東京宝塚劇場、2013年5月19日ソワレ、21日ソワレ。
19世紀初頭のフランス。皇帝ナポレオンが失脚しエルバ島に追放されていたころ、地中海に面した港町マルセイユでは若き航海士エドモン・ダンテス(凰稀かなめ)が恋人のメルセデス(実咲凛音)と結婚式を挙げていた。船長への昇進も決まり幸せの絶頂にいたエドモンだが、突然身に覚えのない容疑で逮捕され、シャトー・ディフに投獄されてしまう…
原作/アレクサンドル=デュマ・ペール、脚本・演出/石田昌也、作曲・編曲/手島恭子。
わかりやすかったし、退屈しなかったし、おもしろかったです。というかおもしろすぎた? 終盤の大団円展開はすごすぎるだろう…映画版なども原作と違ってハッピーエンドになることが多いとは聞いていたので、その程度の覚悟(?)はできてはいたのですが…いやあ驚きましたよ。
しかし楽しくは観ました、確かに。だがしかしそれは不満がないということではないのです。ホント毎度毎度うるさくてすみません。
石田先生と言えば…ということでもありませんが、まずは現代アメリカのハイスクール演劇部について。
いや、いいんですよ? とても演劇的なギミックだと思うし、役が増えることにもなるし、扮する生徒たちはそれぞれ達者でいい仕事をしているし、フェルナン(朝夏まなと)の父になったりナポレオンになったりフェルナンの悪行を揶揄するレストランの余興役者になったり、というのはとても上手いしおもしろい。
二十年もに渡る話の筋がわかりやすくもなりますしね。それがたとえ戸塚ヨットスクールとか(古いよ!)振り込め詐欺とかインサイダー取引とかのしょうもない言葉で説明されるとしてもね。
ただ、そのわかりやすさがね…説明の過多さがね…
観客は基本的には芝居の登場人物、もっと言えば主人公、要するにこの場合はエドモンに感情移入して話の筋を追いたいものなのですよ。でも演劇部員たちが出てきて説明を始めちゃうと、時空は19世紀フランスから現代アメリカに切り替わっちゃうわけで感情的に途切れてしまうし、外野が客観的に説明するのを聞くことで感情移入も途切れるわけです。
さらにこの「説明」がね、本当は観客が主人公に感情移入してお話を追体験することで「自分で」味わいたい感情なんですよ。怒りも、苦しみも、悲しみも、虚しさも。自分で感じて自分で掴みたいの。
でも先に外から言われちゃう。それがつらい。
演劇部員にしても、だいたいがファリア司祭(寿つかさ)やベルツッチオ(緒月遠麻)にしても、エドモンより先に言いすぎなんです。エドモンが復讐を始める前から、復讐なんて虚しいよ、それじゃ幸せになれないよ、とか言いすぎ。しかも本当のことだからたちが悪い。それを主人公が後追いしているだけみたいに見えてしまう。
そうじゃなくて、主人公がまず先に行動して、怒って悲しんで復讐を始めて、でもスッキリしなくて虚しくて…という思いを自分で経験して、観客もそれに同調して、それで初めて「復讐は虚しい、それでは幸せになれないんだ」と「発見」しなくては駄目なんですよ。周りのキャラはそれを見守り、そのとき支えてくれるべきなんですよ。なのに先回りしすぎ。
だから最初からエドモンが失敗する道筋が見えてしまうし、下手したらエドモンが愚かに見えてしまう。これは汚いヒゲ面以上に主人公をかっこ悪く見せる、宝塚歌劇としてはかなり問題がある構造になってしまっていると言えるでしょう。宝塚歌劇については私はかなり狭く考えすぎるきらいがあると自覚してもいますが、しかし宝塚歌劇は普通の演劇とはちょっとちがくて、役者を、生徒を、スターを、もっと言えばトップスターを素敵に見せることをある種の使命のひとつとしているはずだ、とは断言してもいいと思うのですよね。
このエドモンは、私には、愚かで情けない人間に見えた。テルがキラキラした美貌を見せても、それを封印する悪ぶりを見せても、熱い怒りや苦悩のいい演技を見せても、主人公に同調しきれない構造が作られてしまっているからです。外野が先回りし説明してしまう形になってしまっているからです。
この点が、私にはとにかく問題に思えました。
宝塚歌劇を狭く考える、ということについては、ダングラール(悠未ひろ)の妻エルミーヌ(愛花ちさき)についてやフェルナンに奴隷に売られたギリシャの姫エデ(すみれ乃麗)についても、私はけっこう気に障りました。まあ石田作品にはこれくらいのことはつきものなのかもしれませんけれどね…
原作そのまんまなのかもしれませんが、たとえばダングラールとエルミーヌの別れ際、エルミーヌが今まで自分を石女呼ばわり(イヤさすがにこの言葉はありませんでしたが。あったら私はマジでキレていたと思う)してきた姑のオービーヌ(鈴奈沙也)に対し、自分には過去に妊娠・出産歴があり、だから問題があったのはあんたの息子の方なんだ、というようなことを言い捨てて去っていくくだり。
気持ちとしてはエルミーヌの悔しさもわかるし、最後にこれくらい言ってやりたい気持ちもわかる。女性として品がないともタカラジェンヌにやらせたくないともスミレコードに抵触するとも思わない。
でも、これって要するにともちんを種無しだと詰り嘲笑っているってことだよね、と思うと、ちょっとおもしろくなりすぎでしまうのですよ、私はね。『ニジンスキー』のマスターベーションについても『ミーマイ』の勃起隠しについても似たようなことを書きましたが、どんな役だろうと演じているのはタカラジェンヌであって女性であってペニスはないし射精もしないの! そういうことを想起させないように上手く作るデリカシーは座付き作者には絶対に必要なんじゃないの?と私は思ってしまうのです。
もしかしたら男性の自虐感が投影されているのかもしれませんが、だったらなおさらやめたもらいたいわー。
エデ姫の運命に関しても、説明のためだというのはわかりますよ? でも「多くの男の慰み者に」とかまで言わせなくてもいいじゃん、「奴隷に売られた」でそのつらさは十分わかるしそれ以上のことも普通に類推できますよ。デリカシーがなさすぎる。「押しかけ女房」という言葉の時代錯誤感に笑う、というのとはレベルが違う不快感でした。あくまで私には、ですが。
原作ではメルセデスは修道院に隠遁し、エドモンはこのエデ姫と結ばれるんだそうですね。それはそれで深いなあ…おもしろい、いいキャラクターなんだけれどねえ。だからこそ残念でした。
さてしかし濃いお芝居ではあるわけで、役も多く、生徒さんはみんな健闘していたと思います。
まぁさまのしょうもないチャラボンボンっぷりは素晴らしく、ともちんやちーちゃんの小物悪人感も素晴らしい。せーこの悪女っぷり、タラちゃん、れーれも素晴らしい。
カイちゃんもボス役をいかにも楽しそうにやっていましたし、手下のりんきら、まっぷー、モンチは手堅く上手い。
そしてキタさんは完全に儲け役に見えました。いい役だよねえベルツッチオ!
さっつんとかてんれーとか要所でいい仕事しているし、アリサちゃんもいいしエツ姉もいいし、あっきーもあまり出番はなかったけれどいい仕事をしていました。それからするとやはりフランツの美月悠はまだまだできていなくって、ああやはり今までの使われ方でこんなに差がつくんだなあ、と感じました。新公はがんばっていたらしいので、これからがんばれ!
そして私のごひいきの愛ちゃん、よかったよー。『TRAFALGAR』の息子役とはまた違う、おそらくもっと若い青年アルベール。キラキラしてたわー。
しかしこれまた原作から改変されているそうですが、アルベールをエドモンの子だとする必要性はあるのか。というか自分の子供ならそれでハッピーエンドなのか、男ってホント了見狭いな。あと確かに私も「えええ、じゃあ結婚前にやるこたやってたってことなの!?」とは思いましたが、しかしそういう愛の行為を、もちろんテレ隠しとはいえ主人公に「一夜の火遊び、過ち」とか言わせないでくださいよマジで…あと子供を「愛の結晶」とか表現するのはマジでオヤジ臭い。まして続く「ちょっと大きな結晶だけどな」みたいなギャグはもう寒すぎてなんも言えねえ(もはや古い。わざとです)。
あ、主役ふたりが後回しになってしまった。
みりおんは確かに達者で素晴らしい。ところで「葛藤ダンサー」(この名前…)が出るくだりはカゲソロが欲しかったなー。それはともかくこの決闘シーンが確かに泣かせたのだけれど、これもまた、母であるヒロインに対し主人公が負けるということなので、宝塚歌劇としてはいかがなものか、とはちょっと引っかかりました。
あと、「私はまだあなたを愛している」と言って剣を落とすというのは、物語としてはわかるけれど、リアリティとしては嘘くさいなと思いました。人って日々を生きるのに精一杯で、昔の恋人をずっと愛し続けるなんてこたできないと思うんですよね。再会したら心が揺れた、ってのはあると思うんだけれど。まあ男は別れた女がいつまでも自分を愛していると思いたい生き物なんだろうから、ここは見逃してやってもいい(エラそう)。
でも私はメルセデスがここで、だったらと刃を自分に向けてしまうのではないかな、とか思ったのですよね。エドモンはメルセデスを刺せなかったのだけれど、メルセデスが自害してしまったら、それこそ虚しさを痛感するのではないかしらん…とか思ったのでした。
もちろん舞台はもっととんでもない大団円を目指していたので(新ファラオン号が出てきたときにはマジで笑いました。そこまですべてを回復したいのか、これですべてが取り戻せたことになると思ってんのかオイ!)、こんなところでヒロインに落命させるわけにはいかなかったのですが。
そしてテル、素晴らしかったですよ。本当に芝居心がある人ですよね。超絶スタイルも素晴らしい。『風共』はどちらかというとスカーレットが観たい気もしなくもないけれど、まさかのバトラーとの二役ってのもアリなんでしょうかね…最近の劇団はなんでもありだと思っているからな…
この先も、都会的なラブコメみたいなのも観てみたいし、正塚芝居みたいなのもいいかもしれませんよね。とりあえずは『うたかた』が楽しみだなあ。
いいトップスター・オーラが出てきたと思います。期待しています。
***
レビュー・ルネッサンス『Amour de 99!!』は作・演出/藤井大介。これまでのショーやレビューの名場面の再演集で、これでもかという力ワザのきらびやかさをがっつり堪能しました。
幕開きはチョンパ。暗い中に銀橋に出てくる生徒さんたちの気配がなんとなく感じられても、明かりがつくとズラリとそこにいるのはやはり圧巻でどよめきが起きます。正しい。
そしてすっしーさんばかり見てしまう私…
テルに続いてまぁさま、キタさん、ともちん、圭子お姉さまそしてみりおんが花月雪星宙を歌い、そして総踊りへ。正しいプロローグです。
まぁさまがあおいちゃん、エツ姉、せーこにタラちゃんのお姉さま方を引き連れて「ザ・レビュー」、そして「グラナダ」へ。ごめんここでもすっしーさん見てたかも…だってやっぱ上手いし!
3組のカップルの銀橋「ボン・バランス」はあっきー愛りくにれーれアリサゆうりちゃん。ここはあっきーを見ていましたよ綺麗だなあデレデレ。
そして『ザ・ストーム』より「祈り」、カッコよかった! ただ、お衣装が場面にあっていない気もしましたけれどね…でも完全再現なんですよね。『ザ・ストーム』自体を映像でも見たことがないので、見てみたいなあ…
あ、ここはモンチの踊りが上手いなあと思いました。
キタさんの「タカラジェンヌに栄光あれ」、歌手枠のお姉さま方にさっつんてんれー、ってのがちょっと笑えました。てか驚いた(^^;)。
ここから「リオのリズム」フルーツ祭り!
テルのライチの男、まぁさまのブルーベリーの男、ちーカイのバナナの男、れーれゆうりのバナナの女、キタさんのドラゴンフルーツの男、みりおんのパッションフルーツの女、ともちんのグレープの男。
せっかく手拍子ガンガンなのに、主に娘役場面はアダージョにしてしまうので客席が静まっちゃうのがもったいないなと思いました。
そしてセリ上がり&盆回し最強! 後ろ姿が本当にパイナップル!の女王登場、振り向いておみ脚が見えればたちまちどよめきが沸き起こる!! 素晴らしい! 美脚万歳!!
この成熟した色気のあとにロケットの初々しさはやや分が悪いのですが、可愛らしかったです。
続いてちーカイの「愛のクレッシェンド」、そして「パッシィの館」へ。映像でしか観ていませんが『メモアール・ド・パリ』は三指に入る私の大好きなショーです!
確かにみりおんのドレスの裾さばきは、材質が昔と違うことを考慮してもまだまだかもしれない。まぁさまも大健闘しているけれどナツメさんのあの洒脱さまでは再現できていないかもしれない。
でもとてもいい場面ですよね、単純に。音楽も美しい、アッキーも素敵(アレ?)。
ともちんの「愛の宝石」、このカゲソロも素晴らしい。
そして「シャンゴ」、圭子お姉さまが歌い男女が踊ります…が、キタさんの女はやはりゴツいよデカいよ…
圧巻のフィナーレから娘役ちゃんたちの「ハッピー・トゥモロー」へ。このお衣装100万回見た…あとれーれはいいんだけどみりおんもゆうりちゃんもこういうのはカマトトに見える…しょぼん。
「愛!」の黒燕尾、赤い薔薇。「TAKARAZUKA FOREVER」でのデュエダン。美しい。
パレードはあおいちゃんのエトワールから。センター下りが多くなっていて嬉しかったです。
終演後は眩しさに目がくらんでいておなかいっぱいで幸せでした。いいことです。100周年も101年も150年もがんばっていただきたいです。
19世紀初頭のフランス。皇帝ナポレオンが失脚しエルバ島に追放されていたころ、地中海に面した港町マルセイユでは若き航海士エドモン・ダンテス(凰稀かなめ)が恋人のメルセデス(実咲凛音)と結婚式を挙げていた。船長への昇進も決まり幸せの絶頂にいたエドモンだが、突然身に覚えのない容疑で逮捕され、シャトー・ディフに投獄されてしまう…
原作/アレクサンドル=デュマ・ペール、脚本・演出/石田昌也、作曲・編曲/手島恭子。
わかりやすかったし、退屈しなかったし、おもしろかったです。というかおもしろすぎた? 終盤の大団円展開はすごすぎるだろう…映画版なども原作と違ってハッピーエンドになることが多いとは聞いていたので、その程度の覚悟(?)はできてはいたのですが…いやあ驚きましたよ。
しかし楽しくは観ました、確かに。だがしかしそれは不満がないということではないのです。ホント毎度毎度うるさくてすみません。
石田先生と言えば…ということでもありませんが、まずは現代アメリカのハイスクール演劇部について。
いや、いいんですよ? とても演劇的なギミックだと思うし、役が増えることにもなるし、扮する生徒たちはそれぞれ達者でいい仕事をしているし、フェルナン(朝夏まなと)の父になったりナポレオンになったりフェルナンの悪行を揶揄するレストランの余興役者になったり、というのはとても上手いしおもしろい。
二十年もに渡る話の筋がわかりやすくもなりますしね。それがたとえ戸塚ヨットスクールとか(古いよ!)振り込め詐欺とかインサイダー取引とかのしょうもない言葉で説明されるとしてもね。
ただ、そのわかりやすさがね…説明の過多さがね…
観客は基本的には芝居の登場人物、もっと言えば主人公、要するにこの場合はエドモンに感情移入して話の筋を追いたいものなのですよ。でも演劇部員たちが出てきて説明を始めちゃうと、時空は19世紀フランスから現代アメリカに切り替わっちゃうわけで感情的に途切れてしまうし、外野が客観的に説明するのを聞くことで感情移入も途切れるわけです。
さらにこの「説明」がね、本当は観客が主人公に感情移入してお話を追体験することで「自分で」味わいたい感情なんですよ。怒りも、苦しみも、悲しみも、虚しさも。自分で感じて自分で掴みたいの。
でも先に外から言われちゃう。それがつらい。
演劇部員にしても、だいたいがファリア司祭(寿つかさ)やベルツッチオ(緒月遠麻)にしても、エドモンより先に言いすぎなんです。エドモンが復讐を始める前から、復讐なんて虚しいよ、それじゃ幸せになれないよ、とか言いすぎ。しかも本当のことだからたちが悪い。それを主人公が後追いしているだけみたいに見えてしまう。
そうじゃなくて、主人公がまず先に行動して、怒って悲しんで復讐を始めて、でもスッキリしなくて虚しくて…という思いを自分で経験して、観客もそれに同調して、それで初めて「復讐は虚しい、それでは幸せになれないんだ」と「発見」しなくては駄目なんですよ。周りのキャラはそれを見守り、そのとき支えてくれるべきなんですよ。なのに先回りしすぎ。
だから最初からエドモンが失敗する道筋が見えてしまうし、下手したらエドモンが愚かに見えてしまう。これは汚いヒゲ面以上に主人公をかっこ悪く見せる、宝塚歌劇としてはかなり問題がある構造になってしまっていると言えるでしょう。宝塚歌劇については私はかなり狭く考えすぎるきらいがあると自覚してもいますが、しかし宝塚歌劇は普通の演劇とはちょっとちがくて、役者を、生徒を、スターを、もっと言えばトップスターを素敵に見せることをある種の使命のひとつとしているはずだ、とは断言してもいいと思うのですよね。
このエドモンは、私には、愚かで情けない人間に見えた。テルがキラキラした美貌を見せても、それを封印する悪ぶりを見せても、熱い怒りや苦悩のいい演技を見せても、主人公に同調しきれない構造が作られてしまっているからです。外野が先回りし説明してしまう形になってしまっているからです。
この点が、私にはとにかく問題に思えました。
宝塚歌劇を狭く考える、ということについては、ダングラール(悠未ひろ)の妻エルミーヌ(愛花ちさき)についてやフェルナンに奴隷に売られたギリシャの姫エデ(すみれ乃麗)についても、私はけっこう気に障りました。まあ石田作品にはこれくらいのことはつきものなのかもしれませんけれどね…
原作そのまんまなのかもしれませんが、たとえばダングラールとエルミーヌの別れ際、エルミーヌが今まで自分を石女呼ばわり(イヤさすがにこの言葉はありませんでしたが。あったら私はマジでキレていたと思う)してきた姑のオービーヌ(鈴奈沙也)に対し、自分には過去に妊娠・出産歴があり、だから問題があったのはあんたの息子の方なんだ、というようなことを言い捨てて去っていくくだり。
気持ちとしてはエルミーヌの悔しさもわかるし、最後にこれくらい言ってやりたい気持ちもわかる。女性として品がないともタカラジェンヌにやらせたくないともスミレコードに抵触するとも思わない。
でも、これって要するにともちんを種無しだと詰り嘲笑っているってことだよね、と思うと、ちょっとおもしろくなりすぎでしまうのですよ、私はね。『ニジンスキー』のマスターベーションについても『ミーマイ』の勃起隠しについても似たようなことを書きましたが、どんな役だろうと演じているのはタカラジェンヌであって女性であってペニスはないし射精もしないの! そういうことを想起させないように上手く作るデリカシーは座付き作者には絶対に必要なんじゃないの?と私は思ってしまうのです。
もしかしたら男性の自虐感が投影されているのかもしれませんが、だったらなおさらやめたもらいたいわー。
エデ姫の運命に関しても、説明のためだというのはわかりますよ? でも「多くの男の慰み者に」とかまで言わせなくてもいいじゃん、「奴隷に売られた」でそのつらさは十分わかるしそれ以上のことも普通に類推できますよ。デリカシーがなさすぎる。「押しかけ女房」という言葉の時代錯誤感に笑う、というのとはレベルが違う不快感でした。あくまで私には、ですが。
原作ではメルセデスは修道院に隠遁し、エドモンはこのエデ姫と結ばれるんだそうですね。それはそれで深いなあ…おもしろい、いいキャラクターなんだけれどねえ。だからこそ残念でした。
さてしかし濃いお芝居ではあるわけで、役も多く、生徒さんはみんな健闘していたと思います。
まぁさまのしょうもないチャラボンボンっぷりは素晴らしく、ともちんやちーちゃんの小物悪人感も素晴らしい。せーこの悪女っぷり、タラちゃん、れーれも素晴らしい。
カイちゃんもボス役をいかにも楽しそうにやっていましたし、手下のりんきら、まっぷー、モンチは手堅く上手い。
そしてキタさんは完全に儲け役に見えました。いい役だよねえベルツッチオ!
さっつんとかてんれーとか要所でいい仕事しているし、アリサちゃんもいいしエツ姉もいいし、あっきーもあまり出番はなかったけれどいい仕事をしていました。それからするとやはりフランツの美月悠はまだまだできていなくって、ああやはり今までの使われ方でこんなに差がつくんだなあ、と感じました。新公はがんばっていたらしいので、これからがんばれ!
そして私のごひいきの愛ちゃん、よかったよー。『TRAFALGAR』の息子役とはまた違う、おそらくもっと若い青年アルベール。キラキラしてたわー。
しかしこれまた原作から改変されているそうですが、アルベールをエドモンの子だとする必要性はあるのか。というか自分の子供ならそれでハッピーエンドなのか、男ってホント了見狭いな。あと確かに私も「えええ、じゃあ結婚前にやるこたやってたってことなの!?」とは思いましたが、しかしそういう愛の行為を、もちろんテレ隠しとはいえ主人公に「一夜の火遊び、過ち」とか言わせないでくださいよマジで…あと子供を「愛の結晶」とか表現するのはマジでオヤジ臭い。まして続く「ちょっと大きな結晶だけどな」みたいなギャグはもう寒すぎてなんも言えねえ(もはや古い。わざとです)。
あ、主役ふたりが後回しになってしまった。
みりおんは確かに達者で素晴らしい。ところで「葛藤ダンサー」(この名前…)が出るくだりはカゲソロが欲しかったなー。それはともかくこの決闘シーンが確かに泣かせたのだけれど、これもまた、母であるヒロインに対し主人公が負けるということなので、宝塚歌劇としてはいかがなものか、とはちょっと引っかかりました。
あと、「私はまだあなたを愛している」と言って剣を落とすというのは、物語としてはわかるけれど、リアリティとしては嘘くさいなと思いました。人って日々を生きるのに精一杯で、昔の恋人をずっと愛し続けるなんてこたできないと思うんですよね。再会したら心が揺れた、ってのはあると思うんだけれど。まあ男は別れた女がいつまでも自分を愛していると思いたい生き物なんだろうから、ここは見逃してやってもいい(エラそう)。
でも私はメルセデスがここで、だったらと刃を自分に向けてしまうのではないかな、とか思ったのですよね。エドモンはメルセデスを刺せなかったのだけれど、メルセデスが自害してしまったら、それこそ虚しさを痛感するのではないかしらん…とか思ったのでした。
もちろん舞台はもっととんでもない大団円を目指していたので(新ファラオン号が出てきたときにはマジで笑いました。そこまですべてを回復したいのか、これですべてが取り戻せたことになると思ってんのかオイ!)、こんなところでヒロインに落命させるわけにはいかなかったのですが。
そしてテル、素晴らしかったですよ。本当に芝居心がある人ですよね。超絶スタイルも素晴らしい。『風共』はどちらかというとスカーレットが観たい気もしなくもないけれど、まさかのバトラーとの二役ってのもアリなんでしょうかね…最近の劇団はなんでもありだと思っているからな…
この先も、都会的なラブコメみたいなのも観てみたいし、正塚芝居みたいなのもいいかもしれませんよね。とりあえずは『うたかた』が楽しみだなあ。
いいトップスター・オーラが出てきたと思います。期待しています。
***
レビュー・ルネッサンス『Amour de 99!!』は作・演出/藤井大介。これまでのショーやレビューの名場面の再演集で、これでもかという力ワザのきらびやかさをがっつり堪能しました。
幕開きはチョンパ。暗い中に銀橋に出てくる生徒さんたちの気配がなんとなく感じられても、明かりがつくとズラリとそこにいるのはやはり圧巻でどよめきが起きます。正しい。
そしてすっしーさんばかり見てしまう私…
テルに続いてまぁさま、キタさん、ともちん、圭子お姉さまそしてみりおんが花月雪星宙を歌い、そして総踊りへ。正しいプロローグです。
まぁさまがあおいちゃん、エツ姉、せーこにタラちゃんのお姉さま方を引き連れて「ザ・レビュー」、そして「グラナダ」へ。ごめんここでもすっしーさん見てたかも…だってやっぱ上手いし!
3組のカップルの銀橋「ボン・バランス」はあっきー愛りくにれーれアリサゆうりちゃん。ここはあっきーを見ていましたよ綺麗だなあデレデレ。
そして『ザ・ストーム』より「祈り」、カッコよかった! ただ、お衣装が場面にあっていない気もしましたけれどね…でも完全再現なんですよね。『ザ・ストーム』自体を映像でも見たことがないので、見てみたいなあ…
あ、ここはモンチの踊りが上手いなあと思いました。
キタさんの「タカラジェンヌに栄光あれ」、歌手枠のお姉さま方にさっつんてんれー、ってのがちょっと笑えました。てか驚いた(^^;)。
ここから「リオのリズム」フルーツ祭り!
テルのライチの男、まぁさまのブルーベリーの男、ちーカイのバナナの男、れーれゆうりのバナナの女、キタさんのドラゴンフルーツの男、みりおんのパッションフルーツの女、ともちんのグレープの男。
せっかく手拍子ガンガンなのに、主に娘役場面はアダージョにしてしまうので客席が静まっちゃうのがもったいないなと思いました。
そしてセリ上がり&盆回し最強! 後ろ姿が本当にパイナップル!の女王登場、振り向いておみ脚が見えればたちまちどよめきが沸き起こる!! 素晴らしい! 美脚万歳!!
この成熟した色気のあとにロケットの初々しさはやや分が悪いのですが、可愛らしかったです。
続いてちーカイの「愛のクレッシェンド」、そして「パッシィの館」へ。映像でしか観ていませんが『メモアール・ド・パリ』は三指に入る私の大好きなショーです!
確かにみりおんのドレスの裾さばきは、材質が昔と違うことを考慮してもまだまだかもしれない。まぁさまも大健闘しているけれどナツメさんのあの洒脱さまでは再現できていないかもしれない。
でもとてもいい場面ですよね、単純に。音楽も美しい、アッキーも素敵(アレ?)。
ともちんの「愛の宝石」、このカゲソロも素晴らしい。
そして「シャンゴ」、圭子お姉さまが歌い男女が踊ります…が、キタさんの女はやはりゴツいよデカいよ…
圧巻のフィナーレから娘役ちゃんたちの「ハッピー・トゥモロー」へ。このお衣装100万回見た…あとれーれはいいんだけどみりおんもゆうりちゃんもこういうのはカマトトに見える…しょぼん。
「愛!」の黒燕尾、赤い薔薇。「TAKARAZUKA FOREVER」でのデュエダン。美しい。
パレードはあおいちゃんのエトワールから。センター下りが多くなっていて嬉しかったです。
終演後は眩しさに目がくらんでいておなかいっぱいで幸せでした。いいことです。100周年も101年も150年もがんばっていただきたいです。
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