駒子の備忘録

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『アート』

2009年11月02日 | 観劇記/タイトルあ行
 サンシャイン劇場、2001年5月17日ソワレ(東京公演初日)。
 航空エンジニアのマーク(市村正親)、医師のセルジュ(升毅)、そして文房具店に勤め始めたばかりのイワン(平田満)は、15年来の友人である。セルジュが白いキャンバスに白い線が入っているだけの絵を大金はたいて買ったことで、彼らの関係に変化が生じる…
 94年にパリで初演、ロンドンでは現在もロングラン中、99年に日本で初演した90分のシャープな舞台の再演版。
 宝塚歌劇も好きですが、こういう舞台も大好きです。男優3人の台詞劇、白いセットに黒い衣装。シンプルで深くておもしろい。元女優の作者ヤスミナ・レザが中年男性3人の友情と本音を活写しています。
 現代美術に傾倒するセルジュと、そんなものは無価値だとするマークと、ふたりの間でおろおろするばかりのイワン。
 市村正親は初演時のインタビューで
「女性でも当てはまる話ですが、中年女性では笑えないので、レザさんは男性にしたのかもしれませんね」
 と言っていたそうですが、さて、どうでしょう。私にはいかにも男友達同士の話だなあ、と思えました。
 純真な子供時代が終わると、人は社会生活の中で、「役割」を生きていくような部分があると思うのです。なんらかの「キャラ立て」をして生きていく、と言ってもいいでしょう。そういったものが必要ないのは恋愛関係の間だけかもしれません。当然、友達同士の間にも何らかの役割というかキャラクターが存在すると思います。
 この3人もそうです。マークはボスで、セルジュは子分で、イワンはふたりの仲裁役だけど順位は一番下、みたいな。この序列の感じがいかにも男の子という気がします。私にもつきあいが16年になる親友ふたりがいますが、ある程度の役回りはあっても、女友達はこんなふうには序列をつけないし、何よりこんなふうにあからさまに喧嘩しないと思うのです。女の喧嘩はもっと巧妙でしょう。後先考えずに熱くなって怒鳴り合って、それでも最後になんとなくまとまって、またつきあっていく、というのはいかにも男同士という感じです。
 舞台は板付きのマークが、セルジュが買った絵の説明をするところから始まります。終幕にはイワンもセルジュもいて、同じポーズのマークが同じような説明を語って終わります。ただしその説明は、当然今回の事件を通して、少し違ったものになっています。
 マークに頭を押さえつけられていたセルジュは、今回反発してみて言い合って行きつくところまで行って、やっぱりマークを好きだとは思った。マークは、「白いクソ」でしかなかったセルジュの絵が、違った意味を持つものとして見えるようにはなった。イワンは…イワンなので、まあそのままですが。そして、3人の友情はまた続いていくのです。ほんの少し、役割に深みを加えながら。
 …と、私は解釈したのですが…パンフレットでは脚本家は「孤独に戻ってしまう」「それが最後のモノローグになってる」と語っているのですが…
 初演とはセルジュ役が替わっているそうです。舞台はもちろん毎回違うものだけれど、キャストが違うところにポイントがあった再演でしょうね。市村正親が実人生ではセルジュに近い役回りだったことがあるというのが興味深いです。演出家も、そういう人間がマークを演じるからこそいいのだろうと言っています。
 私は平田満のファンなのですが、それを差し引いてもイワンは絶品でした。升毅もよかったです。でも、初演のセルジュって誰だったんでしょう。ご存じの方がいらしたらお教えください。
 最後にひとつだけ。私は天の邪鬼なところがあるので、映画でも舞台でも、最初はフラットかややクール気味に観ようとするきらいがあります。
「おもしろいと評判らしいけど、そう簡単には笑わないぞ」
 とか
「感動作らしいけど、そう簡単には泣かないぞ」
 とか、身構えてしまうんですね。
 ですが他の観客には当然違った考えの方もいて、「さあ笑ってやろう」「さあ泣こう」と身構えてくる方もいるんですねえ。最初の最初から迎合するようにウケて大声で笑うのって、すごく寒々しくて私はひくのですが…舞台が進むとそういう方も集中してきて緊張も高まって、かえって逆にヘンに声に出して笑わなくなるもんなんですがね。ナチュラルにいきたいものです。
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