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松木新左衛門始末聞書17 新左衛門丁頭役、滅り込み

(庭のヒメツルソバの花と紅葉)

午後、「古文書に親しむ」講座へ出席した。半分以上の時間が、打ち合わせ事に費やされて、古文書の勉強はわずかな時間しか出来なかった。打ち合わせは講座の後に時間を取ってやって欲しいと思った。講座の新規加入者の声が大きくて、中々前へ進まない。長年受講して来たが、この講座もそろそろ潮時かもしれない。

     新左衛門丁頭役の事
一 新左衛門死去跡、丁頭役は忰成長まで組頭持ちと願う所に、元来由緒有る松木ゆえ、御奉行水野小左衛門様、忰を御覧あるべしとて、召さるゝ時十弐才、名はいかにと仰せしが、豊丸と自身申し上げれば、完尓として仰らるゝは、左様はなかまじ。以後は新左衛門の新と郷蔵の蔵と合わせ、新蔵と改むべし。丁頭も唯今申し付けるなり。組頭ども本役を加えて守り立つべし。当分は名ばかりの丁頭と相心得べし、と仰渡さる忝(かたじけなく)も新蔵という名は、御奉行より下されたり。丸顔の子供に町頭役仰せ付けらる事、かれこれ前代未聞、例類なき有がたき事なり。

※ 完尓(かんじ、莞爾)- にっこりと笑うさま。ほほえむさま。

     滅り込み(めりこみ)の事
一 味方ヶ原にては、大金を損失し、日向にては大金を入れて創業したる田畑も支払いて一盃に暮す仕合わせにて、元金は一切帰らず。段々に身上零落して、駿府の住宅も売り喰いに暮す処に、新斎死去。

※ 仕合わせ - めぐりあわせ。運命。
※ 身上(しんしょう)- 財産。資産。身代。また、家の経済状態。暮らし向き。


若年の新蔵、御政を養育するものなきに依って、伯父の与左衛門も身上をへらしだし、安部の遠藤村の荒地開発を願い下して、呉服町の宅は仕舞い、借家にして、かの地へ移り居るに依って、両人を与左衛門方へ暫く引き取りしが、伯父、甥、遠藤に居りて、両替町丁頭勤むるに、川越しゆえなるに、異変有る時に取り捌(さば)き不自由ゆえに、新蔵兄弟を両替町三丁目へ引き取りて、売り残りの土屋鋪に建家して、三四年手細工して渡世を送る処に、大酒、放埓にて身上持たず。

丁頭役は組頭平蔵に願い渡して、家は売り払いて、享保十八丑年、江戸へ趣き、乳母の子、七九郎身上を持ちて居る処へ、落ち着いて世話になり、絵心あるゆえに絵師へ弟子に遣わす処に、計らず煩い付いて、その年の九月十四日死去し、法名を秋月自明信士と申す。鳥は古巣に帰る。元の土となりしとて、七九郎泣き悲しみしと承る。これは乳母の子とは申せども、実は伯父なり。七九郎に取っては、新蔵は主人なれども甥なり。

妹お政は紺屋町御代官永井孫四郎様の奥を勤めて後、安西弐丁目の住居に、安西井宮村の名主、後藤与兵衛というものゝ妻となりしが、離縁して、御城代板倉下野守様の奥を勤めて、それより家中の本道医師、安達陽見様に嫁す処に、下野守様御役替えにて、陽見様は故郷江尻在の高橋村へ引っ込み、おまさはかの村に於いて、元文六年の頃、病死なり。
※ 本道(ほんどう)- 漢方で内科のこと。

与左衛門も新蔵兄弟も実子なく、これまでにて、松木の骨肉悉く断絶す。松木苗裔は七九郎壱人なれども、新蔵死去の注進として、青屋久兵衛へ書状を越し候後は、何方へ文通ありとも聞かず。江戸何丁に居て、何商売して、何屋の誰と申すや、今に至りては知るものなし。
※ 苗裔(びょうえい)- 遠い子孫。末裔。末孫。
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年貢納米の御達し書 - 駿河古文書会

(珍しく車でお出掛けのムサシ、12/16撮影)

午後、駿河古文書会で靜岡へ行く。今日の課題の中で、年貢納米の御達し書というべき文書が、年貢の決め方が判りやすくて、今回取上げる。年貢は村の石高に対して一括で示される。まずは、文書を解読し読み下して示す。

    巳御年貢割付くべきの事
一 高百四拾石八升四合   庵原郡東山寺村
    この訳
  七拾四石壱斗六升七合  田方
    三石弐斗九升七合  前々川成り引
    四石六斗八升七合  前々卯川成り引
  内 弐斗四升六合    前々山崩れ引
    四石六斗九升    申川成り引
    四石八升四合    亥川成り引
  残五拾七石壱斗六升三合 四つ七分七厘壱毛
   この取り米、弐拾七石弐斗七升三合

  六拾五石九斗壱升七合  畑屋敷
    八斗六升五合    前々川成り引
    五斗七升六合    前々山崩れ引
  残六拾四石四斗七升六合
   この取米弐拾弐石五斗弐合 三つ四分九厘
  小以米四拾九石七斗七升五合 
※ 小以 - 小計。

一 高拾石五升三合      同所新田
    この訳
  五石七斗三升六合    田方
   内五石三升弐合    前々川成り引
  残七斗四合
   この取米弐斗八升弐合
  四石三斗壱升七合    畑方
   この取米壱石四斗八升弐合 三つ四分三りん三毛
  小以米壱石七斗六升四合

取米合わせて、五拾壱石五斗三升九合
   外
 一 米九升       御伝馬宿入用

右は卯より未まで五ヶ年定免、当巳御成箇、書面の通り、村中大小百姓、出作の者まで、残らず立ち合い、高下なく割賦せしめ、来たる極月十五日限り、急度皆済すべきものなり。
   元文二年巳十月
        永井孫次郎印
                 右村
                    名主
                    組頭
                    惣百姓


最初の一つ書きが、本田と畑や屋敷にかゝる税である。米中心の経済だったから、畑や屋敷という、米の取れない土地からも米で税が計算される。次の一つ書きが開墾された新田に対してかゝる税である。

それぞれ、洪水や山崩れなどの災害で失われた田地が税から控除される。「川成り」「山崩れ」の表示がその控除である。この村の場合は新田の大半が「川成り」となり、控除対象になっている。新田開発の地が川沿いで、氾濫被害を受けやすい地域であることが分かる。

最後の一つ書きは、東海道由比宿の伝馬宿に対する負担金である。

これらの数字は細かい計算の上に出されている。その計算方法を以下へ示してみよう。

東山寺村の石高  140石  8升4合
A 本田畑
   田方     74石1斗6升7合  

      控除   3石2斗9升7合  子年川成引き
           4石6斗8升7合  卯年川成引き
             2斗4升6合  山崩れ引き
           4石6斗9升    申年川成引き
           4石  8升4合  亥年川成引き
      控除の計17石1斗  4合
     残り   57石1斗6升3合 (田方 - 控除の計)
     取り分   4ツ7分7厘1毛 = 47.71%
     取り米  27石2斗7升3合
           (57163×0.4771=27272.46)

   畑屋敷    65石9斗1升7合  
      控除     8斗6升5合  川成引き
             5斗7升6合  山崩れ引き
      控除の計 1石4斗4升1合
     残り   64石4斗7升6合 (畑屋敷 - 控除の計)
     取り分   3ツ4分9厘   = 34.9%
     取り米  22石5斗  2合
           (64476×0.349=22502.124)
 ※ 田方と畑屋敷の石高の計が140石8升4合
  小計(本田畑の取り米の計)
   田方取り米  27石2斗7升3合
   畑屋敷取り米 22石5斗  2合
     計    49石7斗7升5合

B 新田の石高    10石5斗  3合  田方と畑の計
   田方      5石7斗3升6合  
      控除   5石  3升2合  川成引き
     残り      7斗  4合
     取り分   4ツ1毛 = 40.1%
     取り米     2斗8升2合
           (704×0.401=282.304)

   畑方      4石3斗1升7合  
     取り分   3ツ4分3厘3毛 = 34.33%
     取り米   1石4斗8升2合
           (4317×0.3433=1482.0261)
  小計(新田畑の取り米の計)
   田方取り米     2斗8升2合
   畑屋敷取り米  1石4斗8升2合
     計     1石7斗6升4合

C 東山寺村が納めるべき年貢
   取り米合計(本田畑と新田の計)
     A    49石7斗7升5合
     B     1石7斗6升4合
    合計    51石5斗3升9合

まるで確定申告書を書いているような気分になった。これ以外に、石高100石に対して6升の伝馬宿負担金がかゝる。計算は以下のようになる。
 本田畑の石高  140石  8升4合
 新田畑の石高   10石5斗  3合
   計     150石5斗8升7合 150石だから9升になる。
           (150587×0.00006=9.03522)

この石数を村ではそれぞれの農家へ所有する土地面積、田地の上中下の区分によって、克明に割り付ける作業を行い、それぞれの農家から年貢としてあつめて、年内に納めることになるが、それはまた別の話しになる。
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松木新左衛門始末聞書16 新斎老死

(庭の大輪のサザンカ)

松木新左衛門始末聞書の解読を続ける。

     新斎老死の事
一 新斎の妻は、下石町三丁目岡村壱郎右衛門という者の娘なり。妻死して後は、久年婬犯を禁じて、人々禁戒を誉むる処に、新斎計らず土蔵の二階へ上りしに、新蔵を守って江戸より付け来たりし乳母、昼寐して居りたる所へ行き懸かりて、これを見、心迷いて破戒し、密犯する事、跡先なく唯一度の房事に、
懐妊して男子出生す。

親類知己大いに悦び、かの養子にすべし、これが貰いたし、ここへ預かるべし、と誉めて持ちはやして、悦喜限りなき処に、新斎は世間を恥じて、面目なきまゝに、これを心苦に持ちて、一年余も他人に対面せず、まことに隠居して、
我れ七十九才にて、三十になるかならざる小女と密通し、男子を拵え、若き女を汚したりと人々の申さん。

また新生を七九郎と名付けし事も、面目有りて万事に叶い、言訳(分)なしと
いえども、我れ七十九にて子の出来たる事、末々の云い出しになるべし。かれこれを思案して、一向こゝろ済まずとて、苦労にするの笑止なる余りに、七九郎は新左衛門が養子となして、日向へ送るべしと諫言し、是非/\と勧むれども、心に叶わず、許諾せず。

※ 諫言(かんげん)- 目上の人の過失などを指摘して忠告すること。また、その言葉。

また乳母は猶々左のごとく責めて、御隠居様悦んで下さらば、長くこの家にあるべきなれども、何を申しても御心に叶わず。さすればこの家に面を賑わして居る事もいやなりと、七九郎を貰い江戸へ帰りたしと、暇を乞うに、これを納得しける。皆うち寄りて、それはなるまじというをも、更にきゝいれず、乳母にあたえて遣わしたり。

新斎はこれに少しはこゝろ休まりたれども、この事にて近頃心気を労し、不快に有りしが、立直らず、段々おとろえ、二三年保ちし処に、日向より早飛脚来て、新左衛門胸痛を煩いて急死なりと。これを聞いて、以っての外に弱りはて、その夜、正徳五年未八月四日、八十五才にて病死なり。またこの病死を日向へ注進として、その飛脚を直ちに取って返させたり。

※ 以っての外 - 予想を越えて程度がはなはだしいこと。また、そのさま。

この凶事折り重なり、不吉の時節到来と申せし由。新斎は神儒に道を崇敬して、正直なる人とかや。新斎葬礼に孫、新蔵は位牌を持ち、息、友野与左衛門は木具の膳に法飯を盛り立て、これを持ち、線香に火を付けて、道すがら口にくわえて、法伝寺まで歩行にて参りしよし。親類、召仕いは髪月代を立派にして、額当などは決して致さずと承る。法名は信西信士と申す。
※ 神儒の道 - 神道と儒教の一致を説いた考え方。
※ 木具(きぐ)- 足付き折敷(おしき)の別名。木具膳(ぜん)。
※ 額当(ひたいあて)- ここでは、死者の額に付ける三角の額烏帽子のことを指す。


一周忌命日は仏事執行有りしよし。前日は神道の祭り有りし由。腥(なまぐさ)料理にて、常の祝義振る舞いの通りなるよし。上下(かみしも)にて給仕し、銚子、を以って盃もありし由。唯存生の通りと承る。
※ 携(ひさげ)- 注ぎ口とつるのある銀・錫製小鍋形の器。
※ 存生(ぞんせい)- この世に生きていること。存命。生存。


(新斎、戒名院号が居士にて有るべきに、信士にて平人なり。殊に信西とするは、西方信用たるにいう事なるべし。さすれば存在中は西方極楽の事は信用せずと見えたり。)

新斎という人は実に愛すべき人柄で、あの謹厳な新斎が七十九歳で子を成したことに、親戚一同が喝采した様子が目に浮ぶ。その子に七九郎と命名したりしながら、世間の評判を気に病んで、六年後に亡くなった。といっても、八十五歳という年は、江戸時代としては大変な長命である。
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松木新左衛門始末聞書15 日向新田開発、新左衛門死去

(我が家上空の飛行船/12月18日撮影)

昨日、帰宅した女房が騒ぐので、表へ出ると我が家の上空を飛行船が飛んでいた。女房はお墓で見付けて追いかけてきたという。

松木新左衛門始末聞書の解読を続ける。

     日向新田開発、新左衛門死去の事
一 日向国に大なる原有りて、開発の願人なし。新助様の取り持ちに依って、かの国に参向し、見分して願い下し、手代召し連れて、かの国へ立ち越し、草創する処に、これも水懸かり悪しく、遠方より筧(かけい)を以って水を取る処に雨降りて、大水の節は筧を押し流し、度々修造すといえども、入用多く引き合い兼ねしなれども、仕懸けて致しかたなく、段々広く切発したくは有りしなれども、味方ヶ原にて大金を費し、元手少なにもなり、気も進まず、長くそこも荒野となりけり。

※ 新助(しんすけ)- 関新助(孝和)。江戸時代屈指の和算家(数学者)。
※ 参向(さんこう)- 参上。


ここにかの龍渦車を用いば、極めて宜しからんと人々勧めれども、味方ヶ原にて懲りはて、龍渦車は用いずとなり。この節、田蔵は手代の中にも発明なるゆえに、養子になり、則ち名を改めて松木喜八郎と申す。続いて、忠蔵も出精して手代を勤めて、別家して苗字を貰い、松木忠蔵という。羽衣治兵衛は作人の親方を勤めて出精し、喜八郎、忠蔵、崇敬に逢い、別宅して新左衛門を貴びたり。無類なる実体人となりしなり。
※ 実体(じってい)- まじめで正直なこと。また、そのさま。実直。

然るに新左衛門、ふと煩い付き、心痛弥増に募りて、火の付きたる様に成りて、悶惵して絶え入りしたる儘にて段々弱り、唯三日の病にあえなくも、正徳五年未七月廿三日、野辺の煙となりにけり。
※ 弥増(いやまし)- ますますもっと。さらにいっそう。
※ 悶惵(もんちょう)- もだえ恐れること。


然るに、遺跡は喜八郎なり。享保年中まで、新左衛門の弟、友野与左衛門かた新蔵の乳母の子、青屋久兵衛等へ、日向より折々音信あり。喜八郎、忠蔵は親、新齋と養子の新蔵へ対面して、罷り下りて様躰を見て帰りしよし。
※ 遺跡(ゆいせき)- 先人ののこした領地・官職など。また、その相続人。

この時、新蔵を連れ行きて、日向の遺跡に立つべしと申す時に、さすれば駿河の跡取りなし。罷りならずというて、与左衛門承知せず。さあらばお政を連れ行くべしといえば、これは事によれば、友野の跡取りの心当てなりとて、これもまた、与左衛門不承知にて、新蔵、捨政に金子少々土産に置いて、本意なく帰国したると承る。
※ 捨政 - 郷蔵の娘、新左衛門の姪である。捨政という文字面から男の子かと思ったが、「お政」という呼び方は女である。

後に吉河屋小右衛門、青屋久兵衛の旦那寺、感応寺に於いて、七回忌の法事をなして、光雲院一寳日慈として、塔婆を建しなり。小右衛門は新左衛門出入の計(はかり)屋なり。日向の戒名聞かず。
※ 諡(おくりな)- 生前の徳やおこないに基づいて死者に贈る称号。のちの諱(いみな)。諡号(しごう)。戒名。

ここでいきなり主人公の松木新左衛門が病死してしまった。この聞書もまだ三分の一のところで、まだ三分の二が残っているのに、どうする積りなんだろう。この聞書は必ずしも年を追っていないから、行ったり来たりで何とか続いていくのであろうか。
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松木新左衛門始末聞書14 火事類焼を遁る、養子甥姪宅入

(干し上った干し柿、今日で調度二週間、
このあとビニール袋に密封し、冷蔵庫で保管すれば、黒く熟成し白い粉を吹く)

松木新左衛門始末聞書の解読は続く。

     火事類焼を遁るゝ事
一 宝永の頃、茶町弐丁目、三十郎という者の家より出火して、呉服町、両替町、下石町、鍛治町、江川町、新谷町、紺屋町、伝馬町通り残らず、清水寺の楼門、曲金村、法善寺まで焼亡。この時両替町壱丁目より三丁目まで類火を遁れたる。その根元は新左衛門ゆえという。

その訳は土蔵の戸前口、担ぎ出し用口、窓戸まで、打ち塞ぎて土を塗るは通例なり。然るを却って戸を明けて、蔵の内に半切桶を所々に並べて、水を漫々と汲み込んで、桶の端に蝋燭を燈し置きしよし。居宅の屋根、並び、二三間北隣の屋根の上まで、五尺の桶を数々持ち揚げて、水を汲み入れて、火の粉来れば、水を掛けさせたり。その内、本より焼け来たりしを、打ち捨て置きしよし桶樽へ、火燃え付きたれば、その桶水ともに転げ落して、飜(ひるがえ)れば、おのれと燃え火に水懸けて、火勢弱く成りて、次々の桶落して、水懸けるに依って、小火に成りたる処を、水を掛けて消し留めしよし。

この事、享保年中、元文の頃まで、火事の度毎、いい出さゞる事なし。宝暦、明和に至りては、その咄しを聞かず。蔵の戸口を明け置けば、近辺まで焼けて、壁あつく成りても、内に火気篭らざるに依って火移らず。戸口を塞げば、息ぬかず、内に火氣篭るゆへ、近くまで焼け来たれば、自然と内に火出来て焼けるとなり。



(脹り破風、近所で捜してようやく見付けた)

     養子甥姪宅入の事
一 町内向う側の隠居屋というは、表は物長屋、入口は両開きの付、裏門は屏重門なり。玄関の屋根は脹り破風有りしよし。

※ 闥(たつ)- 門。とびら。
※ 屏重門(へいじゅうもん)- 左右に本柱を立て,開き戸二枚をつけた門。冠木(かぶき)や屋根はない。
※ 脹り破風(むくりはふ)- 屋根が少し膨らんだ造りの破風。


然るに、新左衛門弟に郷蔵という人あり。ともに千頭山の木出しを働き、金子を設けて江戸に材木屋をして居たるを、この地へ呼び、この家へ入るべき支度の処に、かの地に於いて死去ゆえ、移らず。郷蔵、子に新蔵、捨政とて、弐人あり。新左衛門子なきに依って、六才、七才の時に駿府へ呼び取りしなり。

その様子はまづ、連れの子供男女弐拾人、江戸より召し連れたり。到着の日は先へ子供の大神楽一群参りしよし。女子どもは恋小駕篭に乗りて、繻子蹈込をばきたるは、一両人ずつ、附き添いたるよし。子供皆々同髪にて、朝四つ時に出立して、七つ時に旅宿入るなり。乳母付いての子ども四拾人、江戸より駿府へ九日めにて着のよし。

※ 繻子(しゅす)- 繻子織りにした織物。絹を用いた本繻子のほか、綿繻子・毛繻子などの種類がある。
※ 蹈込(ふみこみ、踏込)- 踏込袴のこと。裾を狭く細くした野袴。


右建家売り払いの時に、弐丁町の伏見屋勘右衛門という者、買い取りしなり。余り高きとて、三尺切り縮めたるよしなれども、いまだ高き家なり。今の家、則ちそれなり。
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松木新左衛門始末聞書13 追剥を抱く(後)

(来年の年賀状の巨木)

来年の年賀状は久し振りに出せそうである。二年続いて喪中で欠礼した。午後、女房とムサシを伴って、年賀状材料の取材に出掛けた。そんなに遠い所ではない。場所は明けての楽しみとして、こゝでは明らかにしない。ヒントではないが、来年の年賀状に使う巨木を、別アングルで撮った写真を載せた。巨木に詳しい人ならば、この写真だけで巨木を特定できると思う。

   *    *    *    *    *    *    *

松木新左衛門始末聞書の解読を続ける。

     追剥を抱し事(続き)
雲助どもが治兵衛を見知りたる事は、その以前、用事に付、原の旅宿へ飛脚に行きしところに、岡崎に相撲芝居あり。見物して本道を帰れと、新左衛門の申すに任せ、わざわざ道中に出て、岡崎へ行って見れば、関脇の役日なり。

※ 役日(やくび)- 節日・祝日などの特別な日。物日。

我らも取りたしと頼む。則ち諾して、前角力の弱き者と取り初めて、段々取り上りしに、何れも初め一番は、わざわざ軽く負けて、弐番目は手強く屠(ほふ)りしよし。明日は関と合せたきものと、人々申せしよし。

芝居終りて帰る時に、旅宿へ付け込み来たりて、明日関脇関と取ってくれよと、一向頼みて、是非/\という。主人より見物一日の暇をいたゞきて、明早朝に出立の積り。しかし拠(よんどころ)なし。さあらば中入りに大関の役を合わされよ。相済みてより出立すべしと約束し、翌日は前頭、小結、関脇三人を、初め壱番は軽く負けて、弐番めは手強くなげ、大関と三人の中を取りて、勝ちしよし。昨今三拾壱番取りの内、拾五番は負けて、残り拾六番は勝ちしなり。中にも大関をば手痛く投げしよし。勝拾六番はあらゆる手を取りて屠(ほふ)りしとなり。

※ 一向(いっこう)- ひたすら。

その日も黄昏なる故、翌早朝に立ちて道中を急ぎて帰り、その夜は浜松に泊る時、岡崎の角力取りども、拾人追い来て申す様、今一芝居致すべし。立ち帰りて取りてくれよと是非頼む。主命背きがたし。罷りならずと申し切れども、是非というて口論に及ぶ処に、雲助ども群がり来て、其奴(そやつ)引きずり出して打ち殺せ、と立ち懸りしが、究竟の角力取りども、治兵衛壱人に手を束(つか)ねて儘(まま)を見て、あきれて見物して居たり。
※ 究竟(くっきょう)- きわめて力の強いこと。すぐれていること。また、そのさま。屈強。

然れども立ち帰りて勤むる事はいよいよならざるに、熟談して、治兵衛を饗応して、暇を請うて別れし由。これによりて雲助ども、さてはこの羽衣はすさまじき角力取りかな。噺に聞けばきくほど、剛(こわ)き者かなと肝を潰せしよし。これゆえに、一目見て、羽衣様何方へ御通り有りと申せしとなり。
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松木新左衛門始末聞書12 追剥を抱く(中)

(夕方、一瞬の「山燃える」)

松木新左衛門始末聞書の解読を続ける。

     追剥を抱し事(続き)
治兵衛申し遣るは、親方が今莨を吸い付けらるゝ時に、襟に懸けられたる真紅の打紐を、皆達の目を付けて見られしか。かの帛紗(ふくさ、袱紗)に小判七百両、懐中せられたり。追い取り込みて奮取る氣力はなきかと戯れていえば、七人は手を束ねて、勿躰なき事を仰せたるゝ物かな。あまり有難さに、最早奸盗事は忘れ切って思いもよらず。こころ飜(ひるがえ)して正真の人に成りたりと申す。

※ 打紐(うちひも)- 糸の組み目を篦(へら)で打ち込んで固く仕上げた紐。組紐。打ち緒。
※ 束ねる(つかねる)- 一つにまとめてくくる。たばねる。
※ 奸盗(かんとう)- たちの悪い盗賊。


時に治兵衛、それは仕合わせ、長命の瑞相なるべし。親方の面魂(つらだましい)をよく/\見られたるか。縦令(たとい)一同に取り囲みたらば、脇差を抜かれん。その時はあえなく皆殺しに逢うべし。組み付けば掻い掴んて崖へ投げられん。狼狽(うろたえ)たらば、蹴殺さるべし。常に申さるゝには、世に恐ろしきものは闇夜なり、外に恐怖の事なし、と云い連れて、心に負ける事を少しも知らずと。
※ 瑞相(ずいそう)- めでたいことの起こるしるし。吉兆。

尋ねて尋ね来たるもまだるし。今直ちに我とともに旅宿まで行くべしと言いければ、手々に松明を持ち、打ち連れにし、町行きたれば、新左衛門は治兵衛を心元なく思いて、崖端(がけはし)、芝の上に安座をして、莨を吸い待ち居りたり。七人同音に、旦那、先へ御ひろい遊ばされよ、と申す時に、無用心なる暗き夜道、我らを中に挟みて歩行(ある)け。皆々頼むというて行く程、高咄しして笑い/\旅宿へ入りしとなり。

七人の内、日向国太蔵とて、仇名(あだな)を検校というて、大器量のものあり。後に新左衛門の目に付いて、田蔵と書き替えて、段々経(へ)り上りしなり。検校という事は三味線を引く故に、日向の勾当というべきを、雲助仲間の唱え違いという。

※ 器量(きりょう)- ある事をするのにふさわしい能力や人徳。
※ 検校と勾当(こうとう)- 検校は盲官の最高位。盲官では、位階順に別当、勾当、座頭があった。


今壱人、田蔵に続きたる人有り。これは子細も聞かず、生国も聞かず、名もしらず。新左衛門が忠蔵と名付けて、これも段々歴(へ)り上りしよし。二人は原にて霍乱して病死す。弐人は相応の者にて、原の日焼場を耕作して居残りて春秋を送るという壱人は、田蔵、忠蔵に依りて、新左衛門の草履を掴(うち)て過しとなり。
※ 春秋(しゅんじゅう)- 年月。
※ 霍乱(かくらん)- 夏に起こる,激しい下痢や嘔吐を伴う病気の古称。今日の急性腸炎・コレラ・赤痢などか。また,日射病・暑気あたりともいう。

この項、明日へ続く。
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松木新左衛門始末聞書11 追剥を抱く(前)

(今夜は討ち入り蕎麦)

12月14日は赤穂浪士の討ち入りの日である。思い付いて、今夜は蕎麦にすると宣言。息子が秩父で買って来た半生の蕎麦が残っているのを承知していた。出来上ったのが、上の写真である。

我がふるさとは、大石内蔵助の妻女りくの実家があった城下町で、りくは家老の娘であった。そんな所縁から、町には12月14日には蕎麦を食べる習慣があった。名付けて「討ち入り蕎麦」という。四十七士が蕎麦で腹ごしらえをして、雪の降る中、吉良邸に討ち入った故事にならって、「討ち入り蕎麦」を食べながら、忠臣たちを偲ぶのである。今では故郷ではそんな習慣も廃れてしまっただろうか。

息子に今晩は「討ち入り蕎麦」だと話すと、何のこったいといった顔をした。

   *    *    *    *    *    *    *

松木新左衛門始末聞書の解読を続ける。

     追剥を抱きし事
一 新左衛門、金子の用事にて、味方ヶ原を夜九つ時過ぎに通る時に、傍らの林の蔭に火を燃して、七、八人居りたる処へ立ち寄って、莨の火を貰う時に、供の治兵衛を見て、羽衣様何方へ御通り有るという。治兵衛いうよう、初めて逢い見る貴殿たち、我が名乗りを知りたるは如何に。また何の用事にてかゝる処に寄り合いたる、といえば、我々どもは浜松の駅に有りて、道中の駕篭をかき、往来を稼ぐ諸国の集まりもの、恥ずかしながら、雲助と思し召して下されよ。


宿の旅篭屋に泊りたく思えども、木賃の借り銭重く、町宿をかすものなし。焼き餅買い、喰い居り、酒して腹をふくらし、ここにて唯夜を過すのみ、と偽(いつわり)て申しければ、いや/\さにあるまじ。宣しからざる業をする奴原と見しは、僻目にあるまじなれども、仇(あだ)なければ、貪着に及ばず。
※ 奴原(やつばら)- 複数の人を卑しめていう語。やつら。
※ 僻目(ひがめ)- 物事をかたよった考えで判断すること。偏見。
※ 貪着(どんちゃく)- むさぼり執着すること。物事にとらわれること。


一樹の宿りも他生の縁、よく/\承れ。この旦那はこの原を新田に開発なされて、今、人夫多く入用の時なり。追剥、追落しの躰なる、その方連、心を改めて出精せば、旦那に願いて朝夕を喰わせ、賃銭を与うべしといえば、口を揃えて申す様、賃に及ばず、空腹なく朝夕をいただき、暑寒なくさざれなりとも下さらば、有がたき事この上なく、骨を舎利になし、掘穿事を相励みて、一方(ひとかた)を行き付いて御覧に入るべしと申すによって、さあらば旅宿へ尋ぬべしという内、新左衛門は莨のみながら先へ行く。
※ さざれ(細れ)- わずかな。こまかい。小さい。
※ 骨を舎利になし - 身を粉にして。


追剥を抱くとは何とも悪い趣味だと思ったが、内容が一寸違った。この項続く。
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松木新左衛門始末聞書10 千頭の大力、狐を飼う、味方原開発損込み

(大代川の底がえぐられた個所)

この秋に何度か襲われた豪雨で、大代川の底がえぐられ、土手を強化している石垣斜面の底が割れてしまった。次の大雨が来ると土手に影響しそうで、かなり危うい。当班で見つけて、班長に自治会長や議員に働きかけてもらい、今年度予算の中で補修が決まったと聞いた。何とか春までには直してもらいたい。

松木新左衛門始末聞書の解読を続ける。

     千頭の大力と相対する事
一 千頭村に八人背負いとて大力有り。然るに御用木の修羅木切端など、新左衛門方へ引き取る時、右の合力、完料(しゝろ)を五挺背負て来たる。新左衛門、産所にてこれを見て、大義なりと庭へ飛び下り、完料五挺を横抱きにして肩を抜せて、この大荷を懸け、路の山坂径も背負い来りしとて、手軽くおろせしとなり。跡にてこれを載せれば、中辺の者は担い難く、力勝れしもの、壱挺を重く荷いしなり。さすれば、五挺にては、八人前も有るべきよしなり。

※ 修羅(しゅら)- 大石・大木などを運搬する道具。そりの一種。

    狐を飼う事、並び悪喰いの事
一 狐を飼い、穴蔵の中に入れ置きしよし。子を生し拾疋、弐拾疋連れにて、蔵の屋根の上へ登りて、狂い遊びしよし。是も人々の嫌うものを馴染みて飼い立てるは、不吉に申し候なり。またその身の好みに任せて喰ふとて、相撲取共にも喰するとて、冬に至れば、鹿肉を沢山に求めて、人々知る程に大食いし、その余剰を狐にも、犬にも喰せしよし。

中にも狐大好きにて、子供の生れたて、健かに有しとなり。犬も元来第一の好物、手飼の犬は大いに強気に成りて、他の犬を噛み殺して、家宅の前へ引き摺り来たれば、大いに喜びしよし。その犬主は甚だ立腹すれども、新左衛門、智謀深く、殊に大力なり。また誰有りて構う者なし。唯心底をのみ推察して、堪忍して居りしとなり。鹿は穢汚の永きものゝよし。依って人喰らえば穢(けが)るゝとて、人々の忌み嫌う物を、好いて喰い、犬狐にもこれを喰わせぞせし事、甚だ不吉の事ならんと、人々申せしよし。


狐を沢山増やして何としたのであろう。初め、狐の肉を喰らったのかと思ったが、読み違いで、喰らったのは鹿肉だけであった。

    味方原開発損込みの事
一 遠州味方原の芝野を草創して、田畑数万石を開発せしめ、関新助様を奉行にして立身させ、その身もゆく/\は御代官にも経上りたくとの願望にて、開発にかゝりし所に、土地の様子が峨嶮(がけ)岸多く、谷沢いつれも大いに深くして、水懸かり悪しく、遠き川上より水を乗せんとすれども、一向乗らず。

これに依って、龍渦車(りゅうこしゃ)という踏み車を拵えて、水を汲み上げさせる積りにて、水元は新左衛門の入用にて田畑耕作を致させ、十年無年貢の仰せ出でしも、己が立身を急ぎて、五年目より御見取りの貢上納すべしと相極めて、龍渦車出来て踏んで見るに、元来新左衛門が工夫を以って差図して拵えさせたれば、自身踏めば壱人にて事故なく軽く上げれども、余人に踏ますれば、二人にても重く、殊に終日終夜は勤まらず、また壱からに三人かけては、数からの龍渦車入用続かず、これまで、年月を経て大金の入用、無益のとなりて、数年の心苦も工夫も皆水の泡となりはてゝ、大人ともいうべき新左衛門も、匙を投げ捨て泣きしとなり。

※ 幣(へい)- よくない習慣。害。つかれ。疲弊。
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伊藤清次郎さんの「天災地変記録」 8 - 掛川古文書講座

(裏の畑のデコポン、初めての実。
小振りながら10個ほど、黄色く色付いている。収穫は何時するのだろう)

「天災地変記録」の続きである。

一 慶応二年三月、豊後国より今しゃかと云う和尚来る。廿三日永江院にて持戒会する。四月二日より正法寺にて江湖会あり。会主和尚に来る。
※ 江湖会(ごうこえ)- 禅宗で、修学参禅の僧を集めて夏安居を行うこと。
※ 夏安居(げあんご)- 夏の三か月の間,僧が一か所にこもって修行すること。


「会主和尚ニ来ル」という部分について、異論が出て、「主」は「重」、「来」は「成」と解読し、「会重和尚ニ成ル」つまり、持戒会、江湖会と「会を重ね和尚に成る」と読むと意味が通じるという主張だった。その場では深く考えられなくて、そんな読み方も出来るのかと感心した。帰ってからもう一度整理してみる。和尚に成るといっても、「今しゃかと云う和尚来る」という言葉から、もともとこの僧は和尚であったし、江湖会は3ヶ月も掛り、どうやら、この指導僧として来たようで、ここは素直に「会主和尚に来る」と読むのが正しいと思う。「てにをは」が不適当に見えるが、「会主和尚(江湖会の主たる僧)のために来る」と解すれば矛盾はない。

七月二日大満水、村々にてかねを打ち、堤防を防ぐ。また九日大水の善光寺下、水丈八尺。十二日またまた大満水。十日ばかりの内に三度大満水とは、誠に珍しき事なり。早稲皆無、大違作。長防戦始まる。玉薬上る。およそ壱万箱。八月七日、大雨風中水、善光寺水丈、六尺。
※ 玉薬(たまぐすり)- 銃砲弾を発射するのに用いる火薬。だんやく。弾薬の荷が上方に上って行ったのであろう。

九月、将軍様御他界の御止め事来たる。一橋様、将軍様に成らせられ候。十一月十五日夜、地震入る。十二月四日、地震入る。
※ 将軍様御他界 - 第十四代将軍家茂は大阪城で脚気のために亡くなった。

慶應三卯年三月十二日、小地震入る。七月廿日朝、地震中々強し。七月十八日
より熊野三社へ雨乞い。また廿一日より一七日の雨乞い御祈祷。掛川様へ願書を以って御願い申し上げる。廿二日より七ヶ村にて三十人ずつ詰め切る。廿八日御神鐘借りる積りにて、証文先例の通り、村役人三判にて神主へ差出す。

右御鐘の御供は、鬮(くじ)取りに致し、平野は居村の事ゆえ、鬮なしにて、壱番とし、篠場後おさえ、これも鬮なし。石野村三組ども御供致し、これは氏子にあらず、客分の事ゆえ、平野へ続いて行く二番とする相談に相成り、則ち御供の順は、〇壱番平野、〇二番石野三組、〇三番岡津、〇四番梅橋、〇五番高御所、〇六番徳泉、〇七番領家、〇八番篠場。また大社にて、右御鐘洗いの順番は、平野、領家、篠場、高御所、岡津、梅橋、徳泉なり。沢田、細田も村中惣代として、五、七名ずつ御供致し候。

※ 居村(いむら)- (ここでは)神社のある村。

雨乞いの時、神社の鐘を借りて洗う、「御鐘洗い」を行うと、大変効果があったといわれ、ここ平野の熊野神社では、高御所の大谷代池まで鐘を運び、「御鐘洗い」を行ったという。皆で行列を組んで雨乞いに神社へ詣でることは、近在では昭和の時代にも行われたことがあるという。

その日昼八ツ時、東の方に雷鳴起り、夕立降り来り、直ちに御鐘帰り、村々恐悦し、毎戸参詣廿九日御礼参りと定める。この御礼参りには、村々にて屋臺を引き、踊りを止めて、誠に賑きわしき事になり。

八月十五日の御触れに、九月一日より御関所手形これ無くとも、通行御免仰せられ候。
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