四魂の玉に導かれ、現代から戦国時代にやってきた少女・かごめ。封印されていた半妖・犬夜叉と出会い、砕け散った玉を集めるふたりが織りなす冒険活劇。
私は『うる星やつら』と『めぞん一刻』はコミックスを愛蔵しているのですが、あとは人魚と1ポンドと毎年「ビッグコミックオリジナル」に描くキレッキレの読み切りの短編集を何作か…くらいしか読んでいなくて、電子で読むチャンスがあったのですが『らんま1/2』はまあまたいずれね、という気分だったので、今回はこちらを読んでみました。
iPad-miniを横にして見開きでガンガン読み進めたのですが、いやぁ読みやすいこと読みやすいこと、感動しました。あだち、高橋、青山氏のこのネーム・スキルの素晴らしさは尋常じゃありませんよね。見開きの中で計算し尽くされた、流れるようなコマ割り、コマの中の絵の構図、フキダシの位置、台詞の分量や改行がもう完璧オブ完璧で、ちょっとくらい読み流してもどこがどう大事なのかちゃんと際立ってくる構成になっているのです。このものすごく高等なテクニックを、完璧に身につけて、息をするように自然に、自由自在に駆使している…今やこの基本的なスキルが残念ながら怪しい漫画家がたくさん量産されていること、おそらく指導するべき編集者のレベルが低下していることを私は本当に心配しています。もちろん、今に縦スクロール、フルカラーのデジタルコミックが主流になっていってしまい、こうしたコマ割りのテクニックは不要になっていくのかもしれませんが、それでも台詞を縦書きで表記するなら右上から左下への視線の流れを意識することは大切なことなはずです。勉強していってほしいなあ…
それはともかく、そんなわけで、七宝、弥勒、珊瑚や桔梗、殺生丸、奈落といったキャラクターが出揃ってしまえば、あとは毎回手を変え品を変え妖怪とチャンチャンバラバラするだけの漫画なのですが(オイ)、毎回さまざまなキャラクターの妖怪を作り人間のドラマを作り必殺技を作り、その中でメインキャラクターたちの心理ドラマをじりじり展開させ、ラブコメパートもきっちり萌えさせる巨匠の技には感服しないではいられません。楽しく読み進めました。
なので、あとは、こういうタイムスリップものというか異世界転移ものみたいなものは、本来は違う時空に生きていたふたりが出会い恋に落ちてしまうものなので、ではそのゴールは? ラストはどう落とす? というのが焦点になってきます。桔梗がどうの奈落がどうの兄がどうの刀がどうのというのは、まあまとまるところにまとまるんだろうけれど、結局かごめと犬夜叉ってどう結ばれてどう終わるの? それとも結ばれないパターンなの…? ということを心配して、私は終盤を読み進めたのでした。
犬夜叉は半妖で、それを兄を始め妖怪たちからは蔑まれ嘲笑われていたので、本人としては完全な妖怪になりたかったのだろうし、それが四魂の玉のなんちゃらで叶う、みたいな展開もあったのかもしれませんが、逆に同じように、ただの人間になる、ということもできるのかもしれなくて、それでかごめと添い遂げる…というのもアリだよな、と私は思っていました。やはり種族が違う、というのは添い遂げるにはなかなかしんどいことだと思うので。なので犬夜叉が戦国時代でやりたいことは全部やって、満足して納得して人間になって、現代に来てくれたら、かごめもいろいろ教えてあげられるだろうし、それでふたりは末永く幸せに…というハッピーエンド、というのはわかりやすいゴールではなかろうか、と思っていたのです。
が、意外にも…物語は、かごめが戦国時代で生きることを選ぶ形で終わりました。わりと、珍しい形かなと思います。この形は、どうしてもヒロインが捨てるもの、失うものが大きすぎるように見えて、ハッピーエンドに見えづらくなる危険があるからでしょう。
でもこの作品はとてもよくできていて、かごめが現代と戦国時代を行き来していることをかごめの母親も弟も知っているし、犬夜叉も現代側に来たときは弟と遊んだりかごめの母親の手料理を食べていたりする。家族ぐるみのおつきあい、みたいなものがいつのまにかできているんですね。さらに、かごめは中学卒業とともに戦国時代での犬夜叉との旅を一度終えて、その後は現代側できちんと高校時代を過ごし、その上で、卒業と同時に、ちょうど大学進学とか就職とかの進路を選ぶように、戦国時代に帰ることを選択するのです。これはすごくいい流れだと思いました。
会えない時間が愛をさらに育てたのかもしれないし、会えずに離れていても結局忘れられないということがわかって、いろいろちゃんと冷静に考えて、大人として選択した結果、かごめは再び井戸を潜るのです。この場合の18歳は確かに成人なのでした。
人は何もかもを手に入れることはできなくて、何かを選んだら何かを捨てざるをえない。かごめはいやいや何かを犠牲にしたのではなく、犠牲を強いられたのでもなく、自分で考えて自分で取捨選択したのです。確かに現代より戦国時代の方が生きづらい、かもしれない。だからそれはしんどい選択、なのかもしれない。それでも、かごめは犬夜叉と共に生きることを選んだのでした。犬夜叉は半妖のままだけれど、今はもう妖怪になりたいとかは考えていないし、妖怪だから人間とは相容れないもの、という考え方もしていない。だから、そのままで大丈夫なのだ、共に生きていくのだ…という、オチですね。素敵ですね。感動しました。
私はこの手のもののラストだと、『ふしぎ遊戯』と『漂流教室』のラスト、落とし方が好きです。また読み返したいなあ。そしてたとえば『王家の紋章』なんかは、メンフィスがキャロルの兄とそっくりってところに何かキモがあると信じていて、これは現代側でハッピーエンドになるのでは(だってメンフィスって史実では若くして死んじゃう王様なんだろうから…)、と想像しているのですが…頼むから死ぬ前に完結させてくれ、それは作家としての義務だよ細川先生…
とまれ、終盤ちょっと巻きが入った感じはありますが、綺麗にまとまったお話で、よかったです。新しいアニメの展開があるんだそうですね、そういうのもまたいいものですね。
次は『らんま』を読もうかな、どうしようかな…
ところで『鬼滅の刃』の漫画家さんが女性だったと判明して何やら騒ぎが…とかなんとかがあったそうですが、はっきり言ってどうでもいいしちゃんちゃらおかしいことですが、翻って高橋氏は女名前、どころかペンネームですらない本名でデビューし、半世紀近く少年漫画界で活躍してきたわけです。当人の才能云々はもちろんとして、しかしこれはどういう事情だったんでしょうかね。当時の編集者が男性名のペンネームをつけるよう指導した…というような話はまったく聞きませんし、そういう妙な考えやこだわりは編集部側も当人も特になかったということなのでしょうか。
また、女名前だからといって女性性を売りにしていた、というようなこともまったくありませんでした。なんせデビュー作が『うる星やつら』(というかその前身の『勝手なやつら』ですが)で、絵も話もキャラクターもノリも女性作家ならでは、なんてものでは全然ない、むしろそういうものをまったく超越したまったく新しく特異なセンスの作家で、それが売りで、とにかく作品がすべてで作家の性別なんか誰も気にしちゃいない、というのが当時の空気だったと実感として私は記憶しているのですが、さて真相はどうなんでしょう…
ただ、これは本当にたまたまな、レアケースで、それ以外はわりと、作家さん本人が、また編集部が、変な気を回して、中性的な、あるいは性別がわからないペンネームをつける・つけさせることは多かったと思います。残念なことですが、事実でしょう。そして今のこの騒ぎ(というほどのものでは全然ないのですが)を見るにつけ、昭和より令和の読者の方が狭量だというのは、本当に残念なことです。人はなかなか進化できないものなのですねえ…
高橋氏にしたって、たとえばこの作品は、最終話に記載されたアシスタントさんは全員女性で、担当編集は全員男性の名前です。性別のバランスは偏っているわけです。少年漫画、少女漫画は性差に立脚したジャンルだから…というのはもちろんありますが、しかし極端すぎるとは言えるでしょう。
素晴らしい少年漫画を描く女性漫画家は現役でも10指で足りないほど名を挙げられますが、少女漫画を描く男性作家は今や片手に収まるほどでしょう。こういう偏りはどう考えたらいいのでしょう。
物語本筋とは関係ないのですが、ちょっと考えさせられてしまいました。
私は『うる星やつら』と『めぞん一刻』はコミックスを愛蔵しているのですが、あとは人魚と1ポンドと毎年「ビッグコミックオリジナル」に描くキレッキレの読み切りの短編集を何作か…くらいしか読んでいなくて、電子で読むチャンスがあったのですが『らんま1/2』はまあまたいずれね、という気分だったので、今回はこちらを読んでみました。
iPad-miniを横にして見開きでガンガン読み進めたのですが、いやぁ読みやすいこと読みやすいこと、感動しました。あだち、高橋、青山氏のこのネーム・スキルの素晴らしさは尋常じゃありませんよね。見開きの中で計算し尽くされた、流れるようなコマ割り、コマの中の絵の構図、フキダシの位置、台詞の分量や改行がもう完璧オブ完璧で、ちょっとくらい読み流してもどこがどう大事なのかちゃんと際立ってくる構成になっているのです。このものすごく高等なテクニックを、完璧に身につけて、息をするように自然に、自由自在に駆使している…今やこの基本的なスキルが残念ながら怪しい漫画家がたくさん量産されていること、おそらく指導するべき編集者のレベルが低下していることを私は本当に心配しています。もちろん、今に縦スクロール、フルカラーのデジタルコミックが主流になっていってしまい、こうしたコマ割りのテクニックは不要になっていくのかもしれませんが、それでも台詞を縦書きで表記するなら右上から左下への視線の流れを意識することは大切なことなはずです。勉強していってほしいなあ…
それはともかく、そんなわけで、七宝、弥勒、珊瑚や桔梗、殺生丸、奈落といったキャラクターが出揃ってしまえば、あとは毎回手を変え品を変え妖怪とチャンチャンバラバラするだけの漫画なのですが(オイ)、毎回さまざまなキャラクターの妖怪を作り人間のドラマを作り必殺技を作り、その中でメインキャラクターたちの心理ドラマをじりじり展開させ、ラブコメパートもきっちり萌えさせる巨匠の技には感服しないではいられません。楽しく読み進めました。
なので、あとは、こういうタイムスリップものというか異世界転移ものみたいなものは、本来は違う時空に生きていたふたりが出会い恋に落ちてしまうものなので、ではそのゴールは? ラストはどう落とす? というのが焦点になってきます。桔梗がどうの奈落がどうの兄がどうの刀がどうのというのは、まあまとまるところにまとまるんだろうけれど、結局かごめと犬夜叉ってどう結ばれてどう終わるの? それとも結ばれないパターンなの…? ということを心配して、私は終盤を読み進めたのでした。
犬夜叉は半妖で、それを兄を始め妖怪たちからは蔑まれ嘲笑われていたので、本人としては完全な妖怪になりたかったのだろうし、それが四魂の玉のなんちゃらで叶う、みたいな展開もあったのかもしれませんが、逆に同じように、ただの人間になる、ということもできるのかもしれなくて、それでかごめと添い遂げる…というのもアリだよな、と私は思っていました。やはり種族が違う、というのは添い遂げるにはなかなかしんどいことだと思うので。なので犬夜叉が戦国時代でやりたいことは全部やって、満足して納得して人間になって、現代に来てくれたら、かごめもいろいろ教えてあげられるだろうし、それでふたりは末永く幸せに…というハッピーエンド、というのはわかりやすいゴールではなかろうか、と思っていたのです。
が、意外にも…物語は、かごめが戦国時代で生きることを選ぶ形で終わりました。わりと、珍しい形かなと思います。この形は、どうしてもヒロインが捨てるもの、失うものが大きすぎるように見えて、ハッピーエンドに見えづらくなる危険があるからでしょう。
でもこの作品はとてもよくできていて、かごめが現代と戦国時代を行き来していることをかごめの母親も弟も知っているし、犬夜叉も現代側に来たときは弟と遊んだりかごめの母親の手料理を食べていたりする。家族ぐるみのおつきあい、みたいなものがいつのまにかできているんですね。さらに、かごめは中学卒業とともに戦国時代での犬夜叉との旅を一度終えて、その後は現代側できちんと高校時代を過ごし、その上で、卒業と同時に、ちょうど大学進学とか就職とかの進路を選ぶように、戦国時代に帰ることを選択するのです。これはすごくいい流れだと思いました。
会えない時間が愛をさらに育てたのかもしれないし、会えずに離れていても結局忘れられないということがわかって、いろいろちゃんと冷静に考えて、大人として選択した結果、かごめは再び井戸を潜るのです。この場合の18歳は確かに成人なのでした。
人は何もかもを手に入れることはできなくて、何かを選んだら何かを捨てざるをえない。かごめはいやいや何かを犠牲にしたのではなく、犠牲を強いられたのでもなく、自分で考えて自分で取捨選択したのです。確かに現代より戦国時代の方が生きづらい、かもしれない。だからそれはしんどい選択、なのかもしれない。それでも、かごめは犬夜叉と共に生きることを選んだのでした。犬夜叉は半妖のままだけれど、今はもう妖怪になりたいとかは考えていないし、妖怪だから人間とは相容れないもの、という考え方もしていない。だから、そのままで大丈夫なのだ、共に生きていくのだ…という、オチですね。素敵ですね。感動しました。
私はこの手のもののラストだと、『ふしぎ遊戯』と『漂流教室』のラスト、落とし方が好きです。また読み返したいなあ。そしてたとえば『王家の紋章』なんかは、メンフィスがキャロルの兄とそっくりってところに何かキモがあると信じていて、これは現代側でハッピーエンドになるのでは(だってメンフィスって史実では若くして死んじゃう王様なんだろうから…)、と想像しているのですが…頼むから死ぬ前に完結させてくれ、それは作家としての義務だよ細川先生…
とまれ、終盤ちょっと巻きが入った感じはありますが、綺麗にまとまったお話で、よかったです。新しいアニメの展開があるんだそうですね、そういうのもまたいいものですね。
次は『らんま』を読もうかな、どうしようかな…
ところで『鬼滅の刃』の漫画家さんが女性だったと判明して何やら騒ぎが…とかなんとかがあったそうですが、はっきり言ってどうでもいいしちゃんちゃらおかしいことですが、翻って高橋氏は女名前、どころかペンネームですらない本名でデビューし、半世紀近く少年漫画界で活躍してきたわけです。当人の才能云々はもちろんとして、しかしこれはどういう事情だったんでしょうかね。当時の編集者が男性名のペンネームをつけるよう指導した…というような話はまったく聞きませんし、そういう妙な考えやこだわりは編集部側も当人も特になかったということなのでしょうか。
また、女名前だからといって女性性を売りにしていた、というようなこともまったくありませんでした。なんせデビュー作が『うる星やつら』(というかその前身の『勝手なやつら』ですが)で、絵も話もキャラクターもノリも女性作家ならでは、なんてものでは全然ない、むしろそういうものをまったく超越したまったく新しく特異なセンスの作家で、それが売りで、とにかく作品がすべてで作家の性別なんか誰も気にしちゃいない、というのが当時の空気だったと実感として私は記憶しているのですが、さて真相はどうなんでしょう…
ただ、これは本当にたまたまな、レアケースで、それ以外はわりと、作家さん本人が、また編集部が、変な気を回して、中性的な、あるいは性別がわからないペンネームをつける・つけさせることは多かったと思います。残念なことですが、事実でしょう。そして今のこの騒ぎ(というほどのものでは全然ないのですが)を見るにつけ、昭和より令和の読者の方が狭量だというのは、本当に残念なことです。人はなかなか進化できないものなのですねえ…
高橋氏にしたって、たとえばこの作品は、最終話に記載されたアシスタントさんは全員女性で、担当編集は全員男性の名前です。性別のバランスは偏っているわけです。少年漫画、少女漫画は性差に立脚したジャンルだから…というのはもちろんありますが、しかし極端すぎるとは言えるでしょう。
素晴らしい少年漫画を描く女性漫画家は現役でも10指で足りないほど名を挙げられますが、少女漫画を描く男性作家は今や片手に収まるほどでしょう。こういう偏りはどう考えたらいいのでしょう。
物語本筋とは関係ないのですが、ちょっと考えさせられてしまいました。
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