駒子の備忘録

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『炎 アンサンディ』

2014年10月12日 | 観劇記/タイトルは行
 シアタートラム、2014年10月9日ソワレ。
 中東系カナダ人のナワル(麻実れい)はずっと世間に背を向けるようにして生き、実の子である双子の姉弟ジャンヌ(栗田桃子)とシモン(小柳友)にも心を閉ざしていた。ナワルは謎めいた二通の手紙を公証人(中嶋しゅう)に託してある日突然世を去った。二通の手紙にはそれぞれ宛名が書かれ、姉にはあなたの父を、弟には彼らが存在すら知らされていなかった兄を探し出して、その手紙を渡せという母の遺言が告げられた。その言葉に導かれ、初めて母の祖国の地を踏んだ姉弟は、母の数奇な人生と家族の宿命に対峙する…
 作/ワジディ・ムワワド、翻訳/藤井慎太郎、演出/上村聡史、美術/長田佳代子、照明/沢田祐二。2003年にフランスとカナダで初演、『沿岸』『炎』『森』『天空』の『約束の地 四部作』のひとつ。全2幕。

 ターコさんと岡本くんが好きなので、中東の政治紛争とか全然知らないし題材的にわかるかなとビクビクしながら出かけたのですが(栗田さんとサウダの那須佐代子さんは初見)、ガン泣きしました。嗚咽で拍手ができないくらいなのは久々でした。休憩込み3時間の舞台でしたがまったく集中が途切れませんでした。
 ギリシャ悲劇の『オイディプス王』を想起させるという評は読んでいましたし、冒頭で姉弟に父と兄をそれぞれ探せという遺言が明かされたときにちらりと「それっと別々の人物じゃなかったりするんじゃないの?」と思ったりしたのですが、深く考える暇もないままにナワルの物語に没頭してしまいました。それくらい、14歳かそこらの少女として現われたターコさんはいじらしくいとけなく、きゅんきゅんさせられる「女の子」でした。
 ターコさんと言えばあの深く色っぽい声だと思うのですが、それも封印して、明るくからりと乾いた、おひさまを感じさせる若く平らな声。そんな明るい声でしゃべる少女が、恋人のワハブ(岡本健一)と恋を語っている。若いからか部族や宗教の関係か、ふたりの恋は秘密にすべきものなようだけれど、だからこそかえって応援してあげたくなる、その絶対的な幸福の輝きに心をつかまれてしまいました。
 だからもうナワルの人生に寄り添い追っていくことに完全に集中して観てしまったのです。
 キャストが少ない舞台で、役者がいろんな役に扮することにもすぐ慣らされるので(岡本くんの墓地のあるバイトがことによかった)、そのめくらまし効果と、そこにこそ意味があったのだというわかったときの衝撃がまたすごかったです。
 私が真実を読み取ったのは法廷でのナワルの話のときだったのだけれど、それで正しかったのかしら。でももうもうそこから本当にずっとずっと泣いていました。
 あんなにも恋人を愛して、生まれた息子を愛して、取り上げられた息子を探して探して、ついにあきらめて、戦いに生きて、指導者を暗殺して、刑務所に収監されて、強姦されて子供を産んで、解放されてカナダへ亡命した女性。
 かつてあんなにも子供を愛した母親だったこともあったのに、カナダでは死んだように暮らし、子供たちにとって冷たい母親となってしまった女性。だからシモンはボクサーを目指しているといえば聞こえはいいけれど粗暴な青年に育ってしまったのだろうし、ジャンヌは数学の教授か何かのようで優秀なんだろうけれど飾り気のなさすぎる格好しかしない寂しい女性に育ってしまった。
 自分たちの父親が母親に聞かされていたように国のために死んだ男などではなく、刑務所の看守だったこと、母親はその看守に強姦されて自分たちを身ごもったのだと知ったとき、姉弟は自分たちが愛すべき子供として母親に受け入れられづらかったことを理解はしたでしょう。でもだからって心情的にも許せるってものでもない。だいたいあの沈黙はなんだったのか。
 その沈黙をもたらした真実は法廷にありました。被告人である看守が手にしていたピエロの赤い鼻、それはかつてナワルがワハブからもらい息子が取り上げられるときにそのおくるみの中に入れたものだったから…
 どうして戦争なんかあるのでしょう。誰にでも母親はいて、母親を愛さない人なんかいない。母親もまた子供に一時も愛情を持たないことなんてありえないでしょう、でなきゃ十月十日も我が身の中で抱えられない。人は愛から生まれるのです。
 男は女から生まれておいて、なのになんで女を犯すことができるのでしょう。何故すべての相手を母親を愛すように愛せないのでしょう。何故人は傷つけ合い殺し合い争い合うのでしょう。何故戦争はこの地上からなくならないのでしょう。
 これはギリシャの話でもなければ中東の話でもありません。武力を放棄し不戦を誓ったはずのこの小さな島国にさえ再び戦争の影は落ちている。何故? 愚かだから? 本当に?
 子供が双子の男女だったことは必然に思えました。男と女がいて、子供が生まれる。だから子供も男と女でないと背負えきれない。ジャンヌとシモンはそんな兄弟に見えました。
「炎」というのはナワルがかつて逃れたバスを包んだ火炎のことでもあるだろうし、火災、災難、戦争を意味しているのでしょう。でもその火は舞台には具体的には現われなかったため(ちなみにこれはかなり舞台らしい舞台というかよくできた戯曲に私には思えて、映画化できたとは驚きです)、あるいは私がやはり平和ボケしているためか実はぴんと来ませんでした。
 むしろラストの雨が印象的で、私だったらそれをタイトルにしたけれど、でもそれこそウェットすぎて駄目なのだろう、とも思いました。
 ともあれ舞台は、冒頭、乱れ置かれていた三脚の椅子がまっすぐ整えられて終わり、そこにみんなが雨宿りに集まって終わります。ニハッドすらその輪に入る。みんなを一緒に雨宿りさせる雨こそ恵みの雨、慈雨。でもその雨は砂漠に降ることはめったにないのでした…
 父と母と子供がふたり、でも椅子は三脚しかない。父と兄を探した、でも見つけた男はひとりだった。母はもういない。でも五年の沈黙の中で考えて考えて考えて、それでやっと「こうして一緒になれたんだからもう大丈夫」と思えるようになって、それでそうつぶやいて、満足して世を去ったのでしょう。きちんと弔われた彼女の魂が今は安らかだと信じたい。でもこういう形でしか愛が報われず、戦争に踏みにじられてばかりのこの世界を変えられる自信がない…そんなふうにも思うと、もう本当に涙が止まらなかったのでした。

 ちょっと変わった美術と照明が効果的で好きでした。台詞も非常に明晰だったと思います。難しいことは何もありませんでした。
 小ぶりながらプログラムも秀逸で、大満足でした。
 


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