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映画 ご(誤)鑑賞日記

映画は楽し♪ 何をどう見ようと見る人の自由だ! 愛あるご鑑賞日記です。

袋小路(1966年)

2020-07-25 | 【ふ】

作品情報⇒https://movie.walkerplus.com/mv12146/

 

以下、TSUTAYAのHPよりあらすじのコピペです。

=====ここから。

 外界と遮断される孤島の古城に、再婚した若い妻・テレサと住んでいた初老男・ジョージ。ある日、島に強盗をしくじって負傷したふたり組の悪党・リチャードとアルバートが逃げて来て…。

=====ここまで。

 初老男・ジョージをドナルド・プレザンス、若い妻・テレサをフランソワーズ・ドルレアック、悪党・リチャードをライオネル・スタンダーと個性派がズラリ、しかも監督はポランスキー。


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 不覚にも、ドナルド・プレザンスがポランスキーの映画に出ていたとは知りませんでした。しかもドルレアックと夫婦役とな?? とにかく、ドナルド・プレザンス+フランソワーズ・ドルレアック+ポランスキーの映画なんて見ないわけにはいかんでしょう、、、と、見てみました。


◆アンバランスな夫婦と闖入者

 冒頭から、なんかもう色々とヘンで、一体何が起きるのやら、、、、と興味津々になる。

 ゼンゼン雰囲気も展開も違うけれども、見ていてハネケの『ファニーゲーム』を思い出してしまっていた。いや、ジャンルとしては同じでしょ。突然、見ず知らずの怪しい男たちに侵入されて生活をメチャメチャにされる、、、っていう。ただ、本作は、ゲームではなくて、あくまでもリアルという話で。しかも、本作はサスペンスにカテゴライズされているけど、見終わってみれば、ブラックコメディでしょ、これ。

 プレザンスとドルレアックという、実に巧みな配役で、このカップリングの違和感が十分出ているのがミソ。実際、ドルレアック演ずるテレサは、近所の青年とヨロシクやっている。そしてまた、夫であるジョージにも破天荒な妻そのまんまで、ジョージにネグリジェ(死語?)を着せた上に口紅まで塗るというおふざけをして、さらにその異様な姿になった夫を見てゲラゲラ笑っている。これだけで、この夫婦の関係性が何となく分かってしまう。

 そこへ闖入してきたのがリチャードという、これまたアクの強いキャラ。乱暴者なんだか、意外に物わかりが良いのか、イマイチよく分からん。

 勝手に人んチの電話を使って首領にSOSの連絡をした後、電話線をぶった切ったかと思うと、テレサの浮気現場をバッチリ目撃していたにもかかわらず、夫に薄笑いを浮かべながらも「お前の女房、浮気してるゼ」などという野暮なことはチクったりしない。

 かと思うと、大怪我して動かせないからってんで相棒を車に残したまま、夫婦の城にある鶏小屋で堂々と昼寝なんぞしてしまう。その間に、車を置いてあった所は潮が満ちてきて、相棒が溺れそうになるとか、もう訳分からん展開、、、。その後、思い出したリチャードが、夫婦を引き連れて助けに行くんだけどサ。

 ドヌーヴ主演の『反撥』でもそうだけど、こういう訳分からん不穏な感じで話がどんどん進んでいくっていうの、ポランスキーは天才的に上手いなぁ~と改めて感動。まあ、本作の方が『反撥』よりは大分笑えるけど。

 結局、救出した相棒は死んでしまうし、死んだら死んだで、リチャードは夫に墓穴を掘らせるとか。首領が差し向けた助っ人が来たかと、白い車がこちらへ向かってくるのを見てぬか喜びするリチャードだが、それは助っ人ではなく夫の友人家族だったとか。とにかく、あれやこれやと話が進む。

 で、結局どうなるか、、、。まぁ、それは敢えてココには書かないけれど、ただでさえ危うい夫婦が、ただで済むとは到底思えないわけで、その通りの展開になるのであります。


◆ポランスキーの映画

 この映画が制作されたのは1966年。ポランスキーは、この前年に『反撥』を撮っている。コメディタッチとシリアスとで、映画としての趣は違うけれど、この2作に限らず初期~中期のポランスキーの映画って不条理モノが多い気がする。

 『反撥』にしても、(モノクロだからかも知れないが)不条理モノのポランスキー映画は、何というか、、、何かに追われているような、不安げである。

 本作も、テレサの視点から見ればそうでもないが、夫・ジョージから見れば不安だらけだ。終盤に明らかになるが、ジョージはテレサが近所の若者と浮気していることは知っていて、それだけでなく、途中でやって来た友人家族と一緒に居た中年の色男とやたら親しげにするなど、ジョージにしてみれば、テレサは一番痛いところを突いてくる。この古城を全財産はたいて手に入れたのと同じくらい、この若くて美しい妻はシンボリックな存在なはず。しかも、実はジョージは前妻に逃げられているということも判明し、また同じ轍を踏むことになるのではないかという不安が、ジョージには常にある。

 そして、それがポランスキー映画に通底するものであるということ。この人は、常に不安を描いているのだ。『ローズマリーの赤ちゃん』だってそう。『水の中のナイフ』だって、夫婦のバカンスに突然若い男が闖入してくる話で、夫婦のバランスが崩れていく。夫にとっては不安でしかない。

 こういう作風を、彼の生い立ちに見出す評者も多い。確かに、それはあるだろうなぁ、、、と思う。でも、それを確実に映像化してしまうことができる、ってのが凄いなぁ、、、と感心させられる。しかも、前面に押し出すのではなく、何となく不安げ、、、という極めて曖昧だけれども確実にじわりと感じる、、、という演出。不安と笑いってのは、実は相性が良いのだと、本作などを見るとよく分かる。


◆その他もろもろ

 とにかく、ドナルド・プレザンスが素晴らしい。やっぱり、この人はすごい俳優だ。情けない男を、実に巧みに演じている。その風貌から、どうしたって、ヒーローではないが、一筋縄ではいかない悪役や、ジョージみたいなワケありの劣等感に苛まれた男は、実にハマる。

 ドルレアックは、やはり美しい。この翌年に亡くなるのかと思うと、見ていて複雑な気分になる。ぶっ飛んだ若妻を、奔放に演じているように見えるが、きっとポランスキーの計算された演出なんだろう。

 闖入者のリチャードを演じたライオネル・スタンダーも実にイイ味出している。声がもの凄いハスキーで、それがイイ。夫の友人家族がやって来たときは、夫婦の下男をやむなく演じることになるのだが、およそ下男とは思えない風貌と粗野な言動で、実に笑える。

 ラストシーン、プレザンス演ずるジョージが、しょんぼりと膝を抱えて体育座りしている図が、何とも寂しく哀しい。しかも、ここで口にする女性の名前は、テレサではないのだ。嗚呼、、、。

 
  

 

 

 

 

 


ポランスキーの人間不信が現れた映画かも。

 



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復讐するは我にあり(1979年)

2020-04-16 | 【ふ】

作品情報⇒https://movie.walkerplus.com/mv18777/

 

 榎津巌(緒形拳)は、金欲しさから2人の男を殺し、そのことで指名手配をされたと知ると、逃亡中のフェリーから投身自殺を偽装する。さらに、詐欺を働きながら逃亡を続ける途中で、3人の男女を殺した挙げ句に逮捕され、当然のごとく死刑を宣告される。

 5人を殺害した西口彰事件を題材にした佐木隆三の同名小説の映画化。

 

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◆緒形拳の主演映画を見たくて、、、

 見ている最中から、もうとにかく、濃くて熱くて、酔っ払いそうだった。緒形拳は言うに及ばず、出ている役者さんは漏れなく印象的で存在感を発揮し、最初から最後まで画面にエネルギーが満ちあふれ、その熱気に当てられて、我を忘れて見入ってしまう。 

 今村昌平監督作は、『赤い橋の下のぬるい水』『うなぎ』の2本しか見ていないが、正直なところ、あんまり好きじゃない。まとわりつく空気感というか、登場人物たちがみんなじっとり汗をかいている(実際汗をかいているという意味じゃなく)ようで、見ていて息苦しくなってくる感じがする。だから、積極的に見ようと思わなかった。

 でも、『おろしや国酔夢譚』『火宅の人』といった緒形拳の映画を最近見て、他の緒形拳出演映画が見たくなった。本作は、TVで見ていると思っていたのだが、ちょっと記憶と違う気がしたのでネットで検索してみたら、NHKのドラマ「破獄」と混同しているっぽい。ドラマでは、何度も脱獄する囚人を緒形拳が演じているが、そのときのオレンジ色の囚人服がかなり記憶に残っていて、今回、本作を見てそんなシーンは全くなかったので、ハレ、、、?と思ったのだった。西口彰事件は何度もドラマ化されているし、そういうのと記憶がごちゃ混ぜになっていたのかも知れませぬ。

 本作は、私が抱いている西口彰事件のイメージとはかなり違っていて、それもそのはず、私の事件に対するイメージは西口彰がどうやって掴まったかに焦点を当てたドラマによって形成されており、本作とはそもそも切り口が全く異なっているのだから。巌が犯した罪を描きながら、巌を取り巻く人々を始めとした背景をねっとりと描いている本作は、事件の再現ドラマよりも遙かに陰惨で恐ろしかった。


◆巌と鎮雄の父子関係

 巌は、本作の中でも5人の男女を殺害しているが、男3人の殺害動機は単純で金欲しさか口封じ(というか存在が邪魔になったから)であり、女2人に関しては恐らく、成り行きだろう。殺された女2人というのが、小川真由美演ずる連れ込み旅館の女将・ハルと、清川虹子演ずる殺人の前科があるひさ乃。ハルを何となく殺したくなって絞め殺した結果、ひさ乃も殺さざるを得なくなったというところではないか。

 殺された方からすれば、こんな理由で命を奪われちゃたまらんのだが、巌は警察に対する供述にもあるとおり「結局、殺す方が面倒じゃない」っていう程度の認識でしかない。

 実際、最初の2人の男性を殺すときの巌の様子は、確かに必死で凄まじいのだが、何というか、、、例えが悪いのは承知だが、部屋に現れたG(夏場に現れる黒光りする虫)を私が殺すときのそれに近いというか、、、。とにかく今ここでこいつを亡きものにしなければダメなんだ!という信念めいたものに突き動かされていて、必死でどうにかGを仕留めた後、ゼイゼイしているのも同じ。

 当然、そこには殺生をしていることの罪悪感など微塵もない。むしろ、仕留めた後は、「あー、やれやれ。これでGが部屋をウロウロしないから枕高くして寝られるゼ!」という達成感すらある。そして、男たちの殺害を果たした後の巌にも、その達成感に似たものを見て取れる気がした。何しろ、殺害するときに手に着いた被害者の血を、自分の小便で洗い落とすのである。あまりにも衝撃的なシーンで、唖然となった。

 巌がこういうことをするに至った背景の一つに、父親・鎮雄(三國連太郎)との確執があるという描かれ方がされているが、どうしてここまで拗れたのかは、正直なところ今一つ分からない。ただ、鎮雄が中盤、巌に言う「お前のようなクズには父親は殺せん。そんなことは端から分かってる」の言葉に2人の関係性は集約されている。つまり、男ならば誰もが通る“精神的な父殺し”が出来ないまま、巌は大人になってしまったってことだ。

 終盤にも、刑務所の面会室で父子の壮絶なやりとりがある。

巌 「あんたはおいを許さんか知れんが、おいもあんたを許さん。どうせ殺すなら、あんたを殺しゃよかったと思うたい」
鎮雄 「ぬしはわしば、殺せんたい。親殺しのでくる男じゃなか」
巌 「それほどの男じゃなかっちゅう訳か」
鎮雄 「恨みもなか人しか、殺せん種類たい(巌の顔面に向けて唾を吐く)」
巌「ちきしょう。殺したか。あんたを!」 

 結局、巌は5人も殺しておきながら、父親を精神的に殺すことさえ出来ない、かなり気弱で小心な男なのだ。このシーンとは別に、中盤でも父子が巌の妻・加津子(倍賞美津子)の前で言い争いになる。このときに、鎮雄に言われたのが「お前のようなクズには父親は殺せん」であり、殺せるものなら殺してみろと、巌は鎮雄から斧を手渡されるのだが、その際の緒形拳演ずる巌は明らかに鎮雄に気圧されており、斧を手にして怯んでいるのが隠せないほど性根が据わっていない。まあ、親にそんな風に出られたら、大抵の子は怯むだろうが、、、。しかし、大抵の子は人を5人も、どころか1人だって殺さない。……ようやく気を取り直して斧を鎮雄に振り上げようとしたものの、それを自分より非力なはずの加津子に制される。このシーンは、象徴的である。

 こういう巌の性質を見抜いていたのが、最後は巌に殺されてしまうひさ乃だ。ひさ乃自身、人を殺したことがあるから、、、だろうが、「本当に殺したい奴、殺してねぇんかね?……意気地なしだに、あんた。そんじゃ、死刑ずら」と、巌に言っている。自身は、殺したいヤツを殺したから悔いはないとまで言っている。恐ろしい会話だが、このシーンは、本作でも印象的なシーンの一つ。

 巌が“精神的な父殺し”を出来なかったのは何故なのか、それは知る由もないが、この父子の関係は、一般的な男親と息子の関係よりも、女親と娘の関係に似ている気がした。娘はどんなに母親を“精神的に”棄てたいと思っても、なかなか棄てられないものなのは、私自身が経験しているからよく分かる。精神科医の斎藤環氏によれば、息子は父でも母でも案外あっさり“精神的に”棄てられるものらしい。

 まあ、それが真実かどうかはさておき、鎮雄と巌の父子に関しては、クリスチャンという信仰も大きく影を落としている。鎮雄は敬虔なクリスチャンで、巌は信仰に生理的な拒絶感があったか、あるいは父親ほどの信仰心を持てないことで劣等感を植え付けられたか、、、あるいは、鎮雄の信心と言動の矛盾(加津子に抱く欲望)を目の当たりにして信仰の欺瞞に耐えられなかったか、、、まあ、そのどれもあるのかも知れないが、信仰のない父子関係よりかなり屈折しているのは間違いない。

 巌が東大の教授を騙ったり、弁護士を騙ったりするところを見ると、相当のコンプレックスも感じられる。そういう肩書きを身に纏うことで、かりそめに承認欲求を満たし、自己愛を慰めていたのだろうか。巌には、何人殺しを重ねても、決して自暴自棄な感じは見受けられないのも、何とも薄ら寒いものを感じる。実際、死刑になることを「不公平だ」と巌は言っており、生への執着もかなり強いのだ。

 緒形拳の演技が凄すぎて、見ているときは納得させられた気になるが、後から考えると、色々と分からないことだらけである。


◆その他もろもろ

 緒形拳が凄いことについては、繰り返しになるから書かないが、やっぱり凄い。

 鎮雄を演じた三國連太郎が、正直言って、気持ちワルイと感じた。それくらい三國も凄かったということなんだけれど、何考えているか分からない感じがして、非常に不気味でキモい爺さんにしか見えなかった。加津子が鎮雄に惹かれる理由が、私にはゼンゼン理解できなかった。いくら夫がああだからって、、、そういう気持ちになるもんだろうか??

 フランキー堺とか、北村和夫、火野正平、河原崎長一郎といった、アクの強い俳優陣も大勢ご出演。

 小川真由美も倍賞美津子もアッパレな脱ぎっぷりで、さすがだと感動した。もちろん、脱いだシーンだけでなく、2人ともかなり厳しい環境に置かれている女性なんだが、小川真由美演ずるハルと、倍賞美津子演ずる加津子は対照的なキャラで、流されるままのハルと強い意志で生きる加津子のキャラの違いが、巌との関係性の違いに繋がっている。

 それにしても、このお2人を始め、若尾文子、岡田茉莉子、加藤治子、加賀まりこ、梶芽衣子、大原麗子、松坂慶子、、、挙げればキリがないけど、昭和の女優さんたちには、ホントに素晴らしく魅力的な人が多かったなぁ、、、。最近の女優さんとは、もう顔つきも雰囲気もゼンゼン違うもんねぇ。最近の女優さん(の多く)は、女優というよりタレントだもんね。顔はキレイだけど、どうも似たような顔つきのような。小川真由美と倍賞美津子なんて、ルックスも雰囲気もまるで違って、似ても似つかぬけれど。

 でも、私が一番印象に残ったのは、何といっても、清川虹子とミヤコ蝶々のお2人。清川虹子は前述のとおり、殺人の前科持ちで、娘を旅館のオーナーの妾にして、その娘に寄生して生きているという、凄まじいオバサンを、凄まじい演技で見せてくれる。いやぁ、、、もう、圧倒されます。緒形拳も真っ青な存在感。ミヤコ蝶々は、嫁に気もそぞろな夫に対し、密かに嫉妬心を燃やすという複雑な役どころ。一方では、息子の巌を溺愛していて、女としても母親としても満たされない老女を実に巧みに演じておられました。出番は少ないのに、存在感たっぷり。

 その後、何度かドラマ化されたのも見たが、やっぱり迫力不足なのは否めないが、この俳優陣を見れば、そりゃしょうがないよね、と思った次第。

 

 

 

 

 

 小川真由美と清川虹子の浜松弁がイイ。「~だに」って自然に言ってるのが味わい深い

 

 

 

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ブルース・ブラザース(1980年)

2019-07-20 | 【ふ】

作品情報⇒https://movie.walkerplus.com/mv7951/

 

以下、wikiよりあらすじのコピペです。

=====ここから。

 ジョリエット・ジェイクは強盗を働き、3年の刑期を終えてシカゴ郊外の刑務所(ジョリエット刑務所)を出所し(仮出所;判決は懲役5年)、弟のエルウッドが彼を迎えに来た。兄弟はかつて育ててくれたカトリック系の孤児院に出所の挨拶に行くが、そこで、孤児院が5,000ドルの固定資産税を払えないため立ち退きの瀬戸際にあることを知る。孤児院の危機を救うため援助を申し出る二人だが、犯罪で得た汚れた金は要らないと逆に女性院長に追い払われてしまう。

 何とか孤児院を救いたい二人はかつて孤児院で世話を焼いてくれたカーティスに相談すると、ジェイムズ・クリオウファス牧師の移動礼拝に出席することを勧められる。気乗りのしないジェイクをエルウッドがプロテスタント教会での礼拝に無理矢理連れてくると、クリオウファス牧師の説話を聞いていたジェイクは突然神の啓示を受ける。「汝 光を見たか?」「そうだ!バンドだ!」

 こうしてふたりは、昔のバンド仲間を探し出しあの手この手でバンドに引き入れ、音楽で金を稼いで孤児院を救う「神からの任務」に立ち上がったのだが、行く手にはイリノイやシカゴの警官、州兵、マッチョなカントリー・ミュージック・バンド、ネオナチ極右団体、そしてジェイクの命を付けねらう謎の女が待ち受ける。

 あらゆる伝手を使い、満席となった会場で“凱旋コンサート”を催し、舞台裏でレコード会社の契約を受けた二人はレコーディングの前払金として現金10,000ドルを受け取る。孤児院存続に十分な資金を得た二人はブルース・モービルに乗って追手を振り切りシカゴ市本庁舎に到着、クック郡を担当する窓口で期限前に納税を済ませるも、州警察や軍隊の総動員によって身柄を拘束され刑務所に収監される。

 刑務所の食堂施設でエルヴィス・プレスリーの“監獄ロック”を演奏するバンド一同とブルース兄弟。

=====ここまで。

 今回は、movie walkerのあらすじよりも、wikiの方がスッキリまとまっていたので。

 

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   午前十時の映画祭10にて鑑賞。今年で最後と言われれば、まあ、普段なら足を運びそうもない作品でも“見ておかないと損”みたいな気持ちになるのと、本作が大好きだという映画友の熱心なお誘いもあって、見に行って参りました。

 本作は時々TV放映していたのをながら見したことがあるくらいで、ハッキリ言ってただの“おバカ映画”くらいの印象しかなく、今回初めて最初から最後までちゃんと見た。……結果、食わず嫌いだったと反省。確かにおバカ映画ではあるけど、気の利いたコメディで、すごく面白かった!

 

◆黒いスーツに黒い帽子に黒いサングラス

 話の中身は、、、まぁ、どーってことない。本作の見どころは、やはり音楽(歌)と踊りのミュージカル的な部分と、ハチャメチャな展開に尽きる。

 とにかく、主演2人ジョン・ベルーシとダン・エイクロイドが、実に良い。出所した兄を、弟がパトカーの中古車で迎えに来るっていう出だしで、ぷぷっ、、、って感じ。

 そもそもあの出で立ちが効いている。全身黒ずくめで、風呂に入っているときも、あの黒い帽子と黒いサングラスは外さない(でも、ベルーシが最後の方でちょっとだけサングラスを外す場面があるんだけど、、、意外なパッチリお目々がカワイイ!)。おまけに2人は終始ほとんど笑わないのに、見ているこっちは何か笑っちゃう。ベルーシの小太り(失礼!)な体型な割に動きが俊敏(バック転繰り返すシーンはお見事!)で、弟役のダンとの凸凹コンビっぷりが面白さを演出しているのよね~。

 同じ笑いでも、無理して観客を笑わせようと必死なイタさが感じられるのは見ていて辛いが、本作は、そういうイタさがない。もう、あの2人がスクリーンに映っているだけで可笑しいくらい。ヘンなギャグとかもないし、受け狙いな過剰演技もなく、おバカに徹した洗練されたエンタメ・コメディに仕上がっているのが素晴らしい。1980年制作で、確かに車や街並みはそれなりに時代を感じるが、映画としてはゼンゼン今でもOK。

 謎の女に、バズーカぶっ放されて建物ごと生き埋めになったり、機関銃乱射されて撃たれたりするんだけど、この兄弟は死なない。平然と立ち上がって、次の行動へと移る。このリアリティのなさが逆に笑いの要素になってしまっているのがスゴい。

 まあ、あとは有名な終盤のカーチェイスシーン。一体何台のパトカーをムダにしたんだよ? てなくらいに、もの凄い数のパトカーに、兄弟たちが乗るオンボロ中古パトカーを追跡させ、ことごとくクラッシュしていくザマは、皮肉なんだろうね。他にも宗教やら政治やら警察やらを皮肉るシーンがあちこちに出て来て、本作を“気の利いたコメディ”と思った所以。やっぱり、コメディはこうでなくっちゃね。

 

◆スゴい出演陣に圧倒される。

 出演者たちがもの凄い豪華で、ビックリ。ジェームス・ブラウン、アレサ・フランクリン、レイ・チャールズ等々、まあ、音楽が重要な映画だってことを差し引いても、これらのメンツを揃えているのはスゴい。実際、彼らは作中でその素晴らしい歌声を披露してくれていて、これだけでもスクリーンで見る価値があるってもの。

 ほかにも、ちょい役で、ツイッギー、チャカ・カーン、キャリー・フィッシャーなどがズラリ。ジョン・キャンディまで出ている!! いやぁ、、、こんな豪華キャストだったとは。

 バンドを無事に再結成させた後に、どこかの居酒屋で演奏するシーンで、ステージ前には金網が張ってあって「何だコレ、鳥カゴかよ!?」みたいなセリフを(確か)弟が吐き捨てるように言うんだが、金網のある理由がその後の演奏シーンで分かる。客たちは演奏に不満があると、容赦なくカップやら食べ物やら酒瓶をステージに向かって投げつけてくるのだ。もう、このシーンも、ほとんどお笑い。

 ラストの、シカゴの市庁舎でのシーンも、カーチェイス同様、過剰な警察官の数をあちこちに溢れさせて、警察を小バカにしている。やり過ぎなんだけど、でもイヤミじゃないというか、ただただおバカね、、、と笑えるのが良い。

 イタいコメディと、イタくないコメディの差って何なんだろうか? イタくないコメディだって、絶対に笑わせてやろうと思って作っているはず。まあ、見る人の感性にもよるから、私から見てイタくないコメディを、イタいと思う人もいるだろうし、逆もあるんだろうけれど、、、。でも、本作みたいに長く名画として多くの人に評価されているコメディは、やっぱりそれなりに洗練されたコメディと言っても良いのでは。

 久しぶりに良質なコメディ映画を見た気がします。 

 

 

 

 

 

ジョン・ベルーシはこの数年後に亡くなっている、、、。

 

 

 

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普通の人々(1980年)

2018-12-27 | 【ふ】



 高校生のコンラッド(ティモシー・ハットン)は、精神的な不安定さから眠れず、夢にうなされることもある。そんな息子を心配する父親カルヴィン(ドナルド・サザーランド)は、知り合いから勧められた精神科医バーガー(ジャド・ハーシュ)に行くようコンラッドを促し、コンラッドもバーガーの下に通うようになる。

 彼が不安定なのは、その数か月前に兄バックが海で亡くなる事故があったことが原因らしい。バックと2人、ヨットで海に出たコンラッドだが、途中で嵐になり、コンラッドだけが助かったのだ。バックを溺愛していた母親ベス(メアリー・タイラー・ムーア)は、バックを失った哀しみから抜け出せず、一人生き残ったコンラッドに対し時折冷たく当たり、2人はギクシャクするようになっていたのだった。

 コンラッドはバーガーの診療室に通ううちに、次第に自分の心と正面から向き合えるようになっていく。そして、自分がどうしてこんな気持ちになっているのか、だんだん自覚するようになっていくのだが……。

 R・レッドフォード監督デビュー作にして、オスカー受賞作。

 
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 『へレディタリー/継承』を撮るに当たり、アリ・アスター監督が参考にしたという本作。レッドフォード監督作は『ミラグロ/奇跡の地』で玉砕した経験があるので、それ以来、食指が伸びなかったのだけど、『へレディタリー/継承』をまあまあ興味深く見たので、本作も少し見てみたくなった次第。考えてみれば『クイズ・ショウ』も彼の監督作だしね。

 で、見てみたのだけれども、これは、静かなる衝撃作でありました。これが監督デビュー作とは、恐れ入る、、、。


◆フレンチトーストが、、、

 正直言って、前半は割と退屈だった。……とはいっても、序盤で、母親ベスが、コンラッドが「食べたくない」と言った(ベスが作った)フレンチトーストを容赦なくシンクのディスポーザーに捨てたシーンはギョッとなって心臓を掴まれたような気分になったけれども。

 もう、あのワンシーンで、ベスがコンラッドにどう対峙しているのかが端的に分かるという、もの凄く雄弁な描写である。ホントに、あのシーンはビックリした。

 しかし、その後、中盤くらいまではかなり淡々と(というか、本作は終始淡々とした描写なのだが)話が進んでいく。再び私が心臓を掴まれたような気分になったのは、あの“写真を撮る”シーン。

 ベスの両親がコンラッドの家に遊びに来ていて、コンラッドとカルヴィン&ベスの3人の家族写真を撮るが、その後、事件が起きる。カルヴィンが、コンラッドとベスのツーショット写真を撮ろうとすると、ベスは「イヤだ」とは言わないが、「いいわよそんなの、男性3人の写真撮りましょうよ、私が撮るわ」と、隣にコンラッドがいるのに、カメラを構えている夫のカルヴィンに執拗に「カメラちょうだい」と手を出して言うのである。ベスの父親も「いいから2人で肩組んで!」などとベスとコンラッドに促すが、ベスは聞き入れない。すると、コンラッドがカルヴィンにキレるのだ。「いいから! カメラ渡せよ!!」と。当然、一同は凍りつく。

 ここでコンラッドがキレる相手が、母親のベスではなく、父親のカルヴィンであるところがミソだと思う。コンラッドは、母親が息子の自分をここまで嫌っていることに気付かない父親に苛立ったのだ。母親が自分を嫌っているのは、その理由が分かるから、もう仕方がないと諦めているのだろう。しかし、父親が、その空気をあまりに読めていないことで、自分がここまでいたたまれない気持ちにさせられていることが耐えられなかったに違いない。

 それ以降は、もう、見ていて辛くなるばかりで、終盤は涙が止まらなかった。

 もちろん、コンラッドの気持ちを想像すると胸が詰まるのだが、父親のカルヴィンの辛さも、そして、一般的には評判の悪い母親ベスの抱える思いも、全部が重く私の心にのしかかってくるような感じだった。


◆母親の限界

 私の心に突き刺さったのは、バーガー先生の言葉だ。コンラッドに「母親の限界を知れ」と言う。一瞬??となったが、すぐに意味が分かり、グサッと心臓を貫かれた感じだった。

 つまり、ベスはベスなりにコンラッドを愛してはいるのだろう。しかし、親の愛情は無限、などというのは単なる幻想で、ベスも一人の人間であり、母親と言えども息子に注ぐ愛情には限界があって、コンラッドが望む量の母親の愛はベスは持ち合わせていないのだということを、バーガー先生の言葉はズバリ指摘しているわけだ。

 そうか、、、親の限界を知れ、か。そう聞かされると、私自身、親の限界を知ろうとしなかったのだなぁ、、、と思い知らされた様で、目からうろこが100枚も200枚も落ちたような気分になったのである。私は、どこかで、親の愛情無限神話を信じていたのだ。言葉にして「親の限界を知れ」と言われると、これほど説得力のあるものはない。

 ネットの評では、おおむね、ベスが母親としてサイテー、という感じである。確かに、まぁ、好感は持てないよなぁ。だけど、サイテーとまでこき下ろす気にもなれない。

 一度だけ、ベスの方からコンラッドに歩み寄るシーンがある。寒い庭で、コンラッドが椅子に横たわっているのを見たベスは、何を思ったのか、自分も庭へ出てコンラッドに近づいて声を掛ける。「寒いから上着持ってこようか?」みたいなことを言うんだけど、コンラッドは違う話をして、結局2人の会話は噛み合わないまま終わる。ベスは家に入ってしまい、夕食の支度を始めるが、コンラッドは少しベスに悪いと思ったのだろう、自分も家に入るとベスに「手伝うよ」と申し出る。でも、ベスは「必要ない、そんな暇があるなら自分の部屋を片付けて」と言って、その後、彼女の友人と思しき人からかかってくる電話に出ると、やたら明るく笑い声を立てて楽しそうに話すのである。そのベスの背中を見ながら、部屋へと上がって行くコンラッド。

 結局、この母と息子は、一人の人間対人間として、決定的に合わないのだと思う。バックが生きていたときは、それが表面化することなく、何となく上手く行っていたのだ。

 ベスは、自分の“良し”とする範囲内のこと以外のありとあらゆるものに対して、全く柔軟性がないのである。自分の“良し”とする範囲ってのも、つまりは、世間一般が良しとしていることなわけ。自分に自信がない人の特徴として最たるものだと思うけれど、そういう人だから、想定外のことが起きたとき全く冷静に対処できない。そして、それを全部、自分以外のせいにして、非常に他罰的な思考回路。「私はこんなに世間の規範に沿ってちゃんとしてるのに、何なのよ!」という感じ。自分の融通のきかなさを顧みることは決してない。

 バーガー先生に、誰よりも診てもらわなければならなかったのは、コンラッドでもカルヴィンでもない、ベスだったということ。

 でも、こういう人は、自分に自信はないけどプライドは人一倍高いから、自分のオカシさを自覚することはそもそも出来ない。だから、夫のカルヴィンに「一緒にバーガー先生の所に行こう」と言われても、ヒステリックに拒絶してしまう。

 このシーンは、私が摂食障害になって精神科に通っていたとき、医師に「お母さんも一緒に来てもらった方がいいんだけどねぇ……」と言われ、それを母親に伝えた時の反応の再現フィルムを見ているようだったので、正直、一瞬凍りついた。まあ、母親はメアリー・タイラー・ムーアのように美しくはないですが。ホント、これ以上ないっていうくらいの拒絶っぷりに、絶望的な気持ちにさせられたんだけど、本作のカルヴィンも固まっていた。

 でも、それもこれも、「母親の限界」と思えば、もしかしたらそれほどのことではないのかも知れない。偏差値30くらいの人に、偏差値70の学校に受かれ、と言ったって、そもそもムリなわけで。それと同じなんだと思うと、私も、母親に対して可哀想という感情が湧いてきたのも事実。


◆家族崩壊……か?

 ラストは、ベスが一人、家を出て行き、カルヴィンとコンラッドが抱き合うシーンだった。家族の崩壊、、、ということなのか。

 ベスが家を出たのは、カルヴィンに愛想を尽かされたからだが、カルヴィンがそうなった直截的な原因は、その前のシーンにある。コンラッドが、旅行から帰って来た両親に「お帰り」と明るく言い、ベスにそっと近づいてハグをする。しかし、ベスは戸惑ったような、むしろ嫌悪の表情を浮かべて、ハグを返すことなく硬直していただけなのだ。それを見たカルヴィンは、ようやくベスの抱えるオカシさをハッキリと認識したのだ。

 けれども、21年も連れ添ってきた夫婦であり、妻がオカシいと知って、それだけで夫婦が破綻するというのも、何か違う気がする。カルヴィンは、鈍感だが、愛情深い人間であることは確かなようだから、自分が家族の接点となって、再びコンラッドとベスの歪ながらも三角形を築いて行く、と願いたい。

 故淀川長治氏の本作の評をYouTubeで見たけれど、淀川さんは「息子がもっと母親を理解し歩み寄るべき」と言っていた。……そうかなぁ。コンラッドは歩み寄ったぞ? だからこその、あの優しいハグだったのではないか。そして、だからこそ、カルヴィンがベスに愛想を尽かしたのではないか? あれ以上、それでも息子は母親を優しく包み込まなければならないのか? それはちょっと酷というものだろうと、私は思うのだけれど、、、。
 
 それにしても、家族って、、、何なんですかね。私にとっては、あらゆる悩みの根源でしかなかったけれど。「家族っていいなぁ、、、」と無邪気に言える人は、ホントにラッキーな人なのかも知れない。家族は選べないもんね。

 終盤、コンラッドが仲良くなる女の子ジェニンを演じていたのは、エリザベス・マクガヴァン。「ダウントン・アビー」のコーラ役がステキだけど、『窓・ベッドルームの女』でも好印象だった。すんごい足が長くてビックリ。目が綺麗で、ホントに可愛い。

 コンラッドを演じたティモシー・ハットンは、本作でオスカーを受賞している。……けれど、その後はあんましパッとしない様子。出演作を見たら、『ゲティ家の身代金』に出ていたらしい! えー、ゼンゼン気付かなかった、何の役だったの?? といって、再見する気にもならないし、、、。ま、いっか。








バーガー先生、たばこ吸い過ぎです。




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プロヴァンス物語 マルセルの夏/プロヴァンス物語 マルセルのお城(1990年)

2018-08-20 | 【ふ】



 以下、公式HPよりストーリーのコピペです。

=====ここから。

 お針子と教師の間に生まれたマルセルは、幼いうちから読み書きに秀でた少年。やがて弟、そして妹も誕生したパニョル一家は、夏のヴァカンスを過ごすため、ローズ伯母とその夫ジュール伯父が借りている丘陵の緑とセミの声に包まれた別荘に向かう。狩猟の名人である伯父は初心者の父ジョゼフを狩猟に誘う。マルセルが初めて目にする頼りない万能の父…。(『プロヴァンス物語 マルセルの夏』)

 再び休暇が訪れ、友が待つ夢にまで見た丘陵に戻ったマルセルは、そこで初めての恋を体験する。やがてパニョル一家は、母の計らいで毎週末を別荘で過ごし始める。ただそこは、多くの荷物を抱えて歩いていくには駅からとてつもなく遠く、父の教え子の助けもあって、いくつかの大きな邸宅の庭先を抜けて近道をしていた。が、ある日、頑固で容赦ない邸宅の管理人に見つかり、母は卒倒してしまう…。 (『プロヴァンス物語 マルセルのお城』)

=====ここまで。

 マルセルの夏、マルセルのお城は、それぞれ独立した作品ですが、連作として制作されたものです。「夏」→「お城」の順に両方見るのが一応オススメ。


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 夏休みスペシャル企画、、、かどうかは分からないけど、同時期に開催中の「ベルイマン特集」はスルーして、現在、恵比寿ガーデンシネマで公開中の2作品を見て来ました。DVDにもなっているみたいだけど、こちらは4Kリマスター版。しかも、こういう自然を舞台にした作品は、スクリーンで見るに越したことはないし、他にも同じガーデンプレイスにある東京都写真美術館で公開していた、ベルドリッチの『暗殺のオペラ』も見たかったので、酷暑の中を行ってまいりました。『暗殺のオペラ』の感想はまたいずれ、、、。


◆南仏プロヴァンスの日々、、、。

 子どものころの、本当に幸せな時間を切り取って生き生きと描いた2作品。見る者も束の間幸せな時間を共有できる。

 19世紀末フランス、、、ということで、中産階級にとっては良い時期だった様子。もう少し時間が経つと第一次大戦の時代に突入していくのだからね。

 マルセルの父・ジョゼフは教師で厳しくも優しい人。母親のオーギュスティーヌも美しく、夫を支える良妻賢母。このお母さんは、自分が町に買い物に行くときは、幼いマルセルをジョゼフの教室の後ろに置いて行くので、マルセルは読み書きの授業を子守り代わりに聞くうちに、きちんと教えられもしないうちに、読み書きができてしまうようになる。ジョゼフは驚くが、オーギュスティーヌは、マルセルの「脳味噌が爆発してしまう」と本気で心配し、マルセルに読書を禁じてしまう。

 ……という、何とものどかな描写が続く。そうして、マルセルに弟が生まれ、オーギュスティーヌの姉・ローズもマルセルを連れて公園を散歩していて出会ったジュールと結婚し、皆で夏の間を別荘で過ごす。この「夏」は、特に何が起きるわけでもなく、ほのぼのとした夏休みではあるが、マルセルにとって忘れがたい子ども時代の1ページとなっていく様子がキラキラした映像で描かれる。

 「お城」の方は、さらにその後のクリスマス休暇や、日常の休暇ごとに別荘に通うことになったマルセルたちの様子を描写したもので、こちらは小さい出来事がちょこっと起きるものの、やはり概ね平和でほのぼのである。出来事と行っても、別荘までの遠い道のりが、思わぬショートカットによって、一家にとっては大変な冒険になる、というものだが、子どものマルセルにとっては、これは大事件だったに違いない。

 ただ、「お城」の終盤で、一気にこの2作品は切なさを帯びる。美しく優しい母・オーギュスティーヌはこの5年後に病気で亡くなり、弟も30歳で夭折する。「夏」で、山で出会い無二の親友となった少年リリは、その後第一次世界大戦で銃弾を受けて亡くなる。こんな哀しい未来が、この2作品に描かれているマルセルたちに待っているなど、登場人物の誰も想像だにしていない。そして、マルセルのナレーションはこう語る。

「それが人の世だ。喜びはたちまち悲しみに変わる。幼き者が知る必要はない……」

 そう、そのとおり。この先に何が待っているのかなど、幸せな時間を過ごす子どもが知ることも考えることも、必要のないこと。でも、後から振り返って見ると、その幸せな時間が、どれほど輝いた大切な時間だったか、、、大人になって初めて知るのである。

 だから「夏」→「お城」の順に見た方が良いと思うんだけど、「お城」を先に見れば、「夏」のキラキラが、ますます眩しく切なく胸に響くのかも知れない。それもいいかも、、、。


◆父・ジョゼフ

 ジョゼフが、なかなか面白い人である。

 教師だから、それなりに厳しい一面もあるのだが、幼いマルセルにとって、父はとにかく偉大な人なのだ。何でも知っていて、頼りがいがあって、とにかく“おっきな人”なんである、マルセルにとっては。

 でも、実際はジョゼフも人の子。平凡な一オジサンだ。

 ある日、ジョゼフの友人が、大物を釣り上げて、得意のあまりにその大きな魚と一緒に記念写真を撮った。その写真をジョゼフに自慢げに見せると、ジョゼフは「わざわざ写真撮ったのか? 魚とポーズとったのか? 大物を釣って喜ぶのは良いが、写真まで撮るなんて誇りがないんだ。悪徳の中では、最も虚栄心が愚かしい」などとマルセルに言うのだ。

 しかし、後日、別荘で過ごしているある日、大物のウズラを仕留めたジョゼフは、そのウズラを腰にこれ見よがしに下げて、マルセルと並んで、神父に写真を撮ってもらうのである。

 そんな父の姿を見て、しかし、マルセルは、父を軽蔑するではなく、むしろ意気に感じてますます好きになるのである。

 また、マルセルは、「夏」の終盤で、別荘から自宅に帰りたくなくなって、親友リリとともに山で暮らす決心をし、自分のベッドの枕に両親に宛てた置手紙をして別荘から“家出”をする。しかし、そこは子どものすること、すぐに怖気づいて、慌てて別荘に戻ってくるマルセル。枕にそのままになっている置手紙を見てホッとするマルセルは、その置手紙を処分する。

 ……しかし、実はどうやらその手紙は両親には読まれていたらしいことが、その後の描写で暗示される。でも、ジョゼフはそれを露骨にマルセルに言ったりはしない。

 父も息子も、互いに互いを思いやり、愛情を抱いていることがよく分かる。

 「お城」では、別荘までのショートカットをするのに、他人の敷地を無断で通ることに家族でただ一人抵抗するのもジョゼフ。それは、不法侵入だから、というのもあるけど、それがバレたら教師をクビになってしまうから、という、極めて俗な理由が第一。でも、失業したら家族を養うことも出来なくなるし、現実的な理由で、こういうところでヘンにカッコつけて建前論を言わないところも好感の持てるお人。

 結果的に、意地の悪い管理人に見つかるけれど、かつての教え子に助けられる。ショートカットを教えてくれたのもこの元教え子。ジョゼフは良い先生だったからこそ、元教え子に何かと助けられるのよね。

 こんな父親を、マルセルが大好きなのは、当たり前だろう。


◆山の友・リリ

 このリリ君が、可愛かった! マルセルを演じたジュリアン・シアマーカもキリッとしたなかなかの美少年だが、リリを演じたジュリ・モリナスは、なんともはや可愛らしい。ちょっと特徴のある顔立ちだけど、リリのキャラとぴったりで、気に入ってしまった! 「お城」では出番が少なかったのがちょっと残念だけど。

 「夏」で、マルセルが山道で迷子になりかけた際に助けてくれたのがリリ。もう、山のことなら目をつぶっていても歩けるくらいに、何でも知っている少年だ。何というか、こういう子のことを“純粋”というのだろうなぁ、、、と、スクリーンを見ながら思っていた。

 嵐になりそうになって、岩場にマルセルと一緒に隠れると、後ろから視線を感じるリリ。マルセルも気付いて、リリはマルセルに「そっと振り向いて……」と言うと、マルセルは怖々「吸血鬼?」と聞く。「違う、“大公”だよ。大ミミズクだ」とリリが答えて、映ったのは、ホントに大きいミミズク。怖くなった2人は「濡れた方がマシ」と、雷雨の中を、マルセルの別荘に一目散に駆けて行く。

 そうして、連れ立って帰ってきた2人は、もうすっかり仲良しになっていて、びしょ濡れになった2人は素っ裸でマルセルの部屋に駆け込み、リリはマルセルの服に着替える。その服が、セーラー服で、リリが着るとまた実に似合っていて可愛らしい。リリはすごく嬉しそうで「これもらって良いですか?」、、、もちろん、マルセルはリリにあげる。

 「夏」のラストシーン、マルセルとリリの別れのシーン、リリが見送りに来るんだけど、そのときリリが着ているのがこのセーラー服。これを着て、寂しそうにマルセル達を見送るリリが、なんとも切ないのよね、、、。

 でも、「お城」の序盤で、久しぶりにマルセルと再会したリリがまた可愛い。本当はマルセル達が来るのを待っていたのに、「他の人のことを待っていたんだけどいなかった」と嘘を言う。もちろん、マルセルにはそれが嘘だと分かっているんだけど。何か、いいなぁ、、、こういうの、、、と見ながらしみじみしてしまったよ。

 そんなリリも、「お城」の終盤で、その後の哀しい最期が明かされる。あんなにキラキラしていた時代があったのが嘘のような、、、。


◆その他もろもろ

 お母さんのオーギュスティーヌを演じたナタリー・ルーセルが美しかった。彼女、あの『コックと泥棒、~』のプロデューサーの娘さんだとか、、、、。へぇー。

 あと、音楽が印象的だなぁ、と思って聞いていたのだけど、音楽を担当したのはあの『ディーバ』のウラジーミル・コスマだった! 『ディーバ』、、、あんまし好きじゃないんだけどね。

 とにかく、自然や景色が本当に美しく、これはスクリーンで見る価値があるというもの。4K画像だから、すごくクリアでキレイだった。

 “ここでは幸せが泉のようにあふれていた”
 “人生で最も美しい夏の日々”


 ……もうこの予告編のナレーションに全てが凝縮されていると言っても良いかも。良い映画を見ることができて、幸せでした、私も。









こんな子ども時代の思い出がある人は幸せだ。





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ブリキの太鼓(1979年)

2018-08-17 | 【ふ】



 以下、上記リンクよりストーリーのコピペです。

=====ここから。

 1899年のダンツィヒ。その郊外のカシュバイの荒野で4枚のスカートをはいて芋を焼いていたアンナ(ティーナ・エンゲル)は、その場に逃げてきた放火魔コリャイチェク(ローラント・トイプナー)をそのスカートの中にかくまった。それが因でアンナは女の子を生んだ。

 第一次大戦が終り、成長したその娘アグネス(アンゲラ・ヴィンクラー)はドイツ人のアルフレート・マツェラート(マリオ・アドルフ)と結婚するが、従兄のポーランド人ヤン(ダニエル・オルブリフスキ)と愛し合いオスカルを生む。

 1924年のことだ。3歳になったオスカル(ダーフィト・ベネント)は、その誕生日の日、母からブリキの太鼓をプレゼントされる。この日、彼が見た大人たちの狂態を耐えられないものと感じたオスカルは、その日から1cmとも大きくなるのを拒むため自ら階段から落ち成長を止めた。周囲は事故のせいだと信じた。が、この時同時にオスカルには一種の超能力が備わり、彼が太鼓を叩きながら叫び声を上げるとガラスがこなごなになって割れた。

 毎週木曜日になると、アグネスはオスカルをつれて、ユダヤ人のおもちゃ屋マルクス(シャルル・アズナヴール)の店に行く。彼女はマルクスにオスカルをあずけて、近くの安宿でポーランド郵便局に勤めるヤンと逢いびきを重ねていたのだ。それをそっと遠くから目撃するオスカル。彼が市立劇場の大窓のガラスを割った日、第三帝国を成立させ、ダンツィヒを狙うヒットラーの声が町中のラジオに響いた。

 両親といっしょにサーカス見物に出かけたオスカルは、そこで10歳で成長を止めたという団長のベブラ(フリッツ・ハックル)に会い、彼から小さい人間の生き方を聞いた。

 ヤンも含めた四人で海岸に遠出した時、引きあげられた馬の首からウナギがはい出るのを見て嘔吐するアグネス。彼女は妊娠していたのだ。ヤンが父親らしい。それ以来、口を聞かなくなり、魚のみをむさぼる彼女は遂に自殺してしまう。

 やがて、ナチ勢力が強くなり、1939年9月l日、ポーランド郵便局襲撃事件が起こる。銃殺されるヤン。

 やがてマツェラート家に、オスカルの母親がわりとして16歳の少女マリア(カタリーナ・タールバッハ)が来る。オスカルとベッドを共にする彼女は、やがてマツェラートの妻になり、息子クルトを生む。クルトを我が子と信じて疑わないオスカルは、3歳になったら太鼓を贈ると約束し、再会したベブラ団長と共に慰問の旅に出た。慰問団のヒロイン、ロスヴィーダ(マリエラ・オリヴェリ)との幸福な恋の日々。

 しかし、連合軍の襲撃の日、彼女は爆撃をうけ死んでいった。オスカルが故郷に帰った日は、ちょうどクルトの3歳の誕生日でドイツ敗戦の前夜だった。ソ連兵に射殺されるマツェラート。彼の葬儀の日、オスカルはブリキの太鼓を棺の中に投げ、彼は成長することを決意する。その時、彼はクルトが投げた石で気絶する。祖母アンナ(ベルタ・ドレーフス)は彼を介抱しながらカシュバイ人の生き方を語る。そして成長をはじめたオスカルは、アンナに見送られ、汽事に乗ってカシュバイの野から西ヘと向かってゆくのだった。

=====ここまで。

 途中、「やがて」連発のあらすじ、、、、。ま、いいか。


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 今回見たのは多分3回目くらいだと思うが、別に好きな映画というわけでもないのに何故レンタルリストに入れたのかは相変わらず記憶になく、、、。まあ、きっと、もう1度見てみようかな、くらいの軽い気持ちだったに違いない。何回見ても、訳分からなさとぶっ飛びっぷりに、頭の中がウニ状になるのだけれど、正直、嫌いとも言い難い。こうして、またいつか、4回目を見てしまうんだろうな、と思う。


◆なぜ“オスカル”なのか???

 何度見ても可愛いと思えないオスカル。オスカルは、自分の意思で、自身の身体の成長を止めたり、奇声を発して物を壊したりする、「エスパー少年」である。成長を止めた理由が“大人の世界は醜い、汚いから”というもので、まあ、ピーター・パンとかと同じで、大人になりたくない症候群を体現しているキャラである。

 しかし、このオスカルが成長を止めた後にやっていることは、ほとんど“大人と同じ”なんである。気に入らないことがあるとエスパーで八つ当たりしたり、セックスしたり、家出したり、生きていくために慰問団で働いたり、、、。

 これって、どーゆーこと? まあ、彼が止めたのは身体の成長だけで、精神的な成長は止めてないみたいだから、中身は大人になっていくんだよ、ってことか。それじゃぁ、身体の成長を止める意味ないじゃん、と思うんだが。それとも、大人も子どもも、基本、同じくらいにバカバカしいってことなのか。

 原作(未読)は、ギュンター・グラスで、彼の出生地が本作の舞台だ。原作の記述は分からないが、本作を見る限り、オスカルの言動を通して、ナチスを非難しているんだろうな、との察しはつくが、そこでこのオスカルのようなキャラを生み出すグラスの想像力は、やはりタダモンじゃない、と感じる。なぜ、オスカルだったんだろう、、、?

 ナチスの集会に、オスカルたちが乱入(?)し、みんなが踊り出すシーンは、ちょっと不気味である。総統とナチスという組織に盲目的に従属している人々が、オスカルの叩く太鼓の音に易々とコントロールされてしまう、という皮肉な場面。コントロールされやすい人は、支配者が誰であれ、コントロールされてしまうものだ、とでも言いたいのかね。支配されることって、ある種の快感だ、、、と、今日の某全国紙の記事にも出ていたしなぁ、、、。

 この“オスカル”の不可解さが、決して好きとは言えない作品であるにもかかわらず、複数回見てみようと思わせる要因なのだ、、、、多分。

 しかし、今回見て、少しだけ自分なりに腑に落ちる部分もあった気がする。というのも、前回見たのは、グラスのあの“告白”以前だったからだ。2006年に、グラスが、過去にナチスの親衛隊に属していたことを公表し、私は、グラスに当時も今も何の思い入れも抱いていないけれども、それでもかなり驚いたし衝撃を受けた記憶がある。反ナチ文学でノーベル賞を取った、くらいの認識をしていた私のような者にとっては、かなり驚愕の告白であった。

 その告白を私は読んでいないし、実際にどのような経緯で彼が親衛隊に属したのか、詳細を知らないのでそのことに対しては何も書くことは出来ないが、今回、あの“オスカルの異常さ”を改めて見て、これは、グラスの良心あるいは罪悪感の裏返しなのかも知れないなぁ、という気がしたのだ。

 かつて自身が信じたもの、共感したものが、とんでもない化け物だった。そんな化け物に感化された自分もまた、化け物なのではないか、という自問自答の末に生まれたのが、あのオスカルのキャラだったのかも、、、と。

 きっと、グラスの研究者によって、この辺はきちんと解明されていることなのだろう。私がこう感じたのは、飽くまで今回本作を見て、あのオスカルの狂態を見て、ぼんやりとそんなことが頭に浮かんだ、という程度のものだ。でも、私にとって、長年謎のキャラだったオスカルが、少し、意味が分かったように感じられたのは、今回見ての収穫だといえる。研究者の論文に解説されることも悪くないが、自分で自分なりに納得することは一種の快感だ。

 まあ、原作を読めば、もっとよく分かることなのかも知れない。いずれ原作も読んでみようと思ってはいるけど、いつになることやら、、、。


◆子役について思うこと、、、

 このオスカルを演じたダーフィト・ベネント君であるが、どうも、その後の役者人生は鳴かず飛ばずといったところの様だ。彼にしても、『エクソシスト』のリンダ・ブレアにしても、あまりに強烈な役を演じた子役は、その後が難しいんだろうね、、、。

 本作は、児童ポルノ問題にも発展したが、子どものダーフィト君が大人と性行為に及ぶシーンがあり、まあ、それでなくても本作のオスカルの役どころは、かなり異常なキャラの演技を求められるわけで、正直なところ、これを演じることを許したダーフィト君の親御さんもスゴいと思うが、いくら芸術の創造だからといって、子どもにここまでのことをさせるというのは、児童福祉の側面からいっていかがなものなのか、、、という若干の嫌悪感に似たものは、見る度に抱く。でも、そう言いながら複数回見ているわけだから、私も本作を制作した大人達と同じ穴の狢である。

 おまけに、本作は、映画史上に残る名作とさえ言われている。ということは、これまでも、そしてこれからも、多くの人が本作を見ることになるのだろう。本作は、悪質な児童ポルノではないと思うが、オスカルがマリアの手にソーダの粉末を乗せ、その上に自身の唾液を垂らすというシーン(しかも複数回ある)は、性行為のシーンよりも気持ち悪く、吐き気を催すことだけは確かだ。

 これは、私の感性の問題だが、ハッキリ言って露骨なセックスシーンよりも、よほど不快な描写であり、ああいうことを子どもにさせる意味が、私には理解できない。多分、演じたダーフィト君は、大した意味もなく演じているのだろうし、子どもが無邪気に唾液を物に垂らすことは珍しいことではないだろう。大人だからこそ、そこに性的な意味を見出し、勝手にポルノ的なイメージを抱くのだ。私が嫌悪感を抱くのは、ポルノ的だからというより、単に不潔な感じがするからという方が大きいが、何はともあれ、やはり、この“垂涎シーン”は、私には生理的にどうしても受け容れられない。


◆その他もろもろ

 本作には色々キョーレツな描写があるが、まあ、何と言っても一番キョーレツなのは、やっぱし、馬の頭で鰻を捕獲する描写かなぁ、、、。あれは確かに気持ちワルイ。馬の目とかから、鰻がニュル~ッと出てくるのは、グロテスクそのもの。ああいう鰻の漁の仕方が実際にあったんだろうか……?

 あとは、慰問団の小人たちが無残に殺されていくシーンとか。マリアと父親のセックスしているシーンとか。冒頭、オスカルのお祖母ちゃんがスカートの中に男を入れてアグネスを妊娠しちゃうシーンとか。もちろん、オスカルが奇声を発して診察室のホルマリン漬け標本瓶を全部破壊するシーンも、かなりキョーレツ。

 何というか、本作は全般に、“不潔”なんである。スクリーン(というか画面)全体を覆う雰囲気そのものが“不潔”な感じなのである。汚い、とはちょっと違う。不潔な感じ。決して目を背けたくなるような汚いものではないのだが、見ていると眉間に皺が寄ってくる何とも言えない不快感を覚える不潔さ。それが、本作を支配している気がする。

 もちろん、そんな風に感じるのは私だけだと思うし、本作がだから不潔な映画だと言っているのではない。児童ポルノまがいだから不潔だ、というのでも、もちろんない。前述した垂涎シーンは多少影響してはいるだろうが、それだけではない。

 猥雑さが醸し出す不潔な感じ、、、とでもいうのが一番近いかな。あんまり、実際には近寄りたくない世界だが、でも覗いてみたくなる世界、そんな感じだ。








日本で一番有名な"オスカル"とはあまりにも違いすぎる、、、。




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ブロンド少女は過激に美しく(2009年)

2018-06-06 | 【ふ】



 以下、上記リンクよりストーリーのコピペです。

=====ここから。

 長距離列車のなか、マカリオ(リカルド・トレパ)は隣り合わせた婦人(レオノール・シルヴェイラ)に自身に起きた事件を語る。

 会計士のマカリオは、叔父フランシスコ(ディオゴ・ドリア)が経営する高級洋品店の2階で仕事を始めた。マカリオは、向かいの家の窓辺に姿を現した美しいブロンドの少女(カタリナ・ヴァレンシュタイン)に恋をする。2週間後、その少女と母親(ジュリア・ブイセル)が店を訪れる。その日の食事時、叔父は高級ハンカチーフがなくなったと言う。

 数日後、マカリオは、友人が向かいの家の母親に挨拶しているのを見る。母親はヴィラサ夫人で、良家の母娘だと聞いて安心したマカリオは、友人に紹介を頼みこむ。

 土曜日の夜、マカリオは公証人の家で開かれた上流層の集いに出席する。少女ルイザもそこにいた。2人は別室のカードゲームに加わるが、ルイザに配られたチップがなぜかなくなる。ヴィラサ夫人宅の友人の集いに招かれたマカリオは、夫人にルイザへの想いを打ち明ける。翌朝、叔父に結婚の許しを乞うが、叔父は反対し、マカリオをクビにする。

 家を出て部屋を借りたマカリオは、カンカン帽の友人から、貿易商がカーボヴェルデで働く男を探していると聞き、即座に受ける。

 一財産を築いてリスボンに帰ってきたマカリオはヴィラサ夫人を訪ね、結婚の許しを得る。しかしカンカン帽の友人はマカリオを保証人として、不倫の恋で行方をくらませていた。

 破産したマカリオは、借り部屋で暮らし始める。再びカーボヴェルデの仕事を持ちかけられたマカリオは、悩みながら決意する。マカリオはルイザの家の前で無言の別れを告げると、叔父を訪ねる。全てのいきさつを知っていた叔父はマカリオに2階で仕事をするように告げ、ルイザとの結婚を許す。

 マカリオとルイザは一流宝石店に行く。2人は結婚指輪を選び、店を出ようとするが店員に止められる。ルイザの手の中に、ダイヤの指輪があった。ルイザを怒鳴りつけたマカリオは、2度と会えない別れをする。

=====ここまで。

 上記あらすじの“ぶつ切り感”が何とも言えないのだけれど、本作自体も、このあらすじみたいな感じなんですヨ、、、。


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 オリヴェイラの映画は、これまで2作品(『アンジェリカの微笑み』『家族の灯り』)しか見ていないんだけど、正直、ヘンな映画を撮る爺さんというイメージが定着してしまった。でも、本作はそのタイトルに何となく惹かれ、前から見たいと思っていたところ、2年前くらいにDVD化されていたようで、このほど見ることが出来ました。やっぱりヘンな映画だった!


◆思いもしない展開に唖然、、、。

 ヘンな映画を撮る爺さん、などと書いたけれど、どうヘンなのかを書くのがこれまた難しい。ストーリーらしきものはあるのだけれど、展開が唐突で、ぶつ切り感というか違和感をもの凄く覚える。画は概ね暗くて、役者さん達の演技も、まさに“お芝居しています”的な感じで、作り物感が溢れている。つまり、リアリティなんぞ、最初からまったく追求していないように感じる。

 ただ、見終わった後に、何とも言えない強烈なインパクトを残すのも事実で、映画を見た、というより、幻想絵画(動画)を見た、という感じに近い。

 本作は、それでも前2作に比べれば、ストーリーは割とハッキリしている方だが、???な部分は当然あちこちにある。そして、やはり幻想絵画的な印象を残す。

 『アンジェリカ~』のヒロイン・アンジェリカもそうだったけれど、本作のヒロインのブロンド少女・ルイザは、どことなく想像上の生き物というか、幻の女性という感じの造形。アンジェリカはお化けだったから当たり前だが、ルイザも何となく実在感が伴わない。

 マカリオの「窓から見える女性に恋を……」みたいな(ゼンゼン正確じゃありません)回想セリフに被って、とある窓が映るんだけど、そこにどんなブロンド美少女が現れるかとドキドキしながら見入っていると、洗濯物か何かをバサバサする中年女性がおもむろに現れる、、、という出だしからして、いきなり虚を突かれる感じ。もちろん、その後すぐにブロンド美少女が現れるのだけれど、なんかこう、、、その窓がいかにもハリボテな感じだし、マカリオからの実際の距離よりえらく窓が近く感じられる映像で、何とも言えない居心地の悪さの中に放り込まれるのである。

 もちろん、何かを狙ってこういう演出なんだろうけど、見ている方としてはそれが何だかは分からない。

 ブロンド少女もマカリオの存在に気付いていて、それでも、マカリオはブロンド少女を見たくて仕方なくて、もの凄く不自然に、書類を持って立ち上がると窓際に歩み寄り、書類で顔を隠しながら、そーっと目だけを書類の外に出して、向かいの窓辺にいるブロンド少女を盗み見(でも盗み見たことになっていない。相手にバレバレだから)するとか、ほとんどキモい行動になっている。あれじゃぁ、書類で顔を隠す意味が分からない、、、爆。

 まあ、とにかく、他にもヘンテコな描写ばかり(でも、一応ストーリーにはなっている)が続いて、でも、どーにかこーにか、マカリオとブロンド少女は結婚できそうだ、ということになる。

 が、しかし!!

 ここから想像の斜め上を行くオチが待っている。なんと、このブロンド少女、盗癖があったのである。マカリオと行った宝石店で、購入した指輪とは別の指輪を、それこそ“万引き”していたのだ。店員に見破られていて、驚いたマカリオはルイザの手に握られた指輪を発見するが、その際にルイザは「恥かかさないで!」などと言う。マカリオは慌てて、その分の代金も支払って店を出るが、店を出た直後に「もう二度と会わない!」と言い放つのだ。

 ただまあ、この盗癖については、後から思えばちゃんと伏線が張られていた。上記あらすじにもあるとおり、叔父の店から高級ハンカチが消えていたり、カードゲームで配られたチップが消えたりする、、、。

 折角、マカリオは苦労の連続の果てに、憧れのブロンド少女と結婚できることになったのに、何という悲劇。確かに、こんな経験をしたら、誰かに話したくもなるよね。

 冒頭、マカリオが電車で隣り合わせた女性に「妻にも友にも言えないような話は 見知らぬ人に話すべし」という言葉で、自分の悲恋話を切り出すのが印象的。


◆唖然の次は、絶句のシーンが、、、。

 でも、本作はそこで終わらないのよ。

 その後のシーンがキモなのだ!! このシーンでブロンド少女の本性が如実に表れるという、これはお見事と言うのかなんと言えば良いのか、、、それをここで書いてしまってはあまりにもったいないので、是非、見てのお楽しみということに。もう、このワンショットのために、この作品はあると言っても良いと思う。それくらい、衝撃的なワンシーンなのです。

 マカリオは、恐らく、このことを知らないんだよね。だから、電車で見知らぬ女性に思い出を語って、悲劇の主人公に浸っているんだろうと思う。

 マカリオの叔父という人も不思議な人で、ブロンド少女との結婚を絶対に認めない、と言っていたのに、時間が経ったら許している。その変化の理由がさっぱり分からないのね、描写が全くないから。

 勝手に想像すれば、叔父さんは、ブロンド少女の悪癖を見抜いていたから反対したけど、マカリオがどうにもならないほど追い詰められているのを見て、諦めた、、、とか。

 あと、マカリオはカーボヴェルデという街に出稼ぎに行って、商才を発揮して大儲けすることになるんだけど、そんな才能があるのなら、金をだまし取られたからと言って、食うモノにも困るほど追い詰められるまでもなく、何とか算段できるんじゃないの? という、真っ当な疑問も湧くんだけど、そんなことは本作ではほとんど無意味な疑問だわね。


◆その他もろもろ。

 ブロンド少女・ルイザを演じたカタリナ・ヴァレンシュタインが、妖艶で美しい。男を惑わせる女、というのにピッタリ。窓辺でシノワズリみたいな羽根つきの団扇を仰ぐ姿は、女の私が見ても十分セクシー。

 マカリオを演じたリカルド・トレパは、オリヴェイラの孫だそうで、『アンジェリカ~』に続いて、またもや美女に惑わされる真面目な男の役。

 叔父さんと、マカリオが食事をするシーンがあるのだが、ここで2人は、向き合って座るのではなく、並んで座っている。この画がまたまた違和感バリバリ。ネット上で、この叔父さんを“ホモセクシャル”と書いている人がいて、「なるほど、、、そういう見方もあるのか」と、ある意味納得してしまった。確かに、あの結婚の反対っぷりは、ちょっと度を超していたように私も感じたので。大人の選択なのに、何で、、、? と。

 いや~、3作目にしても、ヘンテコな映画を撮る爺さんのイメージは変わらないわ。でも、これはかなり面白いと思う。初オリヴェイラに向いているかも、、、です。







ラストシーンで絶句、、、。




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ふたりのベロニカ(1991年)

2018-01-28 | 【ふ】



 世界中のどこかに、もうひとりの私がいるのではないか……? あなたは、そう思ったことがありますか?

 ポーランドとフランスに、同じ日に生まれたふたりのベロニカ。お互いの存在を知らないけれど、感じてはいる。でも、ポーランドのベロニカは突然の夭折。そのとき、フランスのベロニカは、どうにもならない虚無感に襲われ、、、。

 キェシロフスキによる美しい幻想的な作品。
   
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 どうしてもスクリーンで見たい映画、、、ってあると思いますが、本作もそのうちの1本と言えましょう。先週1週間、早稲田松竹でキェシロフスキ特集として本作が上映されていたので、見に行ってまいりました。同時上映は『トリコロール/青の愛』でござんした。トリコロール三部作については、またいずれ感想を書きたいと思います。


◆生きる上での“大いなる何か”

 この映画のパンフを読んでみたところ、映画評論家の黒田邦雄という人が、この映画を「霊感映画」と呼んでいたんだけれども、私は、どちらかといえば妄想映画というか、キェシロフスキの妄想を映像化した作品という感じを受けた。まあ、そんな単純なものではもちろんないのだけれど、少なくとも、霊感映画はちょっと違うような。

 ちなみに、黒田氏は、他の霊感映画としては、あの『ゴースト/ニューヨークの幻』や、スピルバーグ監督の『オールウェイズ』を挙げている。私は前者はテレビでながら見、後者は未見、ということでコメントしようがないんだけど、やっぱし本作と『ゴースト~』を同じジャンルで括られるのは違和感あるよなぁ。
 
 本作で描かれていることは、全く別の土地で、自分と極めてよく似た人物が、全く別々の人生を送るのだけれども、どこか理屈ではない感覚的な部分で重なり合っている。人間は根っこの部分は割と同じで通じ合うものも多々あって、目に見えないものに導かれたり阻まれたりするわけで、そういう人生においてのもろもろを突き詰めると、人種や思想や国の違いという枠を超えた“大いなる何か”なのだ、、、というようなことだと思う。

 キェシロフスキ自身は、「この映画は普遍性を持ったストーリーで、言葉ではうまく言い表せないテーマを描いていて、言葉にするとありきたりで馬鹿げたものになってしまうようなことがらである」「とても信心深い人間は、無神論者の人間と同じくらい歯が痛むのです。そして私はいつも、歯の痛みを語ろうと努めています」と言っている。至言。

 人生において“大いなる何か”を感じるか感じないかは人によるだろうけど、私は常々感じている人です(ちなみに、「もうひとりの私が」などと妄想したことは一度もありません)。そう思わなければ割り切れないことが、人生には多すぎると思うから。じゃあ、“大いなる何か”とは何か、、、。まあ、運命みたいなものだと思います。以前、ネット上で、運命と宿命について論じている方がいて、運命は自力で変えられるもの、宿命は自力で変えようがないもの、みたいなことを書いておられました。へぇー、と思ったけれど、私は運命と宿命は同じようなもので、「不可抗力」と言い換えられると思っている。

 「運命論は嫌いだ」と豪語する男性と複数会ったことがある(大昔にお見合いでね。皆さん、エリート様(キャリア公務員)でございました)けれど、私はこういうことをのたまう人間が昔から大っ嫌いなのです。生きていく上で自分の知見や力の及ばないものはない、という傲慢さ。……あれから20年以上経って、彼らの人生観も変わったかしらん、とも思うけれど、国民に自己責任を押しつける政策を悪びれもせず推し進める政府を見ていると、変わっていないんだろうなぁ、と想像せざるを得ず、、、。
 

◆セピア色の映像、人形劇、音楽、そしてイレーヌ・ジャコブ

 ポーランドのベロニカが、クラクフの広場で、フランスのベロニカを目撃するシーンが素晴らしい。セリフはないのだけれど、セピアがかった広場の画を背景に、黒いコートに赤いセーターを着たベロニカが立ちすくみ、その目線の先には、自分にそっくりのフランスのベロニカがいる。なんて幻想的なシーン。

 そして、ポーランドのベロニカは、まさしくドッペルゲンガーの都市伝説のとおり、その後まもなく、死んでしまう。しかも、彼女が臨んだ舞台で絶唱の最中に。そのシーンがまた劇的。

 その後、お話しの舞台はフランスへ移るけれど、私が心を鷲掴みにされたのは、あの人形劇。あの人形の動きの一つ一つがもう感動的。あんな人形劇を実演するイイ男に心奪われるというのは、実に説得力のあるストーリー。私でも惚れてしまう、、、多分。その後、その人形遣いの男とベロニカの恋模様については、まあ、ちょっと理屈っぽくて、あんまりグッとくる展開ではなかったけれど。

 終盤、その男が、ベロニカの人形を作っていて、なぜかその人形が2つある。ベロニカが「どうして2つあるの?」と聞くと、男は「壊れるから。酷使するからね」と。……本作の全てがこのシーンの伏線だった、、、とも言えそう。

 あと、上下逆さまの映像が印象的。冒頭の、ポーランドの幼いベロニカが見ている景色も逆さま、クラクフへ向かう車窓からスーパーボール越しに外を見た風景も逆さま、、、。どんな意味があるのかなんて分からない。

 特筆すべきは音楽かな、、、。ポーランドのベロニカが歌うのはオランダの作曲家の曲ということになっているけれど、この曲を作ったのは本作の音楽を担当したプレイスネルで、この音楽がとても効果的だと思う。ラストシーンで、フランスのベロニカが自宅の木に手を触れた瞬間に、その歌が聞こえてくる。その歌詞(ダンテの「神曲」らしい)がまた暗示的。

 しかし、なんと言っても、本作はイレーヌ・ジャコブあってこそ。彼女の素の美しさ、優しさ、たたずまいの全てが、ベロニカそのものだった。……いや、逆か。彼女だからこそ、ベロニカがベロニカとしてスクリーンの中で生きた存在となったのだと思う。冒頭の、雨に濡れながら歌うシーンが感動的に美しい。大胆に裸体を晒してもゼンゼンいやらしくない、むしろ、神々しささえ感じてしまう。その特異な存在感は、きっとほかの役者では成り立たなかったと思う。本作が名作と言われるのも、彼女がベロニカを演じたことが全てと言っても良いのでは。

 心洗われる、、、というか、しみじみと味わいたい映画です。
 





クラクフにも行きたかったなぁ、、、。いつか是非行ってみたい。




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ブリッジ・オブ・スパイ(2015年)

2016-10-05 | 【ふ】



 冷戦下のアメリカで、ソ連のスパイであるルドルフ・アベル( マーク・ライランス)の弁護を引き受けることになった弁護士のジェームズ・ドノヴァン(トム・ハンクス)。国中から罵声を浴びながらも、米兵がソ連の捕虜になった際の切り札に利用すべきだと主張してアベルの死刑を回避する。

 ドノヴァンの懸念どおり、米兵パワーズがソ連の捕虜となった。パワーズとアベルの身柄交換のため、再びドノヴァンに交渉役として白羽の矢が立った。難しい交渉のため、ドノヴァンは戦争の爪痕生々しいベルリンに入ったが、、、。

 良くも悪くも、ザ・スピルバーグな映画。


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 実話モノ&スピルバーグ、と2つも苦手要素が重なったのに、何となく見てみたくなりまして、、、。劇場まで行く気にはならなかったけれど、DVDでようやく鑑賞いたしました。


◆ドノヴァン氏の素晴らしき二枚腰

 実際のジェームス・ドノヴァン氏のお顔をネットで拝見したのですが、何となく、トム・ハンクスに似ているような。似ているというか、同じカテゴリーの顔、というか。

 しかし、トム・ハンクス、、、さすがに歳とりましたね。人間だから当たり前ですけど、『スプラッシュ』とかの印象が強いので、隔世の感がありまする。美男子じゃないけど、なぜか存在感のある役者ですよねぇ。若い頃から、今もそれは変わっていないですね。やっぱり、役者さんは、顔の造作の良し悪しも大事だけど、一番大事なのはオーラというか存在感だよね。

 で、このトム演じるドノヴァン氏は、専門は保険なんだけれど、なぜかソ連のスパイの弁護を任される。何でドノヴァンなのか、ってのは、割とアッサリな描写で、イマイチよく分からない。まあ、交渉力に定評があったってことなんでしょうな。

 とにかくこのドノヴァン、すごい精神力です。アベルを弁護する際もそうだけど、やっぱり私は、ベルリンで、身柄交換の交渉をするドノヴァンが圧巻でした。最初は、アベル:パワーズの1対1の交換の交渉だったんだけれど、たまたま恋人を救い出そうと東ベルリンに入ってしまった大学院生プライヤー君が拘留される事件が起き、それならばプライヤーも同時に取り戻そうと、アベル:パワーズ+プライヤーの1対2の交渉にしてしまう。しかも、パワーズ奪還作戦の責任者がプライヤーを何度切り捨てようとしても、絶対にドノヴァンは諦めないし妥協しないのです。これがスゴイ。

 普通の精神力の人間なら、軍人を取り戻すことの方が大事、国のためなら学生一人くらい犠牲になっても仕方がない、と思っても不思議じゃない。でもドノヴァンは違う。考えても実行できない人間が多いのに、ドノヴァンは考えた通りに実行しようとするし、実際にやり通してしまうのだから、このタフさには感動を覚えます。


◆オールAだけどA+は1コもない映画

 とはいえ、本作の見どころは、ほとんどそこだけ、、、と言っても良いくらい、あとはグッとくるところのない平板な印象でした。

 いや、とてもよく練られた脚本だし、無駄のない描写で、良い映画だとは思うのです。思うんですが、見終わって胸に迫るものもないし、もう一度見たいシーンもないし、まあ、正直見終わった後の率直な心の声は、“へぇ~、、、”でした。そんな話があったんだ、そんな弁護士がいたんだ、、、、という、へぇ~、です。

 つまり、映画で見なくても、NHKの海外ドキュメンタリー番組とかを見終わったときと同じ感じ。映画を見たはずなのに、それも一流のキャストに一流のスタッフによる、、、。

 別に無理矢理、感動作に仕立て上げる必要もないと思うし、淡々とした描写の映画でも感動させられる作品はイロイロあるのに、どうしてなのか。

 まあ、強いて理由を探せば、あまりにもスピルバーグが手練れだから、ってことかも知れません。敢えて難癖をつけるところもない、けれども、殊更印象に残るところもない、みたいな。

 クラシック音楽のレコードでいう“カラヤン+BPO”と同じかも。初めての曲を聴くなら、とりあえず“カラヤン+BPO”版にしとけ、と言われる。確かにハズレはないけど、他の個性的な演奏を聴いて耳が肥えてくると、ものすごくツマラナイ演奏に聞こえる、、、。

 記憶に残らないほどじゃないけど、印象には残らない映画だよね、正直なところ。見ている間は、面白いと思うけれど。






“ドノヴァン”=ヴァンパイア・ハンターなんだよなぁ、私には、、、。




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フランス組曲(2014年)

2016-07-22 | 【ふ】



 第二次大戦下、ドイツに占領されたフランス。中部の町ビュシーには、パリから避難民が殺到する中、ドイツ軍が駐留することに。町一番の豪邸には、出征した夫を待つリュシル(ミシェル・ウィリアムズ)が、気位の高い姑(クリスティン・スコット・トーマス)とともに暮らしていた。そこにドイツ軍中尉ブルーノ(マティアス・スーナールツ)が滞在することになる。

 ブルーノは、リュシルや姑に紳士的に接し、また、軍人になる前は作曲家だったと言い、リュシルの家にあるピアノを奏でることもあった。時折り聞こえてくるブルーノの弾くピアノの音に聞き入るリュシル。こうして、2人は次第に惹かれ合っていくのだが、、、。

 原作は、アウシュヴィッツで亡くなった作家イレーヌ・ネミロフスキーの未完の遺稿で、戦後60年を経てベストセラーになったとか。未完だったせいか、ラストはかなり??な展開なのが残念。

 

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 劇場公開中に行けずじまい、、、。やっとこさ、DVDで鑑賞しました。


◆“ロミジュリ”の発展系のオハナシ

 国と国とが敵対する関係でありながら、男女が互いに惹かれ合う……というわけで、これはスケールの大きい「ロミオとジュリエット」と言えましょう。悲恋の定番です。しかも、本作はリュシルが人妻ですから、さらに“不倫”要素が加わります。

 まあ、不倫といっても、リュシルの場合、夫が出征したのは結婚して間もないようですし、そもそも、よく知りもしない男と死を目前にした実父の言うままに結婚したということで、夫婦間の愛情以前に、2人の関係がそもそもちゃんとできていない状況で放り出され、宙ぶらりんの状況だったわけで、これは夫以外の男を好きになるなと言う方がムリな話です。

 なので、戦地にいる夫は、リュシルにとって、というか本作ではあまり枷にはならないですよねぇ。その代り、枷になるのが、こわーい姑です。あとは何といっても最大の枷が、惹かれる相手の属性(憎き敵国の軍人)。枷が大きいほど恋は燃え上がるものです。

 もし、日本が、例えば中国かロシアに占領されてしまって、中国かロシアの軍人が我が家に滞在したら、、、。その軍人はなかなかのイケメンで紳士的、なおかつ知的。こわい姑が目を光らせてはいるけど、戦地にいる夫に対する思い入れは希薄で、来る日も来る日もそのイケメン軍人が家の中をウロウロしていたら、、、。しかも、向こうもこちらに気がある様子。……ということを妄想してみましたが、やっぱり、夫への愛情の度合いで、答えはゼンゼン変わってくるだろうな、と思いました。夫を愛していれば、イケメンだろうが知的だろうが、恐らく眼中に入ってこない。でも、夫に対して愛情がほとんどなく、なおかつ、夫と正反対のタイプの軍人だったら、、、、これはリュシルの気持ちが分かっちゃうかもですねぇ。

 おまけに、本作では、夫には、実はリュシルと結婚する前から愛人がおり、子どもまでいたと途中で分かっちゃう。しかも、姑も公認だったという、、、。これで、リュシルの心のブレーキは外れましたねぇ。自分も好きじゃないのに、そいつに前々から愛人がいたんなら、貞節を守るのバカバカしいと思うでしょ、そりゃ。ブルーノに一気に傾くのもむべなるかな、という感じです。

 なんというか、こういうリュシルの心の動きに説得力を持たせている構成がニクいなぁ、と思います。


◆サイドストーリーも良い

 ただ、本作は、2人の悲恋がメインストーリーのはずなんですが、これは割と薄味で、むしろ、サイドストーリーである、サム・ライリー演じる小作人夫婦の話の方がインパクトが強いです。

 ブノワ(サム・ライリー)は、貧しい小作農で、その家にはブルーノの部下ボネ中尉が滞在しているのですが、このボネが、まあ、かなりのイヤなヤツで。ブノワの奥さんマドレーヌに乱暴しようとし、ブノワに殺されちゃうんですが、ここから、話が一気に緊迫します。ブノワを捜索するドイツ軍、匿うリュシルと姑、密告する町長夫人と、それぞれの思惑が交錯する。

 特に、町長夫人が密告したことで、結果的に、ブノワが見つからないのは町長の責任とされてドイツ軍によって銃殺刑に処せられるという展開は、恐ろしくてゾッとしました。しかも銃殺の現場で指揮を執ったのはブルーノです。、、、この町長夫妻も貴族の出で気位が高く、夫人が密告したのも、ドイツ軍に優遇してもらうためだったのですが、裏目に出ちゃうという皮肉。こういう、生死が紙一重という出来事が、実際にも多々あったのだろうなと思わせるエピソードです。

 こういった、サイドストーリーが厚いので、じゃあ、メインストーリーがぼやけているかと言うと、終盤まではそんなことはありません。リュシルとブルーノは、戦争がなければ出会わなかっただろうけど、戦争があったから決して成就しない恋、でもあります。つまり、2人の恋は、戦争の上に成り立っているということ。この恋が成就してしまうことは、やはり、あり得ないのです。

 あり得ないという結論は分かっていても、終盤の展開は、ちょっといただけない。


◆未完の原作ゆえの終盤か

 リュシルと姑に匿ってもらっていたブノワは、自ら「パリに行く」と言い、リュシルが「じゃあ私が連れて行く」と、ブルーノに通行許可証をもらって検問を突破しようとしますが、あることからリュシルを怪しいと勘付いていたブルーノの部下の機転により、検問でブノワが見つかってしまう。でも、ブノワが拳銃で大立ち回りを演じ、そこへ、部下の言葉でリュシルの身が危ないと直感したブルーノが1人オートバイに乗って駆け付ける、、、。検問所のドイツ兵は皆死に、ブノワを乗せた車を運転して走り去るリュシルを、ブルーノは黙って見逃す、、、。そこへ、「彼はその後亡くなったと聞いた」というリュシルのナレーション。

 、、、うーん。これは、どうなんでしょうか。私は、検問でリュシルもブノワも捕まり、収容所で、看守と収容者としてブルーノとリュシルが一瞬だけすれ違う、、、みたいな展開の方が良かったかな、という気がするんですけれども。

 ブルーノは、なんだかんだ言っても、やはり無茶なことをやってしまう破天荒さはないので、いかにリュシルを愛していたと言っても、愛が勝ってしまうことはないと思います。まあ、本作の展開でも愛が勝つ訳じゃないんだけど、なーんか、ものすごい中途半端な感じ。だったら、ブルーノは飽くまで軍人として生き、リュシルを愛で救うことは出来なかった、とした方が、悲惨ですけど腑に落ちます。

 原作がどこまで書かれていたのか分からないんですが、ブノワが匿われていたところ辺りまででしょうか。もし、原作者が最後まで書いていたら、どんな展開になったのでしょう。私は、飽くまで救いのない悲惨な話になっていたように思うんですけど。
 

◆その他モロモロ

 クリスティン・スコット・トーマスが出ているのは知っていたんですが、あの姑が彼女だと認識するのに少々時間がかかりました。老けたとかというより、化粧と髪型のせいだと思いますが、一瞬、ジェレミー・アイアンズが女装したのかと思っちゃいました。まあ、相変わらずの貫録で圧倒していましたが。特に、ブノワを匿うときの彼女は、キリッとして腹を括る感じがよく出ていて素敵でした。

 ミシェル・ウィリアムズは、すごい美人、というわけじゃないけど、何となくはかなげでリュシルによく合っていたと思います。終盤、ブルーノとの恋を吹っ切ろうとする強さを見せるところも好演でした。

 ブルーノを演じたマティアス・スーナールツは、私的にはあまり好みの顔じゃないんですが、気の優しいイイ男にうまくハマっていたと思います。あんなステキな人が身近にいたら、そら、クラッと来ますね。

 一番存在感があったのは、ブノワを演じた、サム・ライリーかも。顔が小さくて長身で、何か、ちょっと小作農っていう感じじゃなかったけど。
 



 



原作を読んでみたくなりました。




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フランシス・ハ(2012年)

2016-06-14 | 【ふ】



 アラサーの、美人だけどゴツくて非モテの独身女フランシス。親友のソフィーとNY・ブルックリンのアパートでルームシェアをしていて、プロのダンサーを目指している。

 ある日、フランシスは彼氏に同棲しようと言われるがソフィーがいるからと、あっさり断る。しかし、その直後に、ソフィーからルームシェアの解消を告げられる。前から住みたかった地区に掘り出し物の部屋が見つかり、他の女友達と一緒に住むことにしたからだという理由で。

 おまけに、ダンサーとしてもほぼプロの道が閉ざされる事態となり、フランシスは失意の中、故郷サクラメントに帰ってクリスマスを過ごし、パリにも2泊3日の一人旅に出掛ける。旅を終えてNYに戻ってきたフランシスの自分探しの結果は、これいかに。
 

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 劇場に、見に行こうかなー、どうしようっかなー、と思っているうちに終映となり、今ごろDVDを見ました。つまり、ちょっと気にはなるけどそこまでそそられなかったということなんだけど、まあ、やはりDVD鑑賞で十分だったかな、というのが正直なところです。


◆残念なフランシスちゃん

 無駄のないトントン拍子の人生劇を見せられてもつまらない。かといって、いまさらアラサー女の自分探しモノもなぁ、、、。自分探しは大いに結構なんだが、私はこのフランシスさん、ゼンゼン共感できなかった……というより、嫌いかも。

 そもそも27歳の女が、その年齢でプロのダンサーを目指している、、、という点にかなり違和感が。これが、ダンサーじゃなくて、物書きとか、絵描きとか、学者とかなら感じなかったと思う。身体能力的に言って、27歳ならもう、とっくにプロになる人はなっている年齢なわけで、そこをその歳まで自分で見極められない、見極めようとしない人っていうのは、ちょっとどーなの? と正直思う。その時点でプロになるレベルのセンスがもともとないのでは、、、というのは言い過ぎなのかな。

 そりゃ、夢を実現するのに年齢は関係ない、とはよく言うけれど、そこには暗黙の前提というものがあって、実際、フランシスにはダンサーとしての未来はないと、カンパニーの主催者に断言されているわけで、、、。ダンサーを諦めるか否か、を選択するには5年くらい遅い気がするんだよね。

 映画やドラマとして、自分探しモノが見るに堪えるのは、おそらく、その本人が自分ときちんと向き合う努力をしている場合に限定される気がするんだよなぁ。

 フランシスを嫌いだと思った理由は、まさにそこなわけです。彼女は、美人で性格も悪くはないけれど、いかんせん、ちょっと頭がよろしくないのでは。

 ソフィーとのルームシェアを解消した後、彼女は男女関係なく友人の家を泊まり歩くのですが、そこで集った人々に思いっきりKYな発言をしたり、明らかに見栄を張っていると分かる強がり(や嘘)を言ったり、、、。最初は、彼女が自分の境遇に折り合いをつけられない反動で、そういう言動に出てしまっているのかなぁ、と思って見ていましたが、どうも違うのです。これ、彼女の地のキャラなのです、多分。それってつまり、、、バカ、ってことじゃない?

 努力しているけれども報われない、頑張っているけれど空回り、、、そういうことはよくあるし、自分探しモノにつきものだけど、フランシスは努力しているようにも頑張っているようにも見えない。ただただ現実に流されているだけ、のくせに、現実を受け入れられない。私は、こういう人の話を敢えて見せられるの、イヤなのよね。だって、スクリーンで見なくてもリアルでその辺にいますから。

 イヤなら見るな、ってことだけど、見る前にそこまで分からないこともよくあるわけで、、、。と一応、言い訳しておきます。


◆そこに“愛”はあるのか?

 本作を見て感じたんですが、こういうアラサーでモラトリアムっている、特に女子に対して制作サイドは固定観念があるんじゃないですかね? そしてその固定観念は、何も本作の制作だけに限らない、割と世間一般的なモノのようにも思うのです。

 どんな固定観念か、というと、、、ものすご~く乱暴なまとめ方をしちゃうと、「イイ歳して自分探ししているヤツらは、現状分析の出来ないバカどもだ」というもの。現状分析=自己分析でもOK。自分を客観視できないヤツら、みたいな。だから、フランシスの人物造形がああなるんではないかしらん。

 なんというか、フランシスというヒロインに対する愛が感じられない作品なんです。愛はないくせに思い込みはある、というか。愛があれば突き放した描き方もできると思うけれども、本作は、とことんフランシスに甘い。彼女の置かれた状況は甘くないですよ。でも、とことんまで追い詰められていない気がするんだよなぁ。現実の厳しさって、こんなもんじゃない気がするのです。

 もっと言っちゃうと、制作サイドの“上から目線”ね。とことんヒロインを追い詰めて、自力で這い上がらせていないところがね。どこからともなく救いの手が差し伸べられる、なんて愛がないなぁ、、、。フランシスにはそんな自力さえない、と勝手に決め付けているかのよう。終盤なんか、甘すぎなんじゃ? ご都合主義っぽくないか? これでは、自分探しにもなっていないと思うんですけど、、、。

 ……というのは、かなりひねくれた見方だというのは承知の上ですし、別に、こういう作品はもっと軽~い気持ちで見て、サラッと流せば良いのです。でも、なーんか、見ていて気分悪くなったのです、私。だから文句を言いたくなってしまったのでした。

 巷ではわりかし評判良いみたいですし、私の感性がねじくれているのは自覚しておりますので、本作がお好きな方に不快な思いをさせてしまっていたらすみません。


◆その他モロモロ

 フランシスを演じたグレタ・ガーウィグは、確かにゴツいけれど、意志の強そうな美女です。ちょっと、フランシスの役のイメージとはズレている感じもなくはないですが、彼女が走っているいくつかのシーンは素敵です。全編モノクロなのも、かろうじて最後まで見ることが出来た要因かも。音楽もgoo。

 ちなみに、このヘンテコリンなタイトルの意味は、ラストシーンで分かります。








自分探しモノなのに、探す前に答え出しちゃってあげてる。




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フレンチアルプスで起きたこと(2014年)

2016-04-07 | 【ふ】



 フランスのスキーリゾート地にバカンスにやって来たスウェーデン人一家。若いトマスとエヴァ夫婦、それに娘のヴェラと息子のハリー。理想の家族を絵に描いたような家族写真をゲレンデで撮ったり、4人仲良く滑ったりして1日目を楽しく無事過ごす。

 問題は2日目に起きる。一家が最高の眺めのテラスで楽しく食事中、スキー場が人為的に起こした雪崩が、予想外に大きくなり、テラスに迫って来た。大丈夫だと余裕を見せていたトマスだったけれども、いよいよ雪崩が迫って来たら、なんと、スマホを鷲掴みにして逃げ出した。テーブル席に置き去りにされたエヴァと子どもたち、、、。

 幸い、テラスには雪煙が真っ白に覆っただけで実害は何もなかったが、雪煙が晴れて、回りも落ち着きだしたところへ、テーブル席にトマスが戻って来た。雪崩の前とは雰囲気が一変していた。

 ……楽しいはずのバカンスが一転、夫婦崩壊、家族崩壊の危機に瀕することになる。
 
  
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 昨夏公開時に、劇場に見に行けなくて、DVDにて鑑賞。

 夫婦に限らず、人間関係ってのは、非常事態に遭遇したときにその真価が試されるものだと思いますが、本作でこの一家が出会ってしまったのは、実際は、非常事態というほどのものですらなかったんだけど、図らずも夫orお父さんの正体が露呈しちゃった、という、シャレにならない話です。

 ネット評では、トマスが夫でお父さんだから、つまり男であるから、逃げたことを責められるのだ、という論調が多かったような。女子どもが逃げても責められない、とか。そーでしょうか?? 確かに子どもが逃げても責められないでしょう。でも仮に、エヴァがトマスと同じ行動をしていたら、やっぱり「母親のくせに何だ」「子どもほったらかしてそれでも母親か」と非難轟轟だったはずです。これ、男も女も関係ないと思いました。ここで、男だ女だを言うのはナンセンスでしょう。

 トマスがもし、隣に座っていた息子を抱えて逃げていたら、事態は大きく違っていたでしょうねぇ。エヴァも娘のヴェラも、夫orお父さんに失望しなかったと思います。だって、子ども2人は夫婦がそれぞれ1人ずつ守るという発想の下の行動だと説明がつくわけですからね。

 正直、自分だったらどうするだろうかと考えちゃいました。子どもがいたら、まあやっぱり、子どもを守らねば、、、とか思うんでしょうか。私には子どもがおりませんので実感としては分かりませんが。でも、甥っこや姪っこがヴェラやハリーくらいの年齢だった頃は、この子たちの両親に何かあれば、私が守らねば!! などと勝手に思っていたことはあります。子どもって、そういうふうに思わせる何かがあるんだよなぁ、きっと。

 でも、子どもがいない夫婦2人の場合だったら……? 正直、私は、相手を守ろうなどと考えずに、一人で避難しちゃうかも。だって、お互いイイ歳の大人なんだし、、、。その代り、別に相手に対して、アンタは男なんだから女のアタシを守ってよ、とも思わない気がする。少なくとも、今は思っていない、ゼンゼン。そしてアイツはどーするだろうか、、、と考えたけれども、アイツも勝手に逃げるんじゃないかな。で、お互い勝手に逃げてから、あれ、アイツどーした? 何で逃げねーんだよ、バカ!! って感じじゃないだろうか。そのままはぐれちゃうかもだよね、、、。別に彼を信頼していないわけじゃない、けれども、アタシもアタシだからなぁ、、、。そんな自己犠牲の精神を互いに相手に対して抱いている関係とは、到底言えません。

 そもそも、男は女を守るべし、というのは、女の勝手な理想の押しつけであって、そんなこと男は望まれたって応えられるわけないんだよ。確かに、男の方が腕力は勝っているだろうけど、持久力と精神力は、多分女の方が遥かに強い。「男は度胸、女は愛嬌」って言葉がありますが、あれは、男には度胸が、女には愛嬌がそもそも欠如しているから心しなさいよ、という意味だと思うんですよね~。男性自身も、そういった“マッチョ信仰”に過剰に囚われている部分もあるかも知れませんしね。マチズモなんて「バカの代名詞」だと、大分、世間でも認識が浸透してきている昨今ではありますが、、、。いずれにしても、男性性や女性性に対する妄想は、お互いに捨て去る方が幸せです。

 エヴァがトマスを執拗に責めたのは、トマスの男性性の欠如に失望したからでしょうか。、、、まあ、それもあるかも知れませんが、やはり、家族の一員であるにもかかわらず、家族より自身を最優先した、という事実にエヴァは打ちのめされたのだと思います。もし、子どもがいなくて、トマスとエヴァ2人だけのシチュエーションで同じことが起き、エヴァがねちねちトマスを責めたら、エヴァにはゼンゼン同情できなかっただろうなぁ……。本作の場合、子どもがいるし、2人ともまだ小さいからね、余計にそう思うよね。

 とはいえ、エヴァにもあまり共感は出来ないのです。トマスをネチネチ責めるから、というのではなく、結構この女性は「形から入るタイプ」に見えるのです。いろんなことに対して自分の理想とする形があって、そこにハマっていないと欲求不満になる。こういう人は、自分と向き合うのが苦手で、物事が上手く行っている時は良いけれど、何か歯車が狂いだすと、それを人のせいにする傾向があると思うのよね。個人的にちょっと苦手なタイプです。

 一番かわいそうなのは、まあ、子どもたちでしょうか。折角の楽しいバカンスなのに、両親は不穏な雰囲気、部屋中に緊張感が充満していて、子どもはこういうのに非常に敏感ですから。

 中盤、夫婦は一芝居うって、子どもたちを安心させて、夫婦仲も修復されてめでたしめでたし、、、。と思いきや、終盤でまた一波乱ありました。あれをどう解釈するか。

 それまでもエヴァにあまり共感できなかった(といって、トマスに同情的でもなかったけど)のですが、あのラストの彼女の行動で、やっぱりこの人イヤだわ~、と思っちゃいました。バスから真っ先に降りたのもいただけないといえばいただけないけど、息子を友人カップルの男に抱っこさせたのがイヤでしたね。なぜ自分で抱っこしないのか。

 結局、人間って勝手な生き物なんだな、ということを改めて認識しました。エヴァもトマスも、似たもの夫婦です。勝手な生き物のくせに、自覚がない。自己犠牲の下に親をやっていると勘違いしている。せめて自覚しろよ、と思う。

 バスから降りずに乗って行った女性が、一番共感できたかも。彼女は、自らの勝手さを自覚していて、自覚しているからこそ自制もできる人なのよね。自覚のない奴は何であれ、ホントに扱いがメンドクサイ。

 ところで、本作は、夫婦の危機ということで『ゴーン・ガール』が引き合いに出されているようですが、個人的にはゼンゼン違うと思うんだけど、、、。本作の方が、よほど意地が悪いし捻りが効いています。まあ、マッチョ映画といえば、どちらもマッチョ映画かも知れませんけれど。そういう意味では、マチズモ思想って不滅かもですね。ゾンビみたいだわ




ヴィヴァルディの音楽が効いています。




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FRANK フランク(2014年)

2015-11-17 | 【ふ】



 いつかは売れっ子ミュージシャンになることを夢見ているジョン(ドーナル・グリーソン)。ある日、行きがかり上、あるバンドの自殺未遂したメンバーの代理を務めることになったジョンは、そこで素晴らしい才能を持ったバンドリーダーのフランクに出会う。

 が、このフランク、精神的な疾患(?)から、いかなる時も素顔をさらすことが出来ずに、妙なハリボテの被り物をしているのだった。バンドのメンバーでさえ、彼の素顔を見たことがないという。

 そのバンド、レコーディングにのための合宿(?)に、ジョンを代理のまま連れて行く。ジョンが入ってきたことで、それまで保たれてきたバンドのバランスが崩壊し始める。そして、遂に、フランクは、名実ともに壊れてしまう。

 うーーん、正直、こういうのは苦手。 

 
 
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 もうね、お分かりだと思いますが、フランクを始め、バンドメンバーは皆、メンタルに問題を抱えた人ばかりです。バンド自体が病んでいるのです。当然、奏でる音楽も、何だかなぁ、、、というものばかり。正直、このバンドの音楽で、唯一聴けたのはラストの音楽だけでした、私は。後はもう、良さがさっぱり分からない。

 ジョンは夢はあるけど才能がまるでナシ男くんなんです。でも、彼は精神的には健全というか、いわゆる常識人、フツーにイイ人。一方、フランクは、大それた夢なんか持っていないけど才能は一応ある。飽くまでも“一応”ね。世間を見渡せばフランク程度の才人は掃いて捨てるほどいるんだけれど、ジョンにはフランクはちょっと眩しく映る。バンドメンバーからも、フランクは一目置かれている。

 言ってみれば、このバンドは、もの凄く“閉じたバンド”なんです。精神的に病んだ人たちが自分たちの世界に引きこもって、自己完結しているグループ。

 そんなところへ、常識人で悪意なきイイ人であるジョンが闖入してしまったものだから、ちょっとヤバいことに。

 閉じたバンドで満足していたのに、ジョンがマトモに「売れること」を考えてあれこれ提案したり、才能もないのに自作曲を披露したり、、、。バンドメンバーにしてみりゃ、ウザいことこの上ないでしょうねぇ、、、。こういう悪意なく人を不快にさせるイイ人って、いるもんなぁ。まあ、一種のKYでしょう。

 でも、ジョンからしてみれば、このバンドの人たちこそ“おかしい”わけです。なぜもっと、表現者として表現者らしく他者に働き掛けないのか? という“アタリマエ”な疑問を抱き、それをちゃんと深く考えもせずに、“これじゃダメでしょ。もっとアピールしなきゃ、もっとウケる音楽作らなきゃ”と勝手に結論を出して、バンドメンバーに熱く訴える。だって、そーでしょ? フツー、売れること考えるでしょ? 何でアンタらそんな自己マンなことしてんの? 、、、てな感じじゃないでしょうかね、ジョンの本心は。本気で疑問に思って、本気でバンドを改革しようとしているのです。

 途中、合宿中に、曲が出来上がって皆が盛り上がった翌朝に、バンドメンバーの1人が自殺しちゃうんですよねぇ。ドンという名前の男の人。このドンが、そもそもジョンをバンドに誘ったんですけれど。しかも、ドンは、フランクの被り物を被って首吊ってるんです(どうやら、フランクの被り物は複数あるみたい)。だから、最初は、フランクが自殺しちゃったのか!? と観客も驚いちゃうんですが、、、。でも、ドンが自殺した理由はイマイチ分からない。おまけに、ドンを勝手に火葬しちゃうんですよ、この人たち。それって、死体遺棄で犯罪じゃないのか・・・?

 それはともかく、なんと、悪いことに、フランク自らが、ジョンの影響を受けて、閉じた世界を自ら壊してしまうのですね。バンドが世間に認知されることを夢見てしまうのです。でも、、、、そんなの広い世界じゃ虫けらみたいなもんだと思い知らされるだけ。結局、自分に跳ね返って来てしまう。フランク自身、被り物が壊れて、逃げ出してしまうことに、、、。

 終盤、被り物を外したフランク(マイケル・ファスベンダー)が、ちりぢりになったバンドメンバーの下へ戻ってきて、イカレた歌を絶叫するんですが、、、。ここでようやく、ジョンは、自分のやっていたことがお門違いも甚だしかったことを思い知り、そっと皆の所から去って行くわけですね。

 まあ、フランクは、思いがけない外的要因で、被り物を脱ぐハメになったんですが、それで結局、殻を破ったことにはなっていないのでしょうね、多分。別に、殻を破る必要はないだろうし、ああいう、閉じた世界で自己完結していることが悪いとも思いません。でも、なんか、私は本作はダメでした。

 まず、2人も自殺(or自殺未遂)する、っていうシナリオが、、、。それも、何が理由かよく分からない自殺です。私、自殺はどうしても生理的に受け入れられないものがありまして、、、。病んだ人たちの閉じたバンド、ってことで、こういうシナリオならちょっと安易すぎる気がするんですよねぇ。

 そして、最大のネガポイントは、フランクその人の人物造形です。被っちゃった原因がハッキリしないのは、まあよしとして、なんというか、被っているときのフランクの性格は、ものすごく尊大&不遜な感じで、被り物の顔がさらにそれを増幅しているように見え、こう言っちゃなんですが、私はあの顔のハリボテを蹴っ飛ばしてやりたくなったのです。フランクの病気がどういうものかハッキリ分からないけど、「てめぇ、甘えてんじゃねえ~~!!」とね。

 多分、それって一番こういう人たちに言っちゃいけない言葉だと思います。

 しかし、フランクは、自分の顔を晒すのが怖い代わりに、あのハリボテを被り、皆の注目を浴びるのは、むしろ快感だったのではないでしょうか。つまり、あのハリボテは、彼の自己顕示欲そのもの、ということです。自己顕示欲を隠そうともしないのは、ある意味、正直で結構ですが、裏を返せば駄々をこねて周囲を困惑させているだけのオコチャマだ、ってことです。

 ちょっと前に、春日武彦の「自己愛な人たち」という本を読んだんですけど、もう、まさにフランクそのもの。自己愛のない人などいませんが、あり過ぎると病気になります。自己愛の塊が、あのハリボテなわけです。途中からもう、だんだん見ていて恥ずかしいやら、いたたまれないやら、、、って感じになってしまいました。

 大体、被り物のせいで流動食しか摂れない男が、何であんなにイイ身体してんのさ。筋肉ムキムキで、おかしくないか? 筋トレしているシーンもあったけど、もしあれが流動食+筋トレの賜物だとしたら、やっぱりフランクは自己愛廚なオコチャマオヤジってことで決定です。

 、、、しかし! な、なんと、、、本作を見終わった後に、ネットで、本作をハルキーが絶賛しているとの記事を見つけまして、つくづく、私は村上春樹とは相性が悪いと改めて思いました。別に私の感性との相性が悪かろうが、彼にとっては屁でもないわけで、どーでも良いんですけど。まあ、彼の小説も、自己愛の塊だもんなぁ、、、。

 最後に、春日氏の本の一部から、、、。

 ~~~自己愛は呆れるばかりに強固であると同時に不安定で、日光を浴びたドラキュラのように脆くもあり、また、身体の一部を切り取られても再生するプラナリアのように「したたか」でもある~~~by春日武彦『自己愛な人たち』(講談社現代新書)より抜粋。





自己愛、、、この厄介なるもの。




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ファントム オブ パラダイス(1974年)

2015-11-03 | 【ふ】



 見た目は冴えないオタク系だが才能はあるウィンスロー(ウィリアム・フィンレイ)は、自分の曲を売り込もうとしてライブハウスで歌っていたところ、伝説的プロデューサーとして名声を確立しているスワン(ポール・ウィリアムス)の目に留まる。そして、まるで悪の化身かのようなスワンに曲だけ奪われ、騙され、刑務所送りにされてしまうウィンスロー。

 服役中にスワンが自分の曲をスワンの名で世に出そうとしていることを知り、狂ったように脱獄するウィンスローは、その足でスワンの経営するレコード会社に乗り込み曲を奪い返そうとするが、不運な事故に遭い、顔と声を潰される。

 その後、仮面をつけたウィンスローはファントムとなって、スワンに復讐をしようとするのだが、スワンに正式な契約を結ぼうと持ち掛けられる。その契約は、もちろん正式でも何でもなく、ウィンスローをさらなる地獄へ落とすものであった。スワンはどこまでも悪魔だったのだ。

 果たしてウィンスローの無念は報われるのか、、、?

 
 
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 大分前に何気なく録画してあったものを、何の予備知識もなく見ました。いや~、なんだかエラいもんを見てしまった、という感じです。

 デ・パルマ作品は、そんなに数は見ていないけれど、見たものはどれもそれなりに好きです。本作も、まあ、ノリはあんまし好きって感じじゃないけど、なんか見始めたら目が離せなくなっちゃいました。

 本作の一番の見どころはウィンスローを演じた、ウィリアム・フィンレイでしょう。特に、仮面をつけた後の片目だけの演技は凄まじい。キモいし、こ、、、コワい。対するポール・ウィリアムスもキモさでいけば、かなりのもんです。この2人の醜い闘いが、毒々しい描写で終始描かれるという、、、。

 タイトルからもお分かりの通り、前半は、「オペラ座の怪人」の、ブラックパロディというところでしょうか。合間に「ファウスト」が挟み込まれ、終盤は「ドリアン・グレイの肖像」がモチーフになっているみたいです。スワンの顔が溶けていく終盤は、キモいというより、笑えます。

 、、、こういう、ウィンスローみたいな才能はあるけれど、押し出しが悪くて損する人って、実際ショウビズの世界には多々いるだろうな、と思われます。才能がなくても見た目の良さだけでどうにかなっちゃっている人もいるわけで、ウィンスロー型人間から見れば、そういう人たちは許せん存在かも知れません。でもまあ、音楽について言えば、ルックスがイマイチでも音楽の才能だけで評価される人も大勢いるし、やはり、出会いを含めて運ですかねぇ、、、。

 そういう意味では、ウィンスローは、とことん運に見放され、、、どころか、邪悪な人間の餌食になって才能を食い潰されるという、不条理極まりない成り行きです。そら、ファントムになってでも、不条理を正したい、と執念を燃やすのも分かります。

 プロデューサーっていうと、パッと思い浮かぶのが、秋元康という名前なんだけど、秋元さんがスワンみたいな悪魔とは思いませんが、やはり剛腕プロデューサーってのは、どこかでかなりアーティストに厳しいこと迫って追い込んでいるとは思うんですよね。かつてのおニャン子しかり、AKBしかり、アイドルは消耗品、と割り切っているとしか思えないそのやり方とか、、、。どうしても、私は彼のプロデュースするアイドルたちを好意的に見られないのです。というか、ちょっと可哀想とさえ思ってしまうというか。だから、スワンを見ていて、秋元さんの顔が浮かんじゃってどうしようもなかったです

 ウィンスローのミューズ、フェニックスを演じたジェシカ・ハーパー、可愛いし、歌も素晴らしい。口パクには見えませんでしたが、どうなんでしょう。冒頭のウィンスローが歌っているシーンはどう見ても口パクでしたが、、、。フェニックスの低めのアンニュイな声は、ウィンスローの曲にピッタリです。この歌のシーンもグッとくる要素の一つです。

 2人の壮絶(?)な闘いは悲惨な結果になるのですが、さらに、そこへラストに流れる曲の歌詞が、「才能がないなら死んじまえ」とか「生きていたって負け犬」とか、、、まさにトドメを刺すわけで、ここまでくると笑っちゃいます。

 初期の作品らしく、粗っぽいけどぶっ飛んでいて、エネルギーが炸裂していて、見ている者を圧倒するパワーがあります。本作に比べれば、『アンタッチャブル』なんてすんごいフツーの映画ですよね、マジで。

 私としては、まぁそこまでではなかったんですけれど、、、熱狂的なファンがいるというのも納得の作品であります。






スワンは、マモーのモデルだって。道理で似ている訳だ。




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不機嫌なママにメルシィ!(2013年)

2015-09-18 | 【ふ】



 ギヨームは、フランスの裕福な家庭ガリエンヌ家3人兄弟の末っ子。このギヨーム、母親に、上の兄2人とは明らかに違う扱いを受けている。差別とかというよりは、ちょっと女の子みたいな扱い……? 何しろ、母親が子どもたちを呼ぶときは「男の子たちとギヨーム!」なのである。だから、ギヨーム自身も、自分はもしかしてゲイなのか? と思うようになる。

 一方の父親は、ギヨームに男らしくあってほしいと願っている。レスリングとかサッカーをやってほしいと思っている。なので、ここは一発、荒療治! と思ったのか、イギリスの全寮制男子校にギヨームを放り込む。が、しかし、ここでギヨームの個性は逆に開花することに、、、。自由平等博愛のおフランスよりも、伝統階級社会イギリスの方が、ゲイに寛容だった!!

 監督・主演ギヨーム・ガリエンヌの自伝的映画。まあ、自分探しモノです。結末がちょっと、え?な感じですが。

 
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 『イヴ・サンローラン』で、ピエール・ニネとの濃厚ラブシーンを演じていたギヨーム・ガリエンヌが、1人二役(ギヨーム&お母さん)というので面白そうかな、と思って見たんだけど、、、。正直、イマイチでした。

 まず、内容云々の前に、このギヨーム・ガリエンヌさんの頭髪が天パーなのかくりんくりんで、しかも丸顔ぽっちゃり体形ってことで、なんか、脳科学者の茂木健一郎さんに見えちゃって、もうダメでした。そっくりなんだもん。

 ギヨーム・ガリエンヌさん本人が、本人を演じておられるわけですが、高校生(?)の本人を演じていて、さすがにちょっと無理があるというか、一人だけ老けてて浮いているというか。元は舞台劇ということなので、舞台なら実年齢とか多分あんまし気にならないんだろうけど、映像はちょっとキツイかな。

 正直、どうも作品にあまり入れなくて、細部を覚えていないのですよ。数日前に見たばかりなのに。見ている間も、何度も睡魔に襲われたし。

 何でかなぁと考えてみたんですけど、、、。別に、ナルシシズム全開でもないし、家族の描写とかもそこそこ面白いし、音楽も結構楽しいし、、、とこき下ろす要素は見当たらないんですよね~。なのに、なぜか退屈。

 ギヨームとそのお母さんの関係にスポットを当てつつ、ギヨームの自分探しを追うんだけれども、「オレってゲイなの?」というのが終始一貫、ギヨーム君の中には、恐れみたいな感じであって、自分でも受け入れつつあるんだけど、でも違和感はつきまとう、、、。確かに、ゲイか否かというのは、アイデンティティに大きく関わる問題なので、本人にとってはものすごく重大問題だったのは分かりますが、それにちょっとメルヘン調というか夢物語調なテイストを加えて、捏ね繰り回している様を延々やられても、、、。

 公式HPとかにあるような爆笑とか、私はまったくなかったなぁ。ギヨームが、ダイアン・クルーガー演じるナースに浣腸されてたシーンは、面白いというより、意味不明だったし。

 しかも、ラストは、美女と出会って、美女と恋愛関係になって結婚することになったから、「なーんだ、オレ、ゲイじゃなかったんだ! ヤッタ~!」みたいなノリのオチってどうなの? と。じゃ、いままでのあの延々悶々は何だったのサと。ゲイじゃなかったのは、それはそういう結果として自覚したことなので構わないんだけど、どうも、ゲイじゃなくてホッとした、良かった、的な雰囲気が支配的なのが気になるのです。

 もっと言っちゃうと、「何だ、オレ、マトモだったんだ~~!」みたいな感じに見える。結局、ゲイへの偏見をあんな風にコメディ仕立てのメルヘンチック劇画に見せてただけ? と、意地悪おばさんは突っ込みたくなってしまう。

 で、ゲイじゃなかったことをお母さんに報告すると、お母さんは複雑な反応を示すんです。つまり、ギヨームがゲイじゃなくてホッとした、んじゃないのね、お母さんは。で、それについてのギヨームの理由付けが「お母さんは、ぼくが女性を好きになることが嫌だったからだ」というもの。ん~~、実際そうだったのかも知れないけど、なんかそれも、ちょっと、、、。

 という具合に、ラストでかなり疑問が残る作品となりました。おフランスのエスプリなのかなんか知らないけど、どうも私はフランスもののコメディってダメなのが多い気がする。少なくとも、本作の笑いのセンスは、理解できませんでした、、、。

 ギヨーム・ガリエンヌのお母さんの演技は面白かったです。仕草とか物腰が女性そのもの。メイクも違和感なし。この辺りはさすがだな、と思いました。別にフォローするわけじゃないんだけど。






本作の主役は脳科学者の茂木健一郎氏ではありません。




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