駒子の備忘録

観劇記と乱読日記、愛蔵コミック・コラムなどなど

ブロードウェイ・ミュージカル『キャンディード』

2009年11月02日 | 観劇記/タイトルか行
 東京国際フォーラム、2001年7月5日ソワレ。
 原作ヴォルテール、作曲レナード・バーンスタイン、脚本ヒュー・ウィーラー、演出 宮本亜門。
 原作者のヴォルテール(岡田真澄)が道案内を務める劇中劇スタイル。
 ドイツ・ウェストフェリアのツンダー・トロンク城には幸せな4人の若者が住んでいた。まず、ツンダー・テン・トロンク男爵夫人の妹の私生児キャンディード(石井一孝)、その名のとおり率直で天真爛漫な青年。そして男爵令息マキシミリアン(岡幸二郎)と、その妹で花も恥じらう17歳のクネゴンデ(この日は鵜木絵里。増田いづみ、日紫喜恵美のトリプル・キャスト)。さらに奉仕することが喜びの小間使いパケット(シルビア・グラブ)。彼らは家庭教師のパングロス博士(黒田博)に「すべてのものには原因と結果があり、すべてのものは最善の目的のために作られ、世界は有り得る限り最善の世界である」と当時流行の楽天主義を教えられていたからこそ幸せなのだった。だが、パングロスとパケットの「個人授業」を覗き見したクネゴンデが、キャンディードと同じ事をして、男爵に見咎められたからさあ大変。キャンディードは城を追い出され、遍歴を余儀なくされた…
 楽しい音楽劇、歌芝居でした。
 原作にはもっと思想とか哲学とか社会風刺なんかがあったんでしょうが、今もわかることは『青い鳥』のテーマ、という気が私にはしましたが…ち、違うのかな?
 最後に「家を建て、庭を育てよう」と歌われ、青く芽吹く鉢を捧げ持った少女が登場したときには、純粋に感動してしまいましたが、私。
 セットも素敵。オケピットからかなり飛び出した佐渡裕の指揮が見られるのもおトク。そしてやはりオペレッタともミュージカルとも言われたこの作品の醍醐味である、変拍子多用の人間の歌。
 喉は最高の楽器です。初タイトルロールの石井一孝の甘いテノールを堪能しましたし、ヒロインのかなり本格的なコロラトゥーラのアリア「着飾って浮かれましょ」もすばらしかったです。いや、よかった。
 唯一気になったのはニ幕のジャングルでのインディオの扱い。原作どおりとか当時の常識とかなんらかの皮肉や風刺とかがあるのかもしれませんが、私にはただの人種差別にしか見えず、非常に不快でした。その数分間、脳ミソ固まりましたもん。笑いが起きていたようにも思えませんでしたが…
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『屋根の上のヴァイオリン弾き』

2009年11月02日 | 観劇記/タイトルや・ら・わ行
 帝国劇場、2001年6月21日ソワレ。
 1905年、帝政ロシアの寒村、アナテフカ。ここで暮らすユダヤ人たちは、みな屋根の上のヴァイオリン弾きのようだ。落ちないように気を配りながら、愉快で素朴な調べをかき鳴らす。貧しい酪農家のテヴィエ(西田敏行)はお人好しで信心深い楽天家。5人の娘たちには目がなく、長年連れ添った女房のゴールデ(順みつき)には頭が上がらない。娘たちのうち長女ツァイテル(島田歌穂)、次女ホーデル(堀内敬子)、三女チャヴァ(小林さやか)はお年頃…
 オーソドックスながらもチャーミングな舞台でした。多少、地味ではありますが。
 圧政下で迫害される民族と、その中の家族愛というモチーフは『サウンドオブミュージック』なんかと一緒ですね。ユダヤ人の悲劇というのはどうしても我々日本人にはわかりづらいので、日本版では、いつの世にも共通の家族の絆を強調する演出になっているのかもしれません。西田テヴィエのキャラクターともあいまって、成功していると言えるでしょう。この役を900回あまりも演じた森繁久彌版を観ていないのですが、氏はやはり古風な家長を演じたようですね。西田テヴィエは現代的な小市民のお父さん、という感じで、親しみが持てました。
 台詞も歌詞も非常にこなれた日本語になっていることが印象的でした(翻訳者は去年5月逝去。合掌)。というか、台詞が短い。理屈っぽく長々した台詞は全然なくて、短い掛け合いと身振り手振りで情感を表現するような、本当に市井の人々の素朴な暮らしを表現したもので、観やすくわかりやすかったです。歌もよくって、あの「SUNRISE SUNSET」がこの舞台のナンバーだったなんて知りませんでした。
 三人娘は今公演から一新したキャストですが、すべて芸風がちがうのがおもしろかったです。親が決めた縁談よりもさえない幼なじみとの愛を選ぼうとする物静かでおとなしやかな長女と、革新的な思想を持つ学生との愛に目覚めていくしっかり者でちょっとはねっかえりな次女とは、キャストを交換してもおもしろかったかもしれません。
 どうしても島田歌穂には『レ・ミゼラブル』のエポニーヌのイメージが、堀内敬子には『美女と野獣』のベルのイメージがあるので。
 島田歌穂が、演技のうちなんだろうけれど、愛らしく可憐に声を作っているのが、いかにも若作りに見えたもので…でも「すてきな人をみつけてね(MATCHMAKER,MATCHMAKER)」のこの人のパートはえらく難しくてやはりこの人にしか歌えなさそうだったし、逆に「愛する我が家をはなれて(FAR FROM THE HOME I LOVE)」はやはり堀内敬子のソプラノでこそ、という気もするし…
 歌と言えば、順みつきはつらかったなー。台詞の声は実にいいのに、歌が女声になっていないんでしょうか。宝塚歌劇団ではもちろん男役でしたが、初代スカーレットでもあったんですがねえ。
 観劇した回は偶然にも西田テヴィエ250回記念公演でした。物語の中でお言葉をせがまれた司祭さまが「アーメン」とだけ言って村人がずっこける、というくだりがあったのですが、挨拶をと言われて西田敏行が「アーメン」とだけ言ったのはおかしかったです。一応そのあと普通のコメントも言いましたが。
 ただ、ひとつだけ。カーテンコールで、右手の人差し指を高く掲げて天を見詰めるテヴィエが現れるのですが、ここで笑いが起きました。私はここは笑うところではないのではないかと思ったのです。これは彼が「ねえ、神様」と愚痴を言うときのポーズなので、いじましいやら微笑ましいやらというしぐさではあるのですが、物語の幕切れは彼らがロシア政府の命令で故郷の村を追い払われるというものでした。それでも、どこに行っても神様は見ていてくださる、どこへ行ってもそこでまた屋根の上のヴァイオリン弾きのような暮らしを続けるさ、ということなのでしょう。選ばれた民であるからこそ迫害される、と考えているのでしょうが、そういう信仰って本当に厳しいものだと思うのです。こういうユダヤの神は日本人にはやはりぴんと来ないのでしょうが、あの悲痛な敬謙さを理解せずに笑ってしまうというのは、どうなのかなあと思ったのでした。
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『アート』

2009年11月02日 | 観劇記/タイトルあ行
 サンシャイン劇場、2001年5月17日ソワレ(東京公演初日)。
 航空エンジニアのマーク(市村正親)、医師のセルジュ(升毅)、そして文房具店に勤め始めたばかりのイワン(平田満)は、15年来の友人である。セルジュが白いキャンバスに白い線が入っているだけの絵を大金はたいて買ったことで、彼らの関係に変化が生じる…
 94年にパリで初演、ロンドンでは現在もロングラン中、99年に日本で初演した90分のシャープな舞台の再演版。
 宝塚歌劇も好きですが、こういう舞台も大好きです。男優3人の台詞劇、白いセットに黒い衣装。シンプルで深くておもしろい。元女優の作者ヤスミナ・レザが中年男性3人の友情と本音を活写しています。
 現代美術に傾倒するセルジュと、そんなものは無価値だとするマークと、ふたりの間でおろおろするばかりのイワン。
 市村正親は初演時のインタビューで
「女性でも当てはまる話ですが、中年女性では笑えないので、レザさんは男性にしたのかもしれませんね」
 と言っていたそうですが、さて、どうでしょう。私にはいかにも男友達同士の話だなあ、と思えました。
 純真な子供時代が終わると、人は社会生活の中で、「役割」を生きていくような部分があると思うのです。なんらかの「キャラ立て」をして生きていく、と言ってもいいでしょう。そういったものが必要ないのは恋愛関係の間だけかもしれません。当然、友達同士の間にも何らかの役割というかキャラクターが存在すると思います。
 この3人もそうです。マークはボスで、セルジュは子分で、イワンはふたりの仲裁役だけど順位は一番下、みたいな。この序列の感じがいかにも男の子という気がします。私にもつきあいが16年になる親友ふたりがいますが、ある程度の役回りはあっても、女友達はこんなふうには序列をつけないし、何よりこんなふうにあからさまに喧嘩しないと思うのです。女の喧嘩はもっと巧妙でしょう。後先考えずに熱くなって怒鳴り合って、それでも最後になんとなくまとまって、またつきあっていく、というのはいかにも男同士という感じです。
 舞台は板付きのマークが、セルジュが買った絵の説明をするところから始まります。終幕にはイワンもセルジュもいて、同じポーズのマークが同じような説明を語って終わります。ただしその説明は、当然今回の事件を通して、少し違ったものになっています。
 マークに頭を押さえつけられていたセルジュは、今回反発してみて言い合って行きつくところまで行って、やっぱりマークを好きだとは思った。マークは、「白いクソ」でしかなかったセルジュの絵が、違った意味を持つものとして見えるようにはなった。イワンは…イワンなので、まあそのままですが。そして、3人の友情はまた続いていくのです。ほんの少し、役割に深みを加えながら。
 …と、私は解釈したのですが…パンフレットでは脚本家は「孤独に戻ってしまう」「それが最後のモノローグになってる」と語っているのですが…
 初演とはセルジュ役が替わっているそうです。舞台はもちろん毎回違うものだけれど、キャストが違うところにポイントがあった再演でしょうね。市村正親が実人生ではセルジュに近い役回りだったことがあるというのが興味深いです。演出家も、そういう人間がマークを演じるからこそいいのだろうと言っています。
 私は平田満のファンなのですが、それを差し引いてもイワンは絶品でした。升毅もよかったです。でも、初演のセルジュって誰だったんでしょう。ご存じの方がいらしたらお教えください。
 最後にひとつだけ。私は天の邪鬼なところがあるので、映画でも舞台でも、最初はフラットかややクール気味に観ようとするきらいがあります。
「おもしろいと評判らしいけど、そう簡単には笑わないぞ」
 とか
「感動作らしいけど、そう簡単には泣かないぞ」
 とか、身構えてしまうんですね。
 ですが他の観客には当然違った考えの方もいて、「さあ笑ってやろう」「さあ泣こう」と身構えてくる方もいるんですねえ。最初の最初から迎合するようにウケて大声で笑うのって、すごく寒々しくて私はひくのですが…舞台が進むとそういう方も集中してきて緊張も高まって、かえって逆にヘンに声に出して笑わなくなるもんなんですがね。ナチュラルにいきたいものです。
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