平成18年に60歳を迎える。六十と縦に書くと傘に鍋蓋(亠)を載せた形である。で、「かさぶた(六十)日録」
かさぶた日録
東海道山すじ日記 17 結語(後)
東海道山すじ日記を今日で読み終える。昨日の書き込みの終りに「中村佛庵が大井川にて滞留の時に書きしもの」とあったのが、以下の内容である。
寛政後、松平越中守様御上京のふし(節)、大井川御渡りの節、河越しども賃銭の事、一人/\手取りに致すべきよし、仰せ付けられて、賃銭ことごとく御渡し候なり。それで不同なく賃銭を受け取りしと云う。
※ 松平越中守 - 松平定信。
その後、河越しどもの人数御改め、四百人と書き上げしを、十組に仰せ付けられ、諸大名通行なき時は、一組の人数、河に詰め置き、残り組ども、自分/\の稼ぎ致すべきよし。人数番の時は一番、二番、三番、次第/\に、諸家の渡り掛け御人数を計り、さし遣し置くべきとの事に成る。さればこそ、この十組、定まりしまゝ、非番の河越しどもは、あるいは商をなし、耕作をなして、渡世の頼りよし。
天明の頃までは、四百人の人足、一向に河にのみ懸り居り、渡人なき時にも、河役方に遊び居たりと云う。金谷の宿、千石に足らざる地にして、家数千軒程あり。皆遊び居て、諸大名渡りある時は、金銀を一度に儲くる事、常なれば、遊び居る事をも厭わず、田地も荒れ果てたりしけるに、かくの如く当番、非番の組を立てられしかば、河越しに出る者は出、出ざる者は作をなす。これによりて、始めの程は歎かわしきしが、当時にありては、暮らし良くなりて、却って昔、沢山に金銀を取りし時より豊かなり。
※ 一向に(いっこうに)- ひたすらに。
かゝる事は、実に越中守様の御恩なり。当所の河役などの者にても計り知り難き事を、かく御改め有りしが、実に神変不思議、神の君に乗り移りて、かくなり給いしことにやと、越中守様の御事を倍(ますます)実に有難く思い居ると、亭主弥七語れり。
その上、御状箱河越し役六人と定まり、瀬水は河越し十四人と定まり、都合二十人は河越し中の達者、功者成る者を撰みて定むることに成りぬ。その余の人数は、平河越といふ瀬子手の者も番を立て、日に三人ずつ川端に居て、もし流れ出の者有れば走り遣わし、助ける事に成れば、怪我あることなしと云う。
その前は諸大名御通りの節は、河留まりぬれば、諸家より河越しの先出入というありて、十里も先に迎えに出ては、渡りの用を聞く。六次(つぎ)、七次、大名の泊る時、河明けたれと云うに、一番越しの事を争い、金銭を厭わず、先に渡り越すを手柄とせり。
大井河の砂場に諸家の纏(まとい)を立て、幕打ちて、これは長州、これは細川誰々殿の渡り場と定めて、河明けに先をあらそう。誠に戦場の先を争うもかくあらんと思うと云う。さればこそ、諸家の供方側役せしめ、袖に金銭を入れ置きて、河越しの者どもに蒔き散らして与え、長州より五百文ませ、細川より八百文ます等、先を争う故、河越しどもは銭高の多き方に集まりしと言えり。下略。
※ 側役(そばやく)- 主君のそば近くに仕える役。また、その人。近侍。
かくの如くを越中守様の御明智、書中に見るばかりが如し。今は却って川越しの者も、暮し方よくなりしが、今これを船にして、山中の産物を船にて下げ、上せる米穀塩噌を船にて上せる様に成れば、この積問屋等、両宿へ出来、いかばかり日々人の川越しも、また渡世のなし安からん様に成るべしと、その改革、しばしの間なるべしと。
※ 塩噌(えんそ)- 塩と味噌。
この一巻を得てより、我々人情別して、切にぞなりぬ。今般の御維新の際等に、この事等改政あらずんば、いつの日か往来の者、この川支え、川越しの難を免る事を得、また川下、川上の者、いつかこの産物の運送に莫太(ばくだい)の運送を費すことを免るれんや、と思うまゝを記し置くものなり。(終り)
大井川の川越しが渡船に切り替わったのは、この2年後、明治4年(1871)5月1日であった。松浦武四郎のこの旅がきっかけになったのかどうかは不明である。
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東海道山すじ日記 16 二月廿日 御油宿 と 結語(前)
先日、駿河古文書会のAさんから、「小夜中山夜啼碑」という本を、興味があると思ってと、貸していただいた。鈍亭魯文作、井草芳直画で、安政二年(1855)に発行された本である。和綴じの本で、汚してはいけないと思い、コピーを一部取らせていただいた。別冊でその解読本も手作りのものを借りた。そこで、次にこの本を読んでみることに決めた。
そうと決まれば、東海道山すじ日記は早々に読み終えてしまおう。
さて十九日(廿日の誤り)、気賀を出て、いなさ峠(二里)、三日火(三ヶ日)、本坂越え(二里半)、嵩山(すやま)(一里)、長柄(三里)、御油宿に出る。この辺り桜も咲きたれども、雨風にてとかく寒くぞ覚ゆ。
今この道筋を開くに、始めより宿駅といえるもの置きては、中々手が附け難し。先ず御用状のみを、目方壱貫目に限り、二里位づつの村継ぎにして、その村は助郷だけを免じ遣わしなばよろし。旅人の通行には人足が雇いたくば、自分雇いにせば、これまた村にも銭もうけ有りてよろしかるべしと思うなり。
この事を村々にて名主どもに相談致せしに、助郷さえ免じ呉れらるれば、一同に有難かるべしこと、別けてもかく成りて川に舟をゆるし給わば、如何ばかりの洪水にても越し候由。この川すじ数十ヶ村の者どもの出す処の産物、直まし、また下より上る者も、舟ならば如何ばかりに安直になるべしと語りぬ。
ただこれを故障する者は島田、金谷二ヶ村ばかりにして、その余に決して悦ばざる者はなしと。この島田、金谷二宿の者たりとも、この川に舟入りて運送だに、よくなる時は、身分のある者は積問屋など致さば、これまた川越し、川留めの銭を設(もう)けるばかりの小利にあらず。また川越の者も、この川すじに舟が通る時は、その余の金銭も如何ばかり設(もう)くる事有るべしと思う。
ただしばしの間の、小前の者の稼ぎの間を厭(いと)うが故、幾若干の人の、川支え御留めに苦しむ事やらん、と語りぬが、これにて思い当り申し候は、
※ 白川楽翁 - 白河楽翁。白河藩主の松平定信。老中として寛政の改革を行った。次回に出てくる、松平越中守も松平定信のこと。
中村佛庵が大井川にて滞留の時に書きしものを得しが、これには候も似たる話しなれば、これをもってその因にしるし置くものなるべし。
※ 中村佛庵- 江戸時代中期-後期の書家。江戸の人。幕府畳方の棟梁をつとめる。梵字にすぐれた。
中村佛庵が書きしものは、次回、最終回で取り上げる。
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東海道山すじ日記 15 二月十九日 気賀宿
昨夜から次兄が東京の帰りに宿泊、今朝帰った。東海道山すじ日記の解読も最終段階に入った。次に何を読もうか、今考えている。
十九日朝、とく立つ。和田ヶ谷(はたごや有り)、中沢(同)、領家村(共に一村なり)。
※ とく(疾く)- 急いで。
これよりは触れを山の東通りにせし。我らは山に懸り、しばしにて(三十二丁)、峯小屋中小屋、ここは横川村より出す茶屋のよし。栗、椎茸、また木地細工ものを鬻(ひさ)ぎけり。ここにて休(いこ)い居りたれば、谷間より人足二人上り来りしが、これ継立ての人足なりと。(触れに応えたものであろう)これより(十八丁)、しばし上り、光明山、曹洞禅にして余程の大地なり。ここにも茶店有り。これにはタダライ(只来)の村より、継立て人足出たり。
※ 大地(だいち)-広大な土地。
これより五十丁下りて、山東村に下る。これよりまた川のこなた、かなたを下る。これを四十八瀬と云う(凡二十五六丁)を、十八瀬越えて、二股村(弐、三百軒、町なり。商人、はたごや有り)、繁盛の地なり。前は直ぐに天龍端になり。小峠一つこえて、東鹿島村、(村下に)天龍川(舩渡し)、西岸絶壁にて風景よろし。
西鹿島村(積問屋有り。家並みよろし)、ここにて渡し守に聞くに、鵜飼(舟)にて渡す時は、大ていの時に越するによろし。瀬道わたしにては、昨年も廿日余りも留まりしが、このかたは一日にて明けたりと。これより(十八丁)野道。ここに姫龍胆(ひめりんどう)を多く見たり。
岩水村、岩水寺と云う寺有り。本尊薬師如来なり。大岩窟の中より、清水流れ出、これをわかして病人を湯治せしむ。過ぎて宮の口(町有り。弐百軒ばかり。商人、はたごや、茶や有り)、市日有りてにぎわしと。
これより味方が原に上り、右の方に都田村、ここに初山鮭院寺(宝林寺)と云う黄檗宗の寺有り。独湛(どくだん)の開基のよし。この上なる山を蓮華峰と云う。峰谷八つに分れて、蓮華の形をなす。前に瀬戸村、瀬戸ヶ渕と云う有り。鯉、桜花魚など多し。上に茶店有り。これにて菓子をうるなり。
下り田圃に出、右の方に金指宿を見て(宮の口より三里)、気賀に宿す。関門も開き切りに成りたり。ここにて始めて月代を剃り、少なからず人心地致しぬ。
また一考には、大井川端の梅島より、篠原、平木などを過ぎて、里原に出、犬居に出るもよろしと。また上長尾より越木平に到り、気田村、窪田村より秋葉の後山を通り、雲名村の渡しを過ぎて、石打村(少しの町奈り)、熊村、嶺、神沢を過ぎ、鳳来寺、新城に出るよろし。さりながら、これは少し近けれども、道すじ余程難所のよしなり。
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東海道山すじ日記 14 二月十八日 犬居村
東海道山すじ日記の解読を続ける。
十七日(十八日の誤り)、昨日の雨、この辺りにて雪にて有りし由にて、山々皆雪降り積もり、春埜山等は、今朝は少しも青きものを見せざるように成りたり。桃もまだ咲かず、梅は今盛りなり。茶も川端より廿日程遅きよしなり。
※ 春埜山(はるのさん)- 曹洞宗春埜山大光寺。地元では「お犬様」と呼ばれ、本堂前には、狼の狛犬が控えて、かつては修験道の狼信仰の山であったことがうかがえる。樹齢1300年の春野杉(県の天然記念物)が有名。
また川をこなた、かなたに越して、峠を越す(一里)。花島村(人家二十軒ばかり)山の上下に散居せり。ここはまた田河内より地形一変して、少しも田はなく、人の家の上を通る様なるさまなり。この辺り猪多くして、家々猪垣を結ぶ。また次の図の如き物有る故、何ぞと問うに茄子種なるよし。
(茄子種の図、「この間三尺ばかり」と注意書きあり)
このおき箱に糞(こや)し土を盛り、これに茄子を蒔き、上に筵(むしろ)を被せ、その間(に)石を並べしものなり。
※ 茄子種(なすたね)- 茄子の苗を早く作るために考えられた装置なのだろう。このような形だと、寒い時には下から温めることも容易なのだろう。山国の知恵だと思う。だとすれば「茄子種」は「茄子棚」が正しいのかもしれない。
しばし過ぎ、右、春埜山道(五十丁)、杉野村と云うに出で行くと聞けり。左り、秋葉道、いさ(砂)川村にて人足を継ぎて、名主宅に到るかや、大いなる鉦を出て打ちけるや、その番の者、出で来たれり。(半り)和泉平、(半り)中谷、(半り)平生、(半り)若之平(人家並よろし)、村すじに川(船わたし有り)急流にして深し。これより弐里ばかりの処は十石積の船通行すと。これより下は弐十石積になるなり。この川、京丸より出で来たる川のよし。(十丁)
犬居村(百軒ばかりの町なり。はたごや有り)、小坂一つこえて、左り和田ヶ谷、右坂本道。名主白木屋と云う積問屋にて、継立けるなり。まだ早けれども、ここにて泊り、これ秋葉山の表口なり。すべてはたごやにて、にぎやかなり。
今宵、庭中に梅よく咲きたるに、夕方、みぞれ雪降り来りしが、かゝりしに、十八日月、輝きしさま、実に雪月花を一目に見ること、妙なりけるなり。
みぞれ雪と十八日月と庭の梅で、雪月花だとしゃれている。武四郎さんにも、風流の気持があったと見える。
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東海道山すじ日記 13 二月十七日(後) 田河内村
東海道山すじ日記の解読を続ける。
並びて奥和泉、大間、井川、ここ南は信州遠州山岳、北は白根鳳凰山、源は信州の荒川地蔵岳より来たると。山、皆巨材にして、この千頭山の材は実に海内無比と云うべきの良山なり。豈(あに)この良材をして、金谷、大井川(島田)の二宿の姑息説よりして、宜しくからしむるは、と実に大息をなしぬ。
※ 大井川の源 - 現在では、間ノ岳に源を発するとされる。
※ 海内(かいだい)- 四海の内。国内。天下。
※ 豈(あに)- あとに推量を表す語を伴って、反語表現を作る。どうして…か。
※ 姑息(こそく)- 一時の間に合わせにすること。また、そのさま。一時のがれ。その場しのぎ。
さて、麦代村(これは山の上にて、人家十五、六軒)に人足を願わんと云うに、これは下長尾の出郷なるよしにて、継立呉れざりければ、致し方なく、前の人を頼みて行く。半里ばかり上り、権現峠(ここまで樹木なし)
越えて山谷下る。左右、椴(とどまつ)、松、雑木立ち、また杉、桧も有り。谷川は水嵩まして吼々とし、岩大きく、しばし過ぐ。躑躅(つつじ)の木など多し(凡そ半里)。
※ 吼々(くく)- わめきたてる様子。ここでは沢の轟音を表現した。
人家一、二軒を見、その川をこなた、かなたに越して、三、四丁目に人家二、三軒ずつを見行くこと、凡そ半里にして、名主宅に到る。造り酒屋なり。宿を乞う。
この村、大井川端より大いに貧なるよし。杉は多けれども柾に曳いて、新田は山谷に似合わぬが故に、これを田河内村と云うなり。人家、茶と椎茸を家業とす。(この川すじは犬居の上にて落ち合うなり)大井川筋より大いに寒し。
当村より山越え弐里を行きて、川上村に出て越木平。これよりまた弐里山越えにして、京丸と云うに到ると(これは犬居川の上なり)。この京丸が花に牡丹が有る等、世間にて話すが故、その事を聞いて見るに、誰もしりたる者なし。この後ろは信州の江儀岳に当ると。
※ 牡丹(ぼたん)- 「京丸ぼたん」は、遠州七不思議の一つとして有名。
※ 江儀岳 - 南アルプスの南端の池口岳のことか。
良材有り。それは海内第一なりと。また平家の落人の子孫のみ住みせし由にて、近年までは平人の縁組せざりしもの有りしが、終にその姑息よりして、断絶なせし由。また六、七年前、隅法坊大権現と成りし。人もここより出られしと。
※ 平人(へいにん)- 普通の人。なみの人間。
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東海道山すじ日記 12 二月十七日(前) 大井川
大井川に盥渡しという方法が川上の方であった話は、
古文書でも時々見たが、絵は初めてで、良く判った)
東海道山すじ日記を続ける。
十七日、雨少し降りたり。坂道しばし上りて、天王社有り。これは小永井長門守城跡なりとて、社内に古井戸一つ有り。本丸、出丸等の石垣、今に残り、長門守手植えの桧とて、一本七股になりし大木有り。
山の端に岸村、田代村、坂木尾沢、ここにて川原へ出、凡そ十丁ばかり下り、青部村(小永井より一里半)、沢澗村、堀の内村、庄島村、田の口村等、並びいたり。村々の入口に木戸を構え、皆猪垣を厳しく結びたり。洗沢峠より直に下らば、この村(田の口村)に懸る。されども山中は遠くして、惣躰は近く成るよしなり。
※ 猪垣(ししがき)- 猪や鹿の農作物食害を防ぐ目的で、耕地の周囲を木柵、土塁、石垣などによって囲み、それらの侵入を妨ぐ設備のこと。
※ 惣躰(そうたい)- 総体。物事の全体。
これより北側通り下る時は、下和泉、地名、篠間渡、身成、渡島、旦原、
鍋嶋、尾(鵜)網、神座、相賀、島田と相並べり。然れども、その枝郷も挙げて数えがたし。
さて、ここで向う越しを頼むに、深さ弐尺五寸、渉り七尺位の盥を、川に卸し、これに我ら両人と両掛け、並びに人足をのせて、棹行くに、両三日の雨天にて、水嵩も余程多し。水勢岸を轉じて、白浪逆巻きて盪(とら)かし出せしに、何の苦もなく南岸に着きぬ。この船頭の云うに、最早昨日より大井川は留りしが、ここはかくの如く、昨夏等は肩越しは三十一日留りしが、ここは一日も留めざりしと。依って、十月位より追々盥越しへ商人などは廻りぬ。然る処、渡し場よりこの盥こしを故障申し来たり。それ故致し方なく止めたりと語る。
※ 故障(こしょう)- 異議。苦情。
梅島(南岸)、北岸よりは少し田も多き由に見ゆる。並びて下長尾村に到る。高木八兵衛と云う庄屋にて、名主を勤めるよし。ここにて昼飯す(盥越しより十八丁)。峠一つを越す。(凡そ一里)
さて、この川南通り、下の方は、下長尾、瀬沢、つゝら、石風呂、抜里、家山、小和田、高熊、福用、上尾、横岡、牛尾、島、金谷、と続けり。凡そ十三里ばかりのよし。また梅島より上の方は、上長尾、水川、藤川、これは両岸にわたりし村なり。崎平、千頭、この山、桧材ばかりにして、このうしろの方は京丸に当るよし。
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東海道山すじ日記 11 二月十六日 小永井村
東海道山すじ日記の解読を続ける。
翌十六日、出立せんとせば、我が両掛けを夫婦にて背負子に附けて、次村なる内匠(たくみ)村へ(十丁)送り呉れる。この村も茶を製す。(この川上、腰越、横沢、大沢の三ヶ村有り)
さて、これより坂に懸り、至って急なり。道筋に狼の糞多く、また猪が葛根を掘りし跡多し。凡そ一里にて樫の木峠、これより山の平、九折を下り(一里)、日向村(人家五六十軒)、紙漉き、また茶を製す。名主の宅を
問うに産神の神主なり。村の下に川有り(藁品川)。これ阿部川の南股なり。
越えて坂道を上り、左右皆山畑なり。(一里八丁)上りて、洗沢峠(地神社、人家二軒、近頃一軒ませしと)、これ府中より大井川に廻りて行く道なり。依って往来の人は多く有るよしなり。道すじ(三すじ)、諸方にて落ち合う。
さて大井川の川上はかくの如き大川の上なれども米を送るにこの峠を背負い掛けて行く。その愚なること、実に知らるべし。もしそれを舟を許せば、この四里の坂を背負い越さずして上する。宜しかるべしと思わるなり。峰中(十丁)、地蔵堂有り。右大井川の上、左り榊尾峠を田の口村へ直道なり。新道を切る時はこの榊尾越えの方よろしかるべし。
右の通り、一里半ばかり下りて、杉の根に清水有り。またしばし過ぎて、峠有り。これに大杉有るをこえ、下りて真瀬の大橋に出る。その眺望、実に鬼工神鐫の妙に至る。真瀬川は東西谷の落ち合いなるが、これより右の方の橋を渡れば、大栗、平栗の村に到ると。この両村も山の端、そこかしこに散居たり。
※ 鬼工神鐫(きくしんせん)- 鬼が作り、神が彫る。
これより北側通り、上には桑山、谷畑(ここ一すじの沢有り)、この沢まゝに小村多し。上田、薬沢、中野、岩崎、田代、上坂本、小河内、これ阿部川上よりの越し処なりと。その源は甲州の両畑、イサルケ嶽、濃鳥山、白根に当るや。
左の橋を下り、また坂道。両方とも畑多く、ここに、狼、猪、熊等を捕る仕懸け有り。その形は山海名産図等に出たればこれを略す。大なる丸太を組み、これをつり上げて、その下に餌を釣り、これを喰うや、下に仕懸り、実におそろしきものなり。これに懸りては実に如何ばかりの豪羆の熊たりとも、助かることを得ん。
下りて(峠より三里八丁)、藤川村なり。小永井村にて泊る。この辺り、茶、紙を製し、人家頗る富めるなり。すべてこの川すじは、檜材、杉材、松材、多けれども、筏にしてこれまで下ることもならず。また茶、紙とても、皆背負い下げなり。また田の少なき処故、米、塩、わらんじ(草鞋)等まで、背負い出し、その不自由なること筆につけ難し。
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東海道山すじ日記 10 二月十五日(後) 寺尾村
一見、ちょんまげのように見えるが、観音像の冠だろうとの声に同感する)
東海道山すじ日記の解読を続けよう。ようやく山すじを阿部川まで達したところからである。読み終わるに、あと10日と掛からないと思う。
さて、これより阿部川を越えて中沢村に到る。ここも田少なく、皆紙漉きのみなり。これより中河内川の川すじを右へこえ、左へ越え、両三日の雨にて水嵩は増したれども、皆歩行にて四度程越え(凡そこの間一里)、この間南岸すべて赤土山、篠や雑木生えたり。洪水の節は中沢より山中を桂山に出るによろしと。
桂山村(人家五、六十軒、乗馬有り)、ここはすべて茶、紙の問屋等有るよしにて、余程の豪富の者を見たり。両方満山すべて茶畑にて、盛りの頃は諸方より稼ぎ人も来るよし。(並びて)只間村、これも家並みよく見えたり。この谷を中河内と云うなり(北岸、池谷、柿島、長津俣、油野、上落合、奥仙俣、南、森越、長熊、下落合、坂本)。その奥に到りては、大井川上の、上坂本谷へ越えると云えり。
かなたに越えて、落合村(人家二十軒ばかり)、これを西河内谷と云う。いの木平、下平、上平、川島と、五、六軒位ずつの村なり。皆茶を製し、また杉材を出すよしにて、人家随分富めり。
この辺りにかや、何様で御座ると云うが故に、御用にて京都へ上る者のよし言わば、弐百文位ずつ紙に包みて出す故、そのゆえを問わば、言葉も何分通し難きが、諸社の札配りと思うよしにて有る故、とくと左様の者では無いと申し聞かし、次村まで人足を貸し呉れとて、人足を出して、決して、賃銭を何程と問うにも取りざるが故、五丁にても八丁にても弐百文に定めて、それずつを遣わすに、大驚きたる様子なり。
さて、西河内谷を上り、凡そ廿丁ばかりにて、寺尾村に到る。宿を乞うに、その名主といえる者云うに、この村は貧村なる故、五十文さし上げ候間、次村へ越し呉れ候様申す故ざまに、私は左様のものにあらず。旅篭は一人百疋ずつ出し候間、泊め呉れ候と申さば、大いに驚きたる様子なり。
その由を聞くに、当村は一村と申せども、高一石九斗五合にて、人家六軒
なりと。それにて一村の役を勤むる事、甚だ迷惑なり。さりながら、徳川様に成り候てより、在中より出府の者、郷宿へ懸わらず、直に草鞋のまゝにて役所へ行き、何事にても済ませる様に成りし故よろし。元御代官頃は、郷宿へ附き、それより届けを出し、出候湯呑場の者に祝儀を出し、纔かの用にても、幾日も曳きずられ候事、実に困りしが、と話すに、今度、静岡の政事(まつりごと)、実に変せし事を態しぬ。
※ 徳川様に成り候 - 明治維新で、徳川家の処分として、慶応4年(1868)、駿府府中藩七十万石へ移封され、徳川藩となった。
※ 元御代官頃 - それまでは駿府は天領で、代官が置かれていた。
※ 郷宿(ごうやど)- 江戸時代、村の世話役や農民が公用で城下町または陣屋などへ行った際の定宿。
その主は紙漉きせし。妻は藤もて布を織りたり。さて、その布をもて作りし物を着る。主人は会津辺りにてはく雪袴を作り、はきたるに、何とも山家はかく有るものか。
※ 雪袴(ゆきばかま)- 主に雪国で用いる山袴。ひざの下をひもでくくる裁っ着けの類。
夜は生椎茸を醤油にて煮つけ、石斑魚(うぐい)を二尾程焼物にし、また生椎茸を味噌汁にして出せし故、両三日、椎茸に飽き居りたれども、これを褒めれば、その次(継ぎ)布もて袋を作り、生椎茸を弐斤ばかり入れて、餞別に呉れたるには、甚だ困りぬ。そのはたご代、弐百を出して払わんとするに、二朱ずつにてよろしと申して、中々受けず。
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掛川古文書講座、史跡めぐり - 曽我地区を訪ねて (2)
昨日の続きである。
(秋葉灯籠/昔の灯籠ではない)
次に訪れたのが梅橋で、集落はJR東海道線のすぐ南側にあり、西にはすぐ近くにJR愛野駅がある。法多山へ抜ける旧街道(JRなどに寸断されて断片的にしか残っていない)の四つ角に秋葉灯籠が立っている。幕末、ここに御札が降った記事が、伊藤清次郎さんの「天災地変記録」に出ている。(2014-01-08のブログ)西から熱病のように移ってきた騒動が、梅橋村へもやってきた。降った御札は富士浅間様の御札である。
JR東海道線のガードを潜った北側に、梅橋の公会堂がある。廃寺になったお寺の跡地で、公会堂脇に石仏を祀った祠があった。講師はそこに数多く供えられた小さな穴が貫通した自然の小石を指摘して、耳に霊験がある石仏なのだろうと話した。穴は耳が通じる象徴なのだろう。確かにそう言われていると地元の方も頷いた。自分が四国で見たものは、願いが通じるという意味だった。
梅橋の北側では、逆川がのた打つように蛇行していたらしい。その後河川改修がなされたが、旧逆川の跡が、今でも地形で残る。記録を残した伊藤清次郎さんの屋敷はそれより北東に1キロほどのところにあったと説明があった。今は子孫が別のところに引っ越したという。
次に訪れたのは、富士浅間宮である。ここはもう袋井市に入る。かつて旧東海道を歩いたとき、街道の北側に大きな赤い鳥居を見た。そこより北へまっすぐに行った丘の上に富士浅間宮があるのが見えて、どんな神社なのだろうと思っていた。参拝するのは初めてである。
(「国宝冨士浅間宮」の石柱)
本殿が今は重要文化財だが、かつては国宝だったと、説明があった。それもいの一番に指定された国宝だったという。登り口の石段の脇に石柱が立ち、確かに「国宝冨士浅間宮」とあった。それがいつ、重要文化財に格下げになったのだろう。天正十四年、地頭の本間源三郎が造営した本殿は、檜皮葺の屋根が美しい、桃山時代中期の建物である。梅橋で降った富士浅間様の御札とはこの神社の御札だったのだろう。
(中央が北条氏重の墓)
帰りに、昨日の書き込みで触れた、掛川城主だった北条氏重のお墓がある、上嶽寺に寄った。お墓は安政大地震で壊れ、そのままに放置されて、お墓とも思えぬ残骸をさらしていた。前に墓碑が立っているので、そこと判った。氏重の嫁いだ娘が大岡越前守忠相の実母だという話や、掛川の第一小学校北側の岡にある、龍華院大猷院霊屋(3代将軍家光の廟)を建てたのは北条氏重という話も聞いた。
(「善光寺下水丈」の石段)
最後に、「天災地変記録」に何度も出てきた、「善光寺下水丈」の善光寺に立ち寄った。旧東海道の北側、高台に仲道寺と並んである。今回は石段の高さなどを見て、水丈一丈とはどの位の水の高さだったのか、想像しようとしたが、石段は3メートルも無いように見え、一丈では境内まで水が来るように思えた。おそらく、現在より東海道のレベルが2、3メートルは低かったのだろう。この善光寺には、長野の善光寺にあるような「戒壇巡り」があった。無住になって、管理が行き届かなくて、危険なために「戒壇巡り」の行事は中止されたという。
名所とはほど遠いものであっても、地元の人のうんちくが加わると、興味深い旅になる。
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掛川古文書講座、史跡めぐり - 曽我地区を訪ねて (1)
午後、掛川古文書講座の、年一回の史跡めぐりで、曽我地区を訪ねた。今年は参加者が多くて、市のバス2台に分乗しての史跡めぐりであった。地元の歴史に詳しい男性が案内に付いて頂いて、地元ならではの話が聞けて、大変に有意義であった。
最初に訪れたのが、高御所の正法寺である。ここへは昔一度お参りしたことがあった。遠江三十三観音霊場になっていて、歩いて巡ったときに参詣した。観音堂に見覚えがあった。この観音堂は同じ村にあった新福寺が廃寺になった時に、新福寺の本尊を移したものという。観音堂は富部学校の学舎を移築したものだと聞いた。観音像を収めるには大きすぎるように見えるのはそのためであろう。
正法寺の山名は、曽我山、拈華山、鶏足山と替り、現在はまた曽我山に戻っている。本堂の大屋根には「鶏足山」という名前が見えた。今年度、学んだ伊藤清次郎さんの「天災地変記録」では、江湖会があった記事が出ている。(2013-12-12のブログ)
正法寺の東側の谷筋に、腹摺り峠という掛川から横須賀へ抜ける古道があると、案内の男性が話す。17世紀半ばの掛川城主北条氏重は、後継ぎのないまま亡くなり、北条氏は改易となって、一族は横須賀藩の預りとなり、この道を通って、横須賀へ落ちて入ったという。この峠道の途中に大岩が二つに裂けたようなところがあり、人ひとりやっと通れるほどの道で、馬の腹が岩に摺れたところから、腹摺り峠の名が付いたといわれる。
(熊野三神社)
次に訪れたのが平野の熊野三神社である。平野の公会堂にバスを停めて、少し入ったところに、戦没者供養の素賀神社と並んでいた。かつてはムササビが住み着いたほど、周囲はうっそうとした森であったが、数年前の台風でたくさんの大木巨木が倒れて、あたりがすっかり明るくなって、廃寺の礎石のように点々と切株が残っていた。
熊野三神社は曽我地区七ヶ村(領家、篠場、梅橋、徳泉、原川、高御所、平野)の惣社で、雨乞いには霊験新たかで、「天災地変記録」には何度か雨乞い神事の記録がある。(2013-11-14、2013-12-12、2014-02-13のブログ)
(「御鐘洗い」の鐘)
この神社の雨乞い神事の特異なのは、神社から鐘を借りて洗う「御鐘洗い」の神事である。その様子は「天災地変記録」に詳しい。(2013-12-12のブログ)その鐘が境内に造られた小さな鐘楼に収まっていた。この鐘は江戸時代に一度盗まれたことがあり、そのときに付いた疵が凹みになって残っていた。「御鐘洗い」を行った高御所の大谷代池は神社の北東、直線距離で1.2キロほどのところに現存する。鐘は人々が運ぶにはいささか大きい気がしたが、おそらく神輿を担ぐように運んで行ったものだろう。
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