大空さんの「表現者ノマド~演じること、物語ること~」の第三回を観覧してきました。ゲストは漫画家の美内すずえ先生。
ところでこれって観覧というのはヘンなのかな、講座だから受講、かな? 参加、ではない気がします。
でも第一回も観ましたが、クリエイター同士がお酒でも呑んで、でも真面目な話をしている会合?を、ちょっとだけオフィシャルな形にして横から覗き見させてもらっているような、なんかそんな感じなんですよね毎回。単なる対談とかトークショー、というのとは違う空気を感じます。それはホストの「俳優・大空祐飛」の手腕なのかもしれません、もしかしたら。
というワケで今回は、言わずと知れた演劇漫画の傑作『ガラスの仮面』の作者がゲスト。大空さんてばどアタマから「女の子なら誰でも…」と始めて一瞬固まりました。確かに会場は女性が多かったけれど男性もいないことはなかったし、50になっても60になっても女子は女子という今の風潮から考えても「女の子」と呼ぶのはさすがに…という妙齢以上の女性が大半でしたからね(^^;)。
まあでもとにかく、読んだことがない人はいないとまでは言わないけれど、その存在は大半に知られているであろう少女漫画作品です。大空さんは入団前くらいにその頃刊行されていた分くらいはコミックスで読んでいて、あとはわりに最近、アタマから最新巻までを一気読みして「なんておもしろいんだ!」となったそうです。また美内先生とは、美輪明宏の舞台を観劇したときに席が偶然お隣だったり、児玉先生が演出した『女海賊ビアンカ』(ご存じ『ガラスの仮面』の劇中劇を舞台化したもの)を観劇したときも席がお隣で児玉先生に紹介してもらったり、といったご縁があったそうです。大空さんの宝塚歌劇団卒業後第一作『滝の白糸』を演出した蜷川先生も、かつて舞台『ガラスの仮面』を演出しましたしね。ちなみに私は去年のG2演出の舞台は観ました、おもしろかった!!
私自身は、マヤより幼い頃から、おそらくまだコミックスが数巻しか出ていなかった頃から読み始めて、しばらくは最新巻が出るたびに買って全巻保有していました。引っ越しか何かのときに手放して、真澄さんより年上になってから知人に借りてそれまでの巻を一気読みし、その後は続巻が出るたびにその友人から借りて読んでいます。雑誌では追いかけていません。不定期連載で掲載されたりされなかったりしているし、最近の美内先生は雑誌に掲載した原稿をコミックス収録時にほとんど描き直して、話も変えてしまうからです。
今回の美内先生の話によればラストは20年くらい前から決まっているそうですが、だったらさっさと描こうよそろそろもう煮詰まりすぎよ、というくらい話が進みきっているので、マジでちゃんと近々完結させていただきたいです。『王家の紋章』は延々グルグル同じことやってて完結しないまま作者逝去とかになっても仕方がないしそれでもいいと思えますが、『ガラスの仮面』はそういうタイプの作品ではありません。ちゃんとストーリーがあるんだから、オチをつけるのは作者の義務です。読者を裏切らないでいただきたい、と切に願っています。
でもそんなワケででは私がものすごくディープで熱心なファンかというとそんなこともなくて、たとえば美内先生が大阪出身だということも知りませんでしたし、貸し本漫画を読んで育って賃料がかさんで親に止められたので自分で漫画を描き始めた、なんてエピソードも今回初めて知りました。しゃべりの楽しい、明るいおばさまでした。
自分で描いたら描けて、読んだクラスメイトに好評で、先生に「漫画家になれ」って言われてその気になって…というのは、すごくわかるなあ、と思いました。私も字が読めるようになった頃から漫画を読んで育ち、自分でも描いていました。B4の画用紙帖を横長に置いて真ん中で分けて見開きに見立てて、鉛筆描きでコマを割ってストーリーものを何冊も何冊も描いていました。私はクラスメイトに読ませるようなことはしなかったけれど。同様に文章を書くのも好きで、国語の授業の作文なんかお手のもの、これはかなり成績に貢献したと思うなあ。自前の小説は教室の中で回し読みされたりしましたかね。
そんな小学四年生のある日、私はある一冊の本に出会いました。鈴木光明『少女まんが入門』(白泉社)です。担任の先生の親戚が白泉社で描いている漫画家さん…だったのだと思います、よく覚えていないのですが。この本に従って私はペン先だの墨汁だのケント紙だのの道具を揃えて、本格的な漫画原稿制作に取りかかるようになったのでした。
しかもこの頃、白泉社は、というかおそらく花とゆめ編集部は、表参道のとあるビルの一室に漫画家志望の少女たちを集めて、漫画の描き方講座みたいなものを開いていたのです。有料で週一回、全10回、生徒数20名、みたいな。
春先だけだったのかなあ、よく覚えていないのですが、私はそこに2タームほど参加したことがあるのです。まだ中学校に上がる前とかで、クラスの最年少でした。初めてひとりで電車に乗って、乗り換えを間違えないか気が気でなくて大緊張した記憶があります。
おそらく美内先生はその講座に講師としていらしたことかあるはずです。私が受講したかどうかはまったく記憶がないのですが。当時クラスでもらった複製原画は今も実家に残してあると思います。
ことほどさように私は正しいオタクな漫画少女で、この『少女まんが入門』は長らく私のバイブルでした。というか私はその後何度か投稿してすぐ、プロの漫画家になることをあっさりあきらめ、代わりにといってはなんですが出版社に就職し、本当は雑誌記者みたいな仕事がしたかったのに何故か漫画誌の編集部に配属されて(就職試験の面接で漫画の話しかしなかったのだから当然だと今は思う)漫画編集者になったのですが、この本はバイブルであり続けました。実によく出来た本で、今でも十分通用する内容だと思っています。
この本の中で、ストーリーもののプロローグの優れた例として『ガラスの仮面』連載第1話の冒頭部分が紹介されています。そんなもろもろの深い印象や顛末があって、今回のノマドに私はいそいそと出かけたのでした。ちなみに私は美内先生とお仕事をしたことはありません。
話は本当におもしろかったです。漫画家は自分が描いているキャラクターになりきってその絵を描くので、泣いているキャラクターを描くときは泣き顔になるし怒っているキャラクターの絵を描くときは怖い顔になっている、とか、「わかるわかる!」とか思いました。自分もそうだったし、自分が担当させていただいてきた漫画家さんもみんなそうでした。そうやって作品を描きながらキャラクターたちの人生を生きているようなところがあるので、漫画家は演目の中で役を生きる役者みたいなものなのかもしれない…というのも、すごくおもしろいなと思いましたしその感覚はわかるな、と思いました。
短いページ数の作品でも数人、長い作品になれば何十人とキャラクターを生み出し、作品に表さない部分の全人生も考え出してしまうくらいのパワー、それが想像力です。そしてそれをこそ、才能というのです。美内先生がズバリそう言ったとき、私は目ウロコでした。
漫画ならどんなに絵が上手くても、小説ならどんなに文章が上手くても、原稿のアタマ数ページを見ただけで書き手の才能のあるなしがわかる。それは結局、作品にはその人が世界を、人間をどう捉えているかが表れてしまうからで、その人が大きな想像の翼を持っていて多様なキャラクターの生き様を想像できて広い世界を想像できていると、その作品はおもしろく、冒頭だけでもそれが窺えるのです。想像力がない人が知っていること、自分が考えられることだけで作った作品は、狭く浅くつまらない。才能とは、想像力なのです。そしてそれがあるかどうかはもう、生まれつきなのでした。
同じ寝物語を聞いて育ち、同じ本を読んで育っても、そこから大きな想像の翼を生やせる者とそうでない者とがいる。それはもう、生まれつき足が速い人がいるとか泳ぎが上手い人がいるとかと同じことで、誰にもどうしようもないことなのです。
編集者時代に、担当した作品に対してここを生かすためにはここをこうしたらいいとか、こう直した方がここのつじつまが合うとか、そういう助言はたくさんしてきたけれど、おもしろくないものはどう直してもおもしろくないままで、でも何がどうダメなんだろうとか悩んだものでしたが、やっとわかりました。想像力は天性のものであり、才能のあるなしは残念ながら誰にもどうにもできないものなのです。多少でもあれば、鍛えたり伸ばしたりということはできるのでしょう。でもないものはないのです。
編集者は才能ある作家に対して、助言したり支援したり、プロデュースしたりご馳走したり、刺激を与えたり休ませたり、とにかくいろんなことをして全力でサポートしますが、ない才能にできることは残念ながらないのでした。
美内先生が言った「想像の翼」という言葉は、『赤毛のアン』にあった言葉だそうです。少女小説というかジュブナイル文学、ビルドゥングスロマンの傑作ですね。アンはいつでも想像の翼を羽ばたかせて、広い世界を旅していました。美内先生もそうやって、マヤや亜弓、真澄さんや月影先生始めたくさんのキャラクターを生み出し、その人生を紡ぎ出し、その物語を漫画の形に仕立てている。漫画を描きながら、キャラクターになりきり、その人生を追体験するかのようにして生きている。それは役者が舞台で役になりきり役を生きるのと同じなのかもしれない。自分が知らない、経験したことのない時代や世界に生きる役でも、想像力があればその人間になれる、演じられる、それが優れた役者です。滑舌とか身のこなしとか、そういうことは漫画でいう画力とかと同じで、鍛えれば上手くなるテクニックにすぎず、それより何より肝要なのが想像力のあるなしなのです。それを才能と呼ぶのです。
大空さんは次回作『死と乙女』で、独裁政権下に生きたことも拷問を受けたこともないけれど、ヒロイン・ポーリナを演じます。大きな想像の翼を広げて、ポーリナの人生を想像し、シンクロし、表現する。楽しみです。
才能のある者同士は響き合い、違うジャンルで仕事をしていてもすぐに通じ合えるのでしょう。そのトークがおもしろくないわけがなく、そんな貴重なものを観覧させてもらえるこの企画は、なんて贅沢でありがたいものかとしみじみ思います。次回の人選も楽しみですし、都合がつく限り観覧したいです。自分にもちーっちゃいけれど想像の翼がなくもないかなそれとも幻想かなとか思っているごくごく平凡な人間であると私としては、自分では飛べないような大きな空を見せてくれる人には憧れないではいられないのです。そういう意味でも、やっぱり大空さんは私にとって特別な人なのでした。
ところでこれって観覧というのはヘンなのかな、講座だから受講、かな? 参加、ではない気がします。
でも第一回も観ましたが、クリエイター同士がお酒でも呑んで、でも真面目な話をしている会合?を、ちょっとだけオフィシャルな形にして横から覗き見させてもらっているような、なんかそんな感じなんですよね毎回。単なる対談とかトークショー、というのとは違う空気を感じます。それはホストの「俳優・大空祐飛」の手腕なのかもしれません、もしかしたら。
というワケで今回は、言わずと知れた演劇漫画の傑作『ガラスの仮面』の作者がゲスト。大空さんてばどアタマから「女の子なら誰でも…」と始めて一瞬固まりました。確かに会場は女性が多かったけれど男性もいないことはなかったし、50になっても60になっても女子は女子という今の風潮から考えても「女の子」と呼ぶのはさすがに…という妙齢以上の女性が大半でしたからね(^^;)。
まあでもとにかく、読んだことがない人はいないとまでは言わないけれど、その存在は大半に知られているであろう少女漫画作品です。大空さんは入団前くらいにその頃刊行されていた分くらいはコミックスで読んでいて、あとはわりに最近、アタマから最新巻までを一気読みして「なんておもしろいんだ!」となったそうです。また美内先生とは、美輪明宏の舞台を観劇したときに席が偶然お隣だったり、児玉先生が演出した『女海賊ビアンカ』(ご存じ『ガラスの仮面』の劇中劇を舞台化したもの)を観劇したときも席がお隣で児玉先生に紹介してもらったり、といったご縁があったそうです。大空さんの宝塚歌劇団卒業後第一作『滝の白糸』を演出した蜷川先生も、かつて舞台『ガラスの仮面』を演出しましたしね。ちなみに私は去年のG2演出の舞台は観ました、おもしろかった!!
私自身は、マヤより幼い頃から、おそらくまだコミックスが数巻しか出ていなかった頃から読み始めて、しばらくは最新巻が出るたびに買って全巻保有していました。引っ越しか何かのときに手放して、真澄さんより年上になってから知人に借りてそれまでの巻を一気読みし、その後は続巻が出るたびにその友人から借りて読んでいます。雑誌では追いかけていません。不定期連載で掲載されたりされなかったりしているし、最近の美内先生は雑誌に掲載した原稿をコミックス収録時にほとんど描き直して、話も変えてしまうからです。
今回の美内先生の話によればラストは20年くらい前から決まっているそうですが、だったらさっさと描こうよそろそろもう煮詰まりすぎよ、というくらい話が進みきっているので、マジでちゃんと近々完結させていただきたいです。『王家の紋章』は延々グルグル同じことやってて完結しないまま作者逝去とかになっても仕方がないしそれでもいいと思えますが、『ガラスの仮面』はそういうタイプの作品ではありません。ちゃんとストーリーがあるんだから、オチをつけるのは作者の義務です。読者を裏切らないでいただきたい、と切に願っています。
でもそんなワケででは私がものすごくディープで熱心なファンかというとそんなこともなくて、たとえば美内先生が大阪出身だということも知りませんでしたし、貸し本漫画を読んで育って賃料がかさんで親に止められたので自分で漫画を描き始めた、なんてエピソードも今回初めて知りました。しゃべりの楽しい、明るいおばさまでした。
自分で描いたら描けて、読んだクラスメイトに好評で、先生に「漫画家になれ」って言われてその気になって…というのは、すごくわかるなあ、と思いました。私も字が読めるようになった頃から漫画を読んで育ち、自分でも描いていました。B4の画用紙帖を横長に置いて真ん中で分けて見開きに見立てて、鉛筆描きでコマを割ってストーリーものを何冊も何冊も描いていました。私はクラスメイトに読ませるようなことはしなかったけれど。同様に文章を書くのも好きで、国語の授業の作文なんかお手のもの、これはかなり成績に貢献したと思うなあ。自前の小説は教室の中で回し読みされたりしましたかね。
そんな小学四年生のある日、私はある一冊の本に出会いました。鈴木光明『少女まんが入門』(白泉社)です。担任の先生の親戚が白泉社で描いている漫画家さん…だったのだと思います、よく覚えていないのですが。この本に従って私はペン先だの墨汁だのケント紙だのの道具を揃えて、本格的な漫画原稿制作に取りかかるようになったのでした。
しかもこの頃、白泉社は、というかおそらく花とゆめ編集部は、表参道のとあるビルの一室に漫画家志望の少女たちを集めて、漫画の描き方講座みたいなものを開いていたのです。有料で週一回、全10回、生徒数20名、みたいな。
春先だけだったのかなあ、よく覚えていないのですが、私はそこに2タームほど参加したことがあるのです。まだ中学校に上がる前とかで、クラスの最年少でした。初めてひとりで電車に乗って、乗り換えを間違えないか気が気でなくて大緊張した記憶があります。
おそらく美内先生はその講座に講師としていらしたことかあるはずです。私が受講したかどうかはまったく記憶がないのですが。当時クラスでもらった複製原画は今も実家に残してあると思います。
ことほどさように私は正しいオタクな漫画少女で、この『少女まんが入門』は長らく私のバイブルでした。というか私はその後何度か投稿してすぐ、プロの漫画家になることをあっさりあきらめ、代わりにといってはなんですが出版社に就職し、本当は雑誌記者みたいな仕事がしたかったのに何故か漫画誌の編集部に配属されて(就職試験の面接で漫画の話しかしなかったのだから当然だと今は思う)漫画編集者になったのですが、この本はバイブルであり続けました。実によく出来た本で、今でも十分通用する内容だと思っています。
この本の中で、ストーリーもののプロローグの優れた例として『ガラスの仮面』連載第1話の冒頭部分が紹介されています。そんなもろもろの深い印象や顛末があって、今回のノマドに私はいそいそと出かけたのでした。ちなみに私は美内先生とお仕事をしたことはありません。
話は本当におもしろかったです。漫画家は自分が描いているキャラクターになりきってその絵を描くので、泣いているキャラクターを描くときは泣き顔になるし怒っているキャラクターの絵を描くときは怖い顔になっている、とか、「わかるわかる!」とか思いました。自分もそうだったし、自分が担当させていただいてきた漫画家さんもみんなそうでした。そうやって作品を描きながらキャラクターたちの人生を生きているようなところがあるので、漫画家は演目の中で役を生きる役者みたいなものなのかもしれない…というのも、すごくおもしろいなと思いましたしその感覚はわかるな、と思いました。
短いページ数の作品でも数人、長い作品になれば何十人とキャラクターを生み出し、作品に表さない部分の全人生も考え出してしまうくらいのパワー、それが想像力です。そしてそれをこそ、才能というのです。美内先生がズバリそう言ったとき、私は目ウロコでした。
漫画ならどんなに絵が上手くても、小説ならどんなに文章が上手くても、原稿のアタマ数ページを見ただけで書き手の才能のあるなしがわかる。それは結局、作品にはその人が世界を、人間をどう捉えているかが表れてしまうからで、その人が大きな想像の翼を持っていて多様なキャラクターの生き様を想像できて広い世界を想像できていると、その作品はおもしろく、冒頭だけでもそれが窺えるのです。想像力がない人が知っていること、自分が考えられることだけで作った作品は、狭く浅くつまらない。才能とは、想像力なのです。そしてそれがあるかどうかはもう、生まれつきなのでした。
同じ寝物語を聞いて育ち、同じ本を読んで育っても、そこから大きな想像の翼を生やせる者とそうでない者とがいる。それはもう、生まれつき足が速い人がいるとか泳ぎが上手い人がいるとかと同じことで、誰にもどうしようもないことなのです。
編集者時代に、担当した作品に対してここを生かすためにはここをこうしたらいいとか、こう直した方がここのつじつまが合うとか、そういう助言はたくさんしてきたけれど、おもしろくないものはどう直してもおもしろくないままで、でも何がどうダメなんだろうとか悩んだものでしたが、やっとわかりました。想像力は天性のものであり、才能のあるなしは残念ながら誰にもどうにもできないものなのです。多少でもあれば、鍛えたり伸ばしたりということはできるのでしょう。でもないものはないのです。
編集者は才能ある作家に対して、助言したり支援したり、プロデュースしたりご馳走したり、刺激を与えたり休ませたり、とにかくいろんなことをして全力でサポートしますが、ない才能にできることは残念ながらないのでした。
美内先生が言った「想像の翼」という言葉は、『赤毛のアン』にあった言葉だそうです。少女小説というかジュブナイル文学、ビルドゥングスロマンの傑作ですね。アンはいつでも想像の翼を羽ばたかせて、広い世界を旅していました。美内先生もそうやって、マヤや亜弓、真澄さんや月影先生始めたくさんのキャラクターを生み出し、その人生を紡ぎ出し、その物語を漫画の形に仕立てている。漫画を描きながら、キャラクターになりきり、その人生を追体験するかのようにして生きている。それは役者が舞台で役になりきり役を生きるのと同じなのかもしれない。自分が知らない、経験したことのない時代や世界に生きる役でも、想像力があればその人間になれる、演じられる、それが優れた役者です。滑舌とか身のこなしとか、そういうことは漫画でいう画力とかと同じで、鍛えれば上手くなるテクニックにすぎず、それより何より肝要なのが想像力のあるなしなのです。それを才能と呼ぶのです。
大空さんは次回作『死と乙女』で、独裁政権下に生きたことも拷問を受けたこともないけれど、ヒロイン・ポーリナを演じます。大きな想像の翼を広げて、ポーリナの人生を想像し、シンクロし、表現する。楽しみです。
才能のある者同士は響き合い、違うジャンルで仕事をしていてもすぐに通じ合えるのでしょう。そのトークがおもしろくないわけがなく、そんな貴重なものを観覧させてもらえるこの企画は、なんて贅沢でありがたいものかとしみじみ思います。次回の人選も楽しみですし、都合がつく限り観覧したいです。自分にもちーっちゃいけれど想像の翼がなくもないかなそれとも幻想かなとか思っているごくごく平凡な人間であると私としては、自分では飛べないような大きな空を見せてくれる人には憧れないではいられないのです。そういう意味でも、やっぱり大空さんは私にとって特別な人なのでした。
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