世田谷パブリックシアター、2014年9月10日ソワレ。
1980年代の英国。高校の進学クラスで学ぶ8人の生徒たちは、オックスフォードやケンブリッジなど名門校を目指し受験勉強に励んでいる。校長(安原義人)はひとりでも多く名門校に入学させたいが、一風変わった老教師のへクター(浅野和之)が詩歌を引用したり歌を歌ったりの型にはまらない授業を行うため、オックスフォード卒のアーウィン(中村倫也)を臨時教師として迎えることにした。若きアーウィンはへクターとは対照的な徹底した受験指導を行っていくが…
作/アラン・ベネット、翻訳/常田景子、演出/小川絵梨子、美術/堀尾幸男。2004年ロンドン初演、映画化もされたトニー賞受賞作。全2幕。
デイキン役の松坂桃李くんも好きですが、『フル・モンティ』がよかった中村倫也の初主演作とあって出かけてきました。新進気鋭と今話題の小川演出は『クリプトグラム』、『OPUS/作品』を観ています。
いやぁしかしよかった! シビれました。久々に脚本が読みたいなと思った作品でした。私は戯曲を読むのがそんなに得意ではないし、台詞が舞台上でわからなかったとかそういうことではなくて、でもただ活字で、文字で、再び捕らえなおしたいなと思ったのです。オタクなので。それくらいいいことを言っていた、含蓄に富んだ台詞が多かったと思うので。
簡素なセット、床に敷いた紙を答案用紙にしてビリビリ破いていってしまうアイディア(既出のものだそうですが)、最後の残りが棺というか遺体を覆うシートのようになって持ち去られる演出…素晴らしかったです。
好みとしてはデイキンがもうちょっとだけ小さいか、アーウィンが細くてもいいから背が高いとよかった。つまりふたりの背の高さ、体格が同じくらいだとなお萌えられたのです。私はBLで受け攻めに体格差がありすぎると男女を想起して萎えるので。
でも余計にせつなくなったかな。アーウィンの心情を慮ると、もうやめてあげてデイキン!と何度も叫びたくなりました。
だから私はデイキンが死ぬのかと思いました。アーウィンの車椅子の原因はへクターのバイクだろう、事故に巻き込まれたか何かして怪我をするのだろう、と終盤近くなって思いつき(一幕のうちはむしろ病気か何かにかかったのかと思っていました。たとえば筋ジストロフィーとか、そんな)、デイキンもまたその事故に巻き込まれて命を落とすのだ、あるいは轢かれるのだ、と。
だっていかにもありそうじゃないですか。デイキンはなんでも持っている。ハンサムで成績優秀で校長に目をかけられクラスメイトたちの人気を集めガールフレンドまでいる、何不自由ない不遜な少年。そんな人間こそが若くして命を落としそうなものじゃないですか。
でも違いました。バイク事故で亡くなったのはへクターでした。せっかく失職が免れたのに。もうすぐ定年だったのに。
ヘクターは死に、デイキンはその後も羽振りのいい人生を歩んでいく。人生って確かにそういうものだけれど、そんな皮肉をつきつけてしまうのがこの作品だったのでした。
デイキン自身は自分や現状に満足してばかりでもなくて、でもとにかく「持てる者」の明るいオーラは灯りが蛾を引き寄せてしまうようにある種の人間を捕らえて放さないのです。たとえばポズナー(太賀)、たとえばアーウィン。愛されるからますます自信をつける、ますます輝く、それがますますそうした人を魅了する。でも彼らが愛し返されることは決してないのです。
ポズナーにも、アーウィンにも、スクリップス(橋本淳)にも、おそらくこの世は生きづらいところなのでしょう。今なお彼らはあまり幸せではないかもしれない。けれど生きていくしかない。生まれてきてしまったから。荷物を次に渡さなければならないから。
この台詞の原語はなんでしょうね? 「荷物」というと日本語としてはやや負荷とか負担を思わせるように感じます。でもヘクターが言う「自分が受け取った荷物を次の人に渡せ」というのは、単に自分が受け取ったものを、というだけのようにも聞こえます。
自分が受け取ったもの。命。教育。教養。愛。何かそういったもの。周りに、でもいいし子供や孫といった次の世代、ということでもいい。とにかく誰かに。自分のところで終わりにしないこと、渡すこと、それが大事。
それができる人間を育てることを目指して、ヘクターは生きていたのではないでしょうか。それが教師としてのあり方だと考えていたのではないでしょうか。
一方でアーウィンが教えるような受験テクニックもまた必要な場合がもちろんあります。結局は名門校に合格することだけでなく、世間で生きていくためのテクニックに通じたりもするからです。
でもアーウィンもまだ勉強中の人間なのでした。教師に恵まれなかったのかもしれないし、志望校に合格できなかったことも大きいのかもしれないし、何しろ彼は若いのです。
その後も彼は生きづらく暮らしているのかもしれませんが、スクリップスとの再会がいい方へと変わる転機になることを祈りたいです。スクリップスにとっても。
私はマスコミに勤めていてもジャーナリズムを担当したことがないのですが、その痛烈な批判には心が冷えました。創作とは対極にあるものだと作者は考えているのかもしれませんね。
シニカルで、でもユーモアがあって、深くて、悲しくて、乾いていて、でも温かくて、うっすらと明るい。そんな美しい舞台でした。
あと紅一点の鷲尾真知子が素晴らしかった!
1980年代の英国。高校の進学クラスで学ぶ8人の生徒たちは、オックスフォードやケンブリッジなど名門校を目指し受験勉強に励んでいる。校長(安原義人)はひとりでも多く名門校に入学させたいが、一風変わった老教師のへクター(浅野和之)が詩歌を引用したり歌を歌ったりの型にはまらない授業を行うため、オックスフォード卒のアーウィン(中村倫也)を臨時教師として迎えることにした。若きアーウィンはへクターとは対照的な徹底した受験指導を行っていくが…
作/アラン・ベネット、翻訳/常田景子、演出/小川絵梨子、美術/堀尾幸男。2004年ロンドン初演、映画化もされたトニー賞受賞作。全2幕。
デイキン役の松坂桃李くんも好きですが、『フル・モンティ』がよかった中村倫也の初主演作とあって出かけてきました。新進気鋭と今話題の小川演出は『クリプトグラム』、『OPUS/作品』を観ています。
いやぁしかしよかった! シビれました。久々に脚本が読みたいなと思った作品でした。私は戯曲を読むのがそんなに得意ではないし、台詞が舞台上でわからなかったとかそういうことではなくて、でもただ活字で、文字で、再び捕らえなおしたいなと思ったのです。オタクなので。それくらいいいことを言っていた、含蓄に富んだ台詞が多かったと思うので。
簡素なセット、床に敷いた紙を答案用紙にしてビリビリ破いていってしまうアイディア(既出のものだそうですが)、最後の残りが棺というか遺体を覆うシートのようになって持ち去られる演出…素晴らしかったです。
好みとしてはデイキンがもうちょっとだけ小さいか、アーウィンが細くてもいいから背が高いとよかった。つまりふたりの背の高さ、体格が同じくらいだとなお萌えられたのです。私はBLで受け攻めに体格差がありすぎると男女を想起して萎えるので。
でも余計にせつなくなったかな。アーウィンの心情を慮ると、もうやめてあげてデイキン!と何度も叫びたくなりました。
だから私はデイキンが死ぬのかと思いました。アーウィンの車椅子の原因はへクターのバイクだろう、事故に巻き込まれたか何かして怪我をするのだろう、と終盤近くなって思いつき(一幕のうちはむしろ病気か何かにかかったのかと思っていました。たとえば筋ジストロフィーとか、そんな)、デイキンもまたその事故に巻き込まれて命を落とすのだ、あるいは轢かれるのだ、と。
だっていかにもありそうじゃないですか。デイキンはなんでも持っている。ハンサムで成績優秀で校長に目をかけられクラスメイトたちの人気を集めガールフレンドまでいる、何不自由ない不遜な少年。そんな人間こそが若くして命を落としそうなものじゃないですか。
でも違いました。バイク事故で亡くなったのはへクターでした。せっかく失職が免れたのに。もうすぐ定年だったのに。
ヘクターは死に、デイキンはその後も羽振りのいい人生を歩んでいく。人生って確かにそういうものだけれど、そんな皮肉をつきつけてしまうのがこの作品だったのでした。
デイキン自身は自分や現状に満足してばかりでもなくて、でもとにかく「持てる者」の明るいオーラは灯りが蛾を引き寄せてしまうようにある種の人間を捕らえて放さないのです。たとえばポズナー(太賀)、たとえばアーウィン。愛されるからますます自信をつける、ますます輝く、それがますますそうした人を魅了する。でも彼らが愛し返されることは決してないのです。
ポズナーにも、アーウィンにも、スクリップス(橋本淳)にも、おそらくこの世は生きづらいところなのでしょう。今なお彼らはあまり幸せではないかもしれない。けれど生きていくしかない。生まれてきてしまったから。荷物を次に渡さなければならないから。
この台詞の原語はなんでしょうね? 「荷物」というと日本語としてはやや負荷とか負担を思わせるように感じます。でもヘクターが言う「自分が受け取った荷物を次の人に渡せ」というのは、単に自分が受け取ったものを、というだけのようにも聞こえます。
自分が受け取ったもの。命。教育。教養。愛。何かそういったもの。周りに、でもいいし子供や孫といった次の世代、ということでもいい。とにかく誰かに。自分のところで終わりにしないこと、渡すこと、それが大事。
それができる人間を育てることを目指して、ヘクターは生きていたのではないでしょうか。それが教師としてのあり方だと考えていたのではないでしょうか。
一方でアーウィンが教えるような受験テクニックもまた必要な場合がもちろんあります。結局は名門校に合格することだけでなく、世間で生きていくためのテクニックに通じたりもするからです。
でもアーウィンもまだ勉強中の人間なのでした。教師に恵まれなかったのかもしれないし、志望校に合格できなかったことも大きいのかもしれないし、何しろ彼は若いのです。
その後も彼は生きづらく暮らしているのかもしれませんが、スクリップスとの再会がいい方へと変わる転機になることを祈りたいです。スクリップスにとっても。
私はマスコミに勤めていてもジャーナリズムを担当したことがないのですが、その痛烈な批判には心が冷えました。創作とは対極にあるものだと作者は考えているのかもしれませんね。
シニカルで、でもユーモアがあって、深くて、悲しくて、乾いていて、でも温かくて、うっすらと明るい。そんな美しい舞台でした。
あと紅一点の鷲尾真知子が素晴らしかった!
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