駒子の備忘録

観劇記と乱読日記、愛蔵コミック・コラムなどなど

『ファントム』

2019年11月16日 | 観劇記/タイトルは行
 赤坂ACTシアター、2019年11月11日18時15分、12日18時15分。

 19世紀後半、パリ。オペラ座通りで、歌を口ずさみながら楽譜を売る歌手志望の少女クリスティーヌ・ダーエ(愛希れいか、木下晴香のダブルキャスト)がいた。その歌声に魅せられたオペラ座のパトロンのひとりフィリップ・シャンドン伯爵(廣瀬友祐、木村達成)は、オペラ座でレッスンを受けられるよう、彼女に支配人ゲラール・キャリエール(岡田浩暉)宛ての紹介状を渡す。だがオペラ座ではキャリエールが支配人を解任され、新支配人のアラン・ショレ(エハラマサヒロ)が妻でプリマドンナのカルロッタ(エリアンナ)とともに迎えられていた。キャリエールはショレに「オペラ座の地下には"ファントム(怪人)"(加藤和樹、城田優)と呼ばれる幽霊がいる。彼の掟には従わなければならない」と忠告するが…
 脚本/アーサー・コピット、作詞・作曲/モーリー・イェストン、原作/ガストン・ルルー、演出/城田優、美術・衣裳/トム・ロジャース、翻訳・通訳/伊藤美代子、訳詞/高橋亜子。日本では2004年に宝塚歌劇で初演され、梅芸主催でも三度上演されてきたミュージカル。全2幕。

 私は宝塚歌劇版はオサ以外は観ていて、直近の雪組だいきほ版の感想はこちら。梅芸版は前回の初・城田演出版は観ていなくて、スズカツ演出の大沢たかお主演版は二度観ています。こちらこちら
 個人的には『オペラ座の怪人』より好みの作品で(楽曲はどちらも素晴らしいと思っています)、ちゃぴがやるというのでいそいそと出かけました。マイ初日が加藤、木下、木村でマイ楽が城田、愛希、廣瀬の組み合わせでした。
 劇場はモギリの係員の制服からオペラ座ふうに新調されていて、パリ市民役のアンサンブルの役者さんたちがロビーをうろついていたり大道芸人ふうの役者さんたちが歌ったり踊ったり、スマホ電源オフのアナウンスなんかも「持ち運び電話機」と言ったりのノリノリムード。アンサンブルのお衣装は華やかで色鮮やかで、でもビストロ場面はシックにモノトーンになったりとなかなかお洒落でした。でもそこに現れるクリスティーヌ、ときたら真紅かピンクかなと思っていたらなんと真っ黄色でちょっと珍しい、もしかしたら男性っぽいセンスなのかもしれないなと思いました。いいんだけど、せめて飾りというかもう少し織りがある生地ならよかったのに…全体にホント男の子っぽいというか繊細さに欠けるというか、ペカッとしすぎていて深みがないように感じられたのは残念だったかなー…
 それはセットとか装置もそうで、なんか男の子が好きそうなギミック感満載で、ちょっとうるさいなと私は感じました。特に楽屋のセットがああいう形でがーっと出てくるのは私は興ざめでした。あえてゴシックな感じは出さないコンセプトだったようだけれど、舞台ってもうちょっと抽象的でもいいと思うんですよね…ニセモノ、作り物感が出すぎているようで、私はちょっと鼻白みました。
 でも「今宵のために」がオペラ座の役者たちとオペラ座観劇の客たちに分けられて振り付けられていたのは好きでした。ビストロでのオーディションで、みんながクリスティーヌの歌に巻き込まれていく感じとかもとてもよかった。こういうところにはセンスを感じました。これは振付(新海絵理子)の領域なのかなあ?
 それにしても、私は大元の原作ミュージカルを観ていないので本当のところはなんとも言えないのですが、日本初上演にあたり宝塚歌劇ではけっこう翻案とか潤色をしているはずだと思うんだけれど、梅芸版は原作から起こしているのではなくて宝塚版から起こしているんじゃなかろうか?ってくらいにほぼまんまですよね…本当にこうなのかなあ? 訳者は違っていますが台詞も歌詞も細かいニュアンスを変えているだけでほぼ同じなんですよね、そんなことあります? そりゃ宝塚版は役を増やすために、フィリップの取り巻きとかオペラ座の団員とかに単なるアンサンブルではない役を立てていて、それは今回はなかったりするし、いてもよさそうなマダム・ジリーやメグ・ジリーもいないけれど、異なる点はほぼそれだけな気がして、かなり不思議でした。あ、ヤング・キャリエールとベラドーヴァはいなくて、キャリエールがそのまま思い出を語り若き日の自分も演じ、ベラドーヴァはクリスティーヌ役者が二役で演じる、というのはいいなと思いました。オーバチュアがなくて、というかすでに幕が開いていて役者たちが舞台にいるので、曲がファントムのモチーフになると動きを止めて照明が落ちて…という演出もよかったです。フィナーレはもちろんありませんでした(笑)。
 私は木下晴香は初めて観たんですが、歌はいいんだけれど声量がないんですね。というかマイク音響のせい? お友達のおかげで2回ともオペラグラスの要らない前方席で観させていただいたのですが、かえってスピーカーの音が届かないのか、全体に音量がとても小さくて、ミュージカル特有の、歌や音楽に飲み込まれ押し流されるような感じを受けなくて残念でした。クリスティーヌがオペラ座前広場に出てきて歌い始めても、舞台奥のアンサンブルがオフマイクで言っている「あの子は誰?」「何を売っているの?」みたいなセリフの方がよほど聞こえるんですもん、それじゃダメですよね? もっとエフェクトかけて音量上げて迫力出しちゃえばよかったのに…でも可愛かったしスタイルも良くてお衣装もよく着こなしていて、好感が持てました。ただ、演技は弱かったかなー。というか、私にはあまり何もしていないように見えてしまった気がしました。
 私は宝塚歌劇版でこの物語を観るときは、当然トップコンビのラブストーリーを観る気で行くので、エリックとクリスティーヌはラブラブしていてほしいワケです。でも外部版はエリックが主人公なだけの話だとわかっているので、クリスティーヌは別に愚かでも、歌がちょっと上手いだけのただの女の子でもなんでもいいし、フィリップにフラフラしても全然かまいません。ただ、トータルで筋が通った物語であってほしいとは思っています。
 木村くんのフィリップはぱあっと明るい素敵な王子さまっぷりで、楽しく観られました。でも、なんせ木下クリスティーヌがあまり何かを発信せずただそこにいるだけのように私には見えたので、成功の高揚に酔っているだけなのか本当にフィリップと恋に落ちているのかもよくわからなかったし、何故エリックの顔を見たがったのか、顔を見て何故驚き怯えたのか、逃げ出したのに何故戻ろうとするのか、さっぱりわかりませんでした。加藤エリックはたとえばだいもんなんかよりずっと子供で幼くて視野が狭くて、その役作りの意味はわかったんですけれど、とにかくクリスティーヌの在り方がわりと茫洋としていたので、結果的にお話全体としてもなんかつかみどころがないというか、何が芯の話なのかわからなくなっているように感じられてしまいました。
 …ということが、翌日、ちゃぴクリスティーヌを観て思い知らされたのでした。二度目だから舞台の流れがわかっていて自分の側に余裕がある、ということを差っ引いても、ちゃぴの芝居はくっきりはっきりしていてクリスティーヌ像を強く発信していて、行動原理がよくわかり、だから物語を押し進めていました。本当に鮮やかでした圧巻でした! 大劇場サイズのオーバーアクションなのか?とも一瞬思ったんですけれど、むしろ細かく繊細に常にいちいち演技をしていて、それがつまり役として板の上にいるということなのであり、その存在感を客席中にビンビン伝えていたと思いました。歌は普通に上手く、過不足はないという感じ。やはり音量はもの足りなく感じましたが、それは音響のせいだなと思いました。もちろん当人比で上手くなっているけれど、そりゃきぃちゃんの方が上手いとは誰もが言うでしょう。でもいいの、とにかくクリスティーヌがちゃんと息づいていたから、結果的にエリックが主人公のこの物語がきちんと立ち上がって見えた、エリックとクリスティーヌのただのラブストーリーじゃない、本来の『ファントム』らしい物語が現れた、ということです。演技って、芝居って、ミュージカルってこういうことなんだよ!ということをまざまざと思い知らされた気がしました。
 クリスティーヌは作曲家ではなく、彼女が本当に売りたいのは歌声そのものなんだけれど、とりあえず楽譜を売っています。私は「パリのメロディ」の場面の意味が今回初めてわかった気がしました。ちゃぴクリスティーヌは歌い、近寄ってきたくれた人々に楽譜を渡し、歌い続け、自分が楽譜のどこを歌っているかを指し示すのです。だから市民たちは唱和していくんですね。彼女の歌が素敵で、彼女自身が音楽だから、そしてその音楽が素敵だから。ここは音楽が人々を幸せにしていくことを描写している場面なのです。その中心に音楽そのものであるクリスティーヌがいる。本格的なレッスンを受けたことがなく、歌にはまだつたないところがあるにしても、魂から音楽を愛し、存在そのものが音楽になっている少女…だから市民たちはその歌を愛し彼女を愛し、お金を払って楽譜をもらっていくのです。
 ちゃぴは客席に現れ舞台に上がったときからすでに全身が、その仕草がいちいち可愛くてまさに語りかけ歌いかけているようでしたが、何よりその全身が発散する楽しげで幸せそうなオーラが歌になり市民たちを巻き込んで幸せにしていくのが、くっきりはっきりわかりました。ここはそういう場面だったのか!と私は本当に感動したのでした。
 フィリップに名を聞かれて素直に応える感じや、フィリップのお貴族さまっぷりにまったく臆していない感じ、でも名刺をもらって有頂天になる様子、そこから初めてオペラ座の中に入って高い天井をぽかんと見上げて口をあげる仕草、ジャン・クロード(佐藤玲。女性を配したのはおもしろいアイディアだったと思うけれど、若すぎるように見えるキャストで残念だったかも…)についてくるよう言われて手をグーにしてずんずん歩くところ…すべてが田舎育ちでまっすぐで素直で純朴で一生懸命なクリスティーヌというキャラクターを表現していて、比べる言い方はあまり良くないのでしょうがやはり木下晴香はほぼ何もしていなかったんだな…と思えました。くさすつもりはないんだけれど、正直言って段違いだなと感心感動したのでした。
 対する城田エリックがまた、子供なところは加藤エリックと同じなんだけれど、よりオタクでコミュ障っぽくて、現代の引きこもり男子に通じそうでおもしろい役作りでしたね。ただ一方であまりに現代的すぎると、たとえば全然この物語を知らずにキャスト目当てで来たような観客にはこれがいつの時代の話に思えるんだろう? ある程度昔のお話なんだとわかっていないと、顔に傷がある程度でなんでエリックが軟禁みたいな暮らしをしてなきゃならないのかわからなかったりしない?と心配にもなりました。全体にゴシック感が薄い分、階級社会とか身分差別とか障害者差別とか、そういう要因がほとんど見えない世界観になっていた気はしたので、キャリエールが何故エリックを地下に留めたのか、納得いきづらいんじゃないかなーというのは気になりましたね。現代の視点で言ったら立派な虐待であり人権侵害なわけで、それを当人たちが良しとしていた事情の説明、せめて時代の空気の演出ははもう少しないとダメなんじゃないのかな、とは感じたのです。
 ともあれそんなエリックだったので、もちろんラブも彼なりに感じていただろうけれど、フィリップとの三角関係に関しても初めてできた友達を取られちゃう苦しみ…みたいなニュアンスに見えて、物語として据わりがよく感じられました。このクリスティーヌはちゃんとフィリップと恋に落ちていて(「運命の出会い」もキラキラしてるけど、楽屋のキスとそのあとの芝居がいい! 鏡の中でもちゃんと濃厚にラブラブしていたのがいいと思いました)、それはそれとして「先生」に敬意と友情を抱いていて、先生が「エリック」と知ったあともなおさらその友情と善意、世界や幸福といったものへの信頼感に基づいて行動しているのだ、と納得できるのです。キャリエールのエリックへの応対もわかる、でも自分は彼にもっと優しくしてあげたい、友達だから、彼がいい人だって知っているから、世界は愛に満ちているのだから、だから自分が顔を見ても大丈夫なはず…という心情の流れが、ちゃぴクリスティーヌからはくっきりはっきり見えました。それがただの思い込みとか思い上がりの愚かさ故ではなく、まっすぐさ、純粋さ、優しさ、愛によるものだと見えるのも素晴らしい。
 仮面を外したエリックの顔は、客席から巧妙に隠されます。だからそこに何があるのか、観客はクリスティーヌの驚き方、怯え方から類推するしかない。エリック顔に何があるのか、はたまたないのかは微妙な問題で、本当のことを言えばそもそもルルーの原作のエリックの在り方、そのいわゆる「障害」は顔の傷程度のものではないわけで、もっとひどいものの暗喩のようなものなのですが、この作品ではエリックはびっこを引いたりせむしぶることすらやめてしまっているので(差別的表現であり推奨されない言葉だと知っていてあえて書いています。あと、城田くんは多少猫背にしている気はしましたが、役作りというよりは単に中の人が長身を気にしてまっすぐ立っていないだけかもしれないという気もしました)、そういうのって舞台ではなかなか伝わりづらいものですよね? あんな仮面に隠れたほんのちょっとの面積がどんだけ爛れていて崩れていて、目があとふたつくらいあろうとなんだろうとそんなにたいしたことないじゃん、って気がしてしまうのが難点だと思うのです。それを、この世では、明るいところでは生きていけない、人目を忍んで地下で生きていく方がむしろ幸せ、それほどに邪悪で醜悪で凶暴にものがそこにはあった…と思わせなければいけないんだから、ここのクリスティーヌの反応はそりゃ重大なわけです。ここは木下晴香も上手かったな(ちなみに彼女はベラドーヴァのダンスもとても上手かったです。不思議な女優さんだなあ…)。ホント動物的なまでのショック、生理的な驚愕と拒否、逃走、ってのがふたりともとても上手くて、何を見たんだろう、ともあれ何かとてつもないものを見てしまったのだろうな…とちゃんと思わせてくれました。
 そしてちゃぴは、フィリップに助けを求めたあと、キャリエールに経緯を説明するくだりの動揺っぷりと、そこから「あの人に謝らなくては!」となるのに説得力がありました。あわあわ説明しているうちに、自分が彼に何をしてあげようとしていたのか、そしてそれがしてあげられずにただ逃げてきてしまったことに改めて気づいて、こんなつもりじゃなかったのに、やりなおさなくては、傷つけてしまったことを謝らなくては…となるのが、手に取るように見えたのです。
 押しとどめようとするフィリップに抗うのも上手いし、そのあとフィリップを殺そうとするエリックを叫んで祈って止めるのも上手かった。段取り芝居になりそうなところをそう見せないのがテクニカルに上手いし、心情が伝わるという意味でも段違いに上手かったです。舞台の流れがわかっている私のような観客にも、より真に迫り、ドラマが盛り上がって感じられました。フィリップの落ちかけ方は木村くんの方が上手だったかなあ?
 エリックがキャリエールに自分を撃つよう叫ぶところでは、「父さん」呼びはありませんでしたね。ルドゥ警部(神尾侑)たちにキャリエールが自分の父親であることがわかってしまうと、彼の今後がつらくなることを慮ったのでしょうか。せつない…
 エリックとクリスティーヌの歌のレッスンのときに盆が回る演出が、エリックの恋心の盛り上がりを表現していてとてもよかったのですが、ラストも同じようにまた盆が回り、クリスティーヌが瀕死のエリックを抱きかかえて、その仮面を外して、けれどその顔は彼女の髪に遮られて客席からは決して見えず、エリックが事切れてクリスティーヌが泣き伏して暗転して終わるまでをゆっくり、静謐に、美しく見せていて、素晴らしかったです。
 組子を舞台に出す必要があるからかもしれませんが、オペラ座の団員全員がエリックの死を見守る形だった宝塚歌劇版もそれはそれで感動的でした。今回はキャリエールもフィリップも立ち去ってしまい、エリックとクリスティーヌのふたりだけになって終わりますが、それもまたいいですね。リプライズはなし、というかそもそも「僕の叫びを聞いてくれ」がなかったんだな、と今になって気づきました。代わりに今回、ベラドーヴァが赤子のエリックに歌った「ビューティフル・ボーイ」という新曲があって、クリスティーヌがそれを歌って終わるのでした。イェストンはどんなプロダクションのどんな上演にも寛容で曲もほいほい書き下ろすようですが、それがより豊かで新しい『ファントム』を産み出す源となっているのでしょうね。いいものを観ました。
 個人的には城田・愛希・木村の組み合わせも観たかったなあと思いました。廣瀬くんのフィリップはチャラくスマートでスカしていてそれもよかったですが、木村くんの鮮やかな明るさに惹かれたので。
 演技も歌もこれからさらにどんどん進化していくんだろうなあ。このあと観られる方々がうらやましいです。良き公演になることを祈っています。



コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« ミュージカルカンパニーMM... | トップ | 『終わりのない』 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

観劇記/タイトルは行」カテゴリの最新記事