そのアギラールさんが実は小者であることからお話はしょうもない展開をし出すので、全体になんだかなあ感が漂ってくるのでした。
結局アギラールは国のためとか民のためとか理想の政治社会体制のためとかの志はなく、権勢欲とか支配欲とかで動いているのであって、しかもおそらくはなんかちょっと美人でかつちょっと生意気だからこそそそられるみたいな理由でキャサリンに固執し出し、コマロフ(夏美よう)にさくっと粛正されるのはもはやほとんどギャグです。これをある程度一本筋を通して演じきっているずんちゃんはホント偉いよ…
そして主人公たちも敗走を始めるので、その意味でもまたしょっぱい。このくだりで、母国に帰りたがるタリック(亜音有星)をまたあんなに否定的に描く必要性はあるのかとか、外国人であるにもかかわらずここまで協力してきてくれた仲間に対してヴィセントがけっこうひどいことを言って、かつ和解のあとに謝りもしない脚本なのはどうなんだとか、いろいろ引っかかってなおさら素直に感動しづらいです。
ラストについても、ジョルジュがものすごくヒロイックであるとかはないと思うのでいいんだけれど、これで戦争の愚かさや虚しさを描けていることになるのか、私にははなはだ疑問です。しかも結局この戦争はフランコ軍がマドリードに入城して終結するわけで、つまりファシストの勝利に終わっているわけです。悪が勝つんですね。ファシズムが悪であることにはさすがに議論の余地はないと思うので。それが史実なんだけれど、こう切り取られるとなおさら虚しいのです。
なのでトータルでホント虚しいんだよなあ…もちろんそれでもジョルジュは最後に再度、「♪一つの心に固く結ばれ明日を目指し歩いて行こう」とある種の希望を歌い上げてお話を締めるのだけれど、やはりとても空虚に聞こえるんですよ…それは現代の、ちゃんとしたオリンピックを無事に開催させた今のスペインのことがほとんど描かれていないからでもあるかもしれません。ペギーとエンリケ(奈央麗斗)との会話に何かもう少し足せていたら、また違ったのかもしれませんが、そういう視線がおそらくイケコにはないんですよねえ…
だからやっぱりトータルで、安全なところにいるつもりの(けれどもはやいつ兵隊に引っ張られるかわからない)イケコが、ある種の理想のロマンとして、ジョルジュみたいな生き方を祭り上げているだけのように思えてしまうのです。
でも本来は芸術家肌のカメラマンだったジョルジュが報道カメラマンに転向してしまうこと、そしてやがてはそのカメラさえも置いて銃を持ち兵士として戦いそして死んでしまうことのあまりの悲しさ、虚しさ、無意味さがあまり考慮されていない気がします。それはキャサリンもそうで、彼女は劇作家だったのに、ラジオニュースの原稿を書くようになってしまう。もちろん生きていれば興味の方向性が変わることはありえるのだけれど、それとは別に、報道ではなく創作でしかできないことって確かにあるはずなのに、それを当の創作家であるはずのイケコがわりと無自覚に作中で返上させちゃっているのが本当に残念です。もちろん創作なんて衣食足りたのちにすること、戦争みたいな非常時には役に立たない、という考え方もわかりますが、でも私たちはそれを震災とかウィルス禍の状況下で「でもやっぱり必要だ」って守り抜いてきたのではないの? なんかそういう雑さが、ホント残念で虚しいんですよねえ…
熱演する組子にはまったく責任はありません。かなこはもうちょっと芝居が上手くなってほしかった気はするけれど、ナベさん、ほまちゃん、せとぅーにアラレ、大活躍でしたし本当に組の戦力でした。退団は残念ですが、その後のご健勝もお祈りしています。
もはやトップ・オブ・トップのゆりかちゃんの余裕綽々の仕上がりきった男役っぷり、本当に鮮やかでした。ええ声で情の濃い芝居をするかのちゃん、「愛の真実」も芝居歌として素晴らしく、フィナーレのデュエダンはまさしく至高。さらに大輪の花となっていってくれることを期待します。ハイローは…まあちょっと不安だけど…
そしてこれまた仕上がりきっているキキちゃん、引き続き本当になんでもできるずんちゃん、プログラムの位置におっ!となったもえこ、充実していますね。キヨちゃんもこってぃもよりギラギラしてきたし、りっつはホント頼もしいし、さよちゃんもヒロコも着実にポジションを上げてきていて万全です。もちろんじゅっちゃんがまた素晴らしかった! 観られませんでしたが新公のナニーロ、春乃さくらちゃんとも評判は上々でしたね。未来は明るいと信じられます。
ハイローの次、良き当て書きの良き作品に恵まれて、ゆりかちゃんが無事にご卒業できますように。キキちゃんへのいい代替わりができますように。組力がさらに上がっていきますように。一ファンとして、切に願っています。
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