宝塚バウホール、2023年10月19日11時半、28日11時半。
19世紀前半、誕生してからまだ半世紀あまりのアメリカ合衆国では、出版・編集業が盛んになり、あらゆる都市で新聞が発行されていた。政治、芸術、ゴシップなど派手な見出しを打った新聞は、最先端の情報ツールとして大衆の心をつかんでいた。学生時代に文才を認められたエドガー(天飛華音)は、叔母の家に身を寄せ、作家として売れると信じて短編や詩の創作を行っていた。若いころに実の両親を失い、大事に育ててくれた義母までも亡くしたエドガーは、常に孤独に苛まれながら、心に灯る言葉を書き連ねていた。エドガーの寂しさを埋めたのは、歳の離れた従妹ヴァージニア(詩ちづる)だったが…
作・演出/竹田悠一郞、作曲・編曲/手島恭子、振付/若央りさ、西川卓。バウ・ゴシック・ロマンス、全二幕。
かのんくん初バウ主演、おめでとうございます。大熱演でしたが、しかし作品としては微妙だったかな…と私は感じました。さらに、かのんくんの実力や魅力、スター性なんかを引き出し、より多くのファンをつかむ契機になっていたかというと、さらに微妙だったのではないでしょうか。ちょっと空回り感を私は感じたので…残念だなあ、もったいないなあ。若手スターの初バウ主演作って大事だからさ…思えば『ベアベア』は特に目新しいところはなかったけれど、手堅い作りでよかったな、などと思えたり…次のあみちゃん主演作もよろしく頼みますよテディ!
さて、エドガー・アラン・ポーに関しては名前と、推理小説の祖、みたいに言われていることくらいしか私は知りませんでした。学生時代くらいに短編集なんかは読んだことがある気がしますが、全然覚えていません。まして詩はまったく読んだことがなく、外国語の韻文なんて味わえる素養が自分にあるとはとても思えず、今回も特に予習もしませんでした。人物評があまり良くないらしいですが、それは彼の当時のライバルが書いたものが残っているからだ、ということと、江戸川乱歩のペンネームの元ネタであること、エドガーとアランが出てくる『ポーの一族』ってのは、まあ、駄洒落の範疇だよね…くらいの知識です。
台詞や歌詞に彼の著作の一部が使われていたようでもありますし、知識があったほうがより理解しやすかったのかもしれません。でもそういうこととは別に、私にはこの作品のテーマが何で、何を問題にしているのか、何と何が対立していて何が争われているドラマになっているのか、よくわからなかったのでした…
エドガーが、次々家族と死に別れる縁薄い質で、孤独で、愛することに臆病になってしまい…というのは、まあわかる気がするのですが、それでヴァージニアへのあのぎくしゃくした態度になる、ということなの…? 何度か繰り返されてそれぞれニュアンスが異なる「絶対にダメだ」「どうして?」みたいなやりとりは、ふたりの心の距離が近づく感じとか、ふたりが戯れ、ぶっちゃけいちゃついている感じで楽しかったのですが、あの公園のシーンのトートツなプレイは私には意味がさっぱりわかりませんでした。なんかときめくことやらせとけばいいか、みたいなものすら感じてしまって…
それとヴァージニアは史実ではエドガーの歳の離れた従妹で、かなり若くして(幼くして)結婚したようですが、今回はそれが明示されていないのは何故なんでしょう? うたちはいい感じに幼女というか少女というか…を演じていますが、やはり明確な説明がないと観客は観ていてお尻がモゾモゾするのではないかしらん。今とはいろいろ法律とか感覚とかが違うから、というなら設定を変えちゃったっていいんだし…ロリなのただの妹分なのなんなの?と私はけっこう混乱しました。もちろん、そばからいなくなるかもしれないとなって急に火が点いてプロポーズする、というのはわかるしいいんだけれど…うぅーん……
そして結婚後は、いったい何がどうなったの…? 愛する者を失い続けてきて、今また妻が病で死ぬかもしれなくて、怖くて直視できなくて、それで仕事にかこつけて家に帰らなくなった…ということ? なのに妻の死をテーマに詩がいくらでも書けちゃって、人としてどうなんだ、ということに悩む…とか、そういうこと? そういう、作家としての業の話だったんですかコレ? いやホント全然わからなかったのですよ私には。
グリスウォルド(碧海さりお)その他とのあれこれも、なんかよくわかりませんでした。これは出版業黎明期の話で、いわゆる記者とライターとコラムニストと批評家と編集者と小説家、詩人みたいな創作家との分業が今ほど明確でなく、そこに社主だのなんだのの思惑が絡んで、書きたいものを書きたいように書くことはなかなかできなかったのだ…ということなのかもしれませんが、フランシス(瑠璃花夏)含めて彼らの立場とか指向とかがどうにもよくわからず、何がどう対立しているのかが私には全然つかめなかったのでした。最初のグリスウォルドとフランシスの会話からして噛み合っていなくて、ヘンじゃない? 彼女はその後もやたらと既婚女性であることが強調されますが、この時代のこの国の女性の立ち位置や女性が働くことの意味、女流作家の地位なんかも全然説明されないので、やたらスキャンダラスに言われても全然わからないんですよ…あとロングフェロー(大希颯)も、詩人の詩を新聞に掲載することと彼を記者として雇用することってあまり関係なくないですか? あの場面で騒がれていることの意味がよくわからなかったのですが…
Puffのくだりはわからなくはないんですよ。要するにこの時代、まだ人気とか流行とか風評とか、そうしたものに作家も作品も左右されがちで、真の文学的価値で勝負することができなかった、というようなことなんだと思うのですが…ミュージカルとして楽しい場面に仕上がってはいましたが、そもそも何と何がどう対立しているのかがよくわからないのでドラマになっていない気がしました。というかその前の第7場のトートツなBGの入り方とあのBGはなんなの…? アレが正しいの…??
あと、序盤だけエドガーの一人称の形で進むのに、その後トートツにつんつんが出てくるのはなんなの…? あとこのナサニエル(稀惺かずと)はせめて名乗って、エドガーとの関係性も語るべきではないでしょうか? 完全なナレーターではないんだし…「アンタ誰?」ってなっちゃうじゃん。
あとあと、二人称フェチとしてはエドガーがヴァージニアを呼ぶのに特に意味なく「あなた」「きみ」で揺れるのが気になりました。
ラストはよかったんですけれどもね…まあ、いわゆる天国エンドですが。あんなに死に怯え、大鴉(鳳真斗愛)の幻を見ていたエドガーが、ヴァージニアとふたりで永遠の愛の世界に旅立っていく…鴉も幻想もない、「Never more、ありはせぬ」ではない、ただ愛だけがある世界へ…というようなことかな、とは思ったのですが…しかしそのゴールにいたってカタルシスを得るためのドラマ、ストーリー作りがそもそもできていないので、感動できない…と、私は感じてしまいました。
作品のムードからしてフィナーレなしは正解、と言っているツイートなんかも見ましたが、私はせめてフィナーレでバリバリ歌い踊るかのんくんが観たかったけどね!?と思いました。当人は楽しく演じられているのかなあ、しどころがなくてフラストレーションを感じているんでなければいいのですが…ちょっとエキセントリックなところがある人物である、ということなんだろうけれど、そういう部分は本当に上手く、また全体にとても熱演でしたし、ラストの主題歌も熱唱でしたが…しかし要するに私には何がJokeで何が虚構なのかが(サブタイトルは「虚構に生きる」でした)さっぱりわからなかったので、わりと呆然としたまま観終えてしまいましたし、その印象は二度観てもあまり変わらなかったのでした。
この作品がものすごく好き、世紀の傑作だと思う、という方にはしょっぱい感想ですみません…単にnot for meだっただけかもしれません。
というわけでかのんくんは熱演していましたが、彼女はもっとできるしもっといいお役や作品がこれから回ってくるといいなあ、と思いました。うたちはホント可愛いし歌えるしそつなくなんでもできていいなー、と惚れ惚れします。ラインナップはしょっぱい位置でしたが、突レポにも出る2番手格としてさりおとルリハナがいて、これまた手堅く上手かったです。しかし彼らももっともっとできる人たちだしもっと跳ねるお役があるだろう、と思ってしまう…(しかしうたちを膝枕するルリハナってなんのサービスショットなんだごちそうさまでした)
期待の乙華菜乃ちゃんのエリザベスがそんなにおもしろいお役ではなかったのは、しょんぼりでした…あとはつんつんってホント華があるので、彼のバウ初主演作が早く観たいです、とか思いました。しかし大希くんとは少しも早く上手く分けないと…ありかりんにならでっかい方が並びがいいだろうけどねえ、かのんつんつんは小さめだからねえ…
あとは茉莉那ふみちゃんが、ちっちゃいしわかりやすい顔立ちだというのもありますが、鬘はなんかまだアレなんだけどお化粧が良くなってきて可愛くて目を惹くな、と思いました。
以上です。なんかすみません。
あ、夕陽まっきーがさすがよかったですよね。あとセット(装置/平山正太郎)はお洒落でいいなと思いました。
19世紀前半、誕生してからまだ半世紀あまりのアメリカ合衆国では、出版・編集業が盛んになり、あらゆる都市で新聞が発行されていた。政治、芸術、ゴシップなど派手な見出しを打った新聞は、最先端の情報ツールとして大衆の心をつかんでいた。学生時代に文才を認められたエドガー(天飛華音)は、叔母の家に身を寄せ、作家として売れると信じて短編や詩の創作を行っていた。若いころに実の両親を失い、大事に育ててくれた義母までも亡くしたエドガーは、常に孤独に苛まれながら、心に灯る言葉を書き連ねていた。エドガーの寂しさを埋めたのは、歳の離れた従妹ヴァージニア(詩ちづる)だったが…
作・演出/竹田悠一郞、作曲・編曲/手島恭子、振付/若央りさ、西川卓。バウ・ゴシック・ロマンス、全二幕。
かのんくん初バウ主演、おめでとうございます。大熱演でしたが、しかし作品としては微妙だったかな…と私は感じました。さらに、かのんくんの実力や魅力、スター性なんかを引き出し、より多くのファンをつかむ契機になっていたかというと、さらに微妙だったのではないでしょうか。ちょっと空回り感を私は感じたので…残念だなあ、もったいないなあ。若手スターの初バウ主演作って大事だからさ…思えば『ベアベア』は特に目新しいところはなかったけれど、手堅い作りでよかったな、などと思えたり…次のあみちゃん主演作もよろしく頼みますよテディ!
さて、エドガー・アラン・ポーに関しては名前と、推理小説の祖、みたいに言われていることくらいしか私は知りませんでした。学生時代くらいに短編集なんかは読んだことがある気がしますが、全然覚えていません。まして詩はまったく読んだことがなく、外国語の韻文なんて味わえる素養が自分にあるとはとても思えず、今回も特に予習もしませんでした。人物評があまり良くないらしいですが、それは彼の当時のライバルが書いたものが残っているからだ、ということと、江戸川乱歩のペンネームの元ネタであること、エドガーとアランが出てくる『ポーの一族』ってのは、まあ、駄洒落の範疇だよね…くらいの知識です。
台詞や歌詞に彼の著作の一部が使われていたようでもありますし、知識があったほうがより理解しやすかったのかもしれません。でもそういうこととは別に、私にはこの作品のテーマが何で、何を問題にしているのか、何と何が対立していて何が争われているドラマになっているのか、よくわからなかったのでした…
エドガーが、次々家族と死に別れる縁薄い質で、孤独で、愛することに臆病になってしまい…というのは、まあわかる気がするのですが、それでヴァージニアへのあのぎくしゃくした態度になる、ということなの…? 何度か繰り返されてそれぞれニュアンスが異なる「絶対にダメだ」「どうして?」みたいなやりとりは、ふたりの心の距離が近づく感じとか、ふたりが戯れ、ぶっちゃけいちゃついている感じで楽しかったのですが、あの公園のシーンのトートツなプレイは私には意味がさっぱりわかりませんでした。なんかときめくことやらせとけばいいか、みたいなものすら感じてしまって…
それとヴァージニアは史実ではエドガーの歳の離れた従妹で、かなり若くして(幼くして)結婚したようですが、今回はそれが明示されていないのは何故なんでしょう? うたちはいい感じに幼女というか少女というか…を演じていますが、やはり明確な説明がないと観客は観ていてお尻がモゾモゾするのではないかしらん。今とはいろいろ法律とか感覚とかが違うから、というなら設定を変えちゃったっていいんだし…ロリなのただの妹分なのなんなの?と私はけっこう混乱しました。もちろん、そばからいなくなるかもしれないとなって急に火が点いてプロポーズする、というのはわかるしいいんだけれど…うぅーん……
そして結婚後は、いったい何がどうなったの…? 愛する者を失い続けてきて、今また妻が病で死ぬかもしれなくて、怖くて直視できなくて、それで仕事にかこつけて家に帰らなくなった…ということ? なのに妻の死をテーマに詩がいくらでも書けちゃって、人としてどうなんだ、ということに悩む…とか、そういうこと? そういう、作家としての業の話だったんですかコレ? いやホント全然わからなかったのですよ私には。
グリスウォルド(碧海さりお)その他とのあれこれも、なんかよくわかりませんでした。これは出版業黎明期の話で、いわゆる記者とライターとコラムニストと批評家と編集者と小説家、詩人みたいな創作家との分業が今ほど明確でなく、そこに社主だのなんだのの思惑が絡んで、書きたいものを書きたいように書くことはなかなかできなかったのだ…ということなのかもしれませんが、フランシス(瑠璃花夏)含めて彼らの立場とか指向とかがどうにもよくわからず、何がどう対立しているのかが私には全然つかめなかったのでした。最初のグリスウォルドとフランシスの会話からして噛み合っていなくて、ヘンじゃない? 彼女はその後もやたらと既婚女性であることが強調されますが、この時代のこの国の女性の立ち位置や女性が働くことの意味、女流作家の地位なんかも全然説明されないので、やたらスキャンダラスに言われても全然わからないんですよ…あとロングフェロー(大希颯)も、詩人の詩を新聞に掲載することと彼を記者として雇用することってあまり関係なくないですか? あの場面で騒がれていることの意味がよくわからなかったのですが…
Puffのくだりはわからなくはないんですよ。要するにこの時代、まだ人気とか流行とか風評とか、そうしたものに作家も作品も左右されがちで、真の文学的価値で勝負することができなかった、というようなことなんだと思うのですが…ミュージカルとして楽しい場面に仕上がってはいましたが、そもそも何と何がどう対立しているのかがよくわからないのでドラマになっていない気がしました。というかその前の第7場のトートツなBGの入り方とあのBGはなんなの…? アレが正しいの…??
あと、序盤だけエドガーの一人称の形で進むのに、その後トートツにつんつんが出てくるのはなんなの…? あとこのナサニエル(稀惺かずと)はせめて名乗って、エドガーとの関係性も語るべきではないでしょうか? 完全なナレーターではないんだし…「アンタ誰?」ってなっちゃうじゃん。
あとあと、二人称フェチとしてはエドガーがヴァージニアを呼ぶのに特に意味なく「あなた」「きみ」で揺れるのが気になりました。
ラストはよかったんですけれどもね…まあ、いわゆる天国エンドですが。あんなに死に怯え、大鴉(鳳真斗愛)の幻を見ていたエドガーが、ヴァージニアとふたりで永遠の愛の世界に旅立っていく…鴉も幻想もない、「Never more、ありはせぬ」ではない、ただ愛だけがある世界へ…というようなことかな、とは思ったのですが…しかしそのゴールにいたってカタルシスを得るためのドラマ、ストーリー作りがそもそもできていないので、感動できない…と、私は感じてしまいました。
作品のムードからしてフィナーレなしは正解、と言っているツイートなんかも見ましたが、私はせめてフィナーレでバリバリ歌い踊るかのんくんが観たかったけどね!?と思いました。当人は楽しく演じられているのかなあ、しどころがなくてフラストレーションを感じているんでなければいいのですが…ちょっとエキセントリックなところがある人物である、ということなんだろうけれど、そういう部分は本当に上手く、また全体にとても熱演でしたし、ラストの主題歌も熱唱でしたが…しかし要するに私には何がJokeで何が虚構なのかが(サブタイトルは「虚構に生きる」でした)さっぱりわからなかったので、わりと呆然としたまま観終えてしまいましたし、その印象は二度観てもあまり変わらなかったのでした。
この作品がものすごく好き、世紀の傑作だと思う、という方にはしょっぱい感想ですみません…単にnot for meだっただけかもしれません。
というわけでかのんくんは熱演していましたが、彼女はもっとできるしもっといいお役や作品がこれから回ってくるといいなあ、と思いました。うたちはホント可愛いし歌えるしそつなくなんでもできていいなー、と惚れ惚れします。ラインナップはしょっぱい位置でしたが、突レポにも出る2番手格としてさりおとルリハナがいて、これまた手堅く上手かったです。しかし彼らももっともっとできる人たちだしもっと跳ねるお役があるだろう、と思ってしまう…(しかしうたちを膝枕するルリハナってなんのサービスショットなんだごちそうさまでした)
期待の乙華菜乃ちゃんのエリザベスがそんなにおもしろいお役ではなかったのは、しょんぼりでした…あとはつんつんってホント華があるので、彼のバウ初主演作が早く観たいです、とか思いました。しかし大希くんとは少しも早く上手く分けないと…ありかりんにならでっかい方が並びがいいだろうけどねえ、かのんつんつんは小さめだからねえ…
あとは茉莉那ふみちゃんが、ちっちゃいしわかりやすい顔立ちだというのもありますが、鬘はなんかまだアレなんだけどお化粧が良くなってきて可愛くて目を惹くな、と思いました。
以上です。なんかすみません。
あ、夕陽まっきーがさすがよかったですよね。あとセット(装置/平山正太郎)はお洒落でいいなと思いました。
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