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伊藤清次郎さんの「天災地変記録」 7 - 掛川古文書講座

(靜岡城北公園の噴水、12/6)

午後、掛川古文書講座へ出席した。伊藤清次郎さんの「天災地変記録」を続ける。同文書の明治分もコピーが配られて、その量からして、今年はこの文書の途中で終りになると思われる。

公儀より仰せ出され候御触れ、書き写し、別紙の通りに候間、その意を得べく候。

今般、長防御征伐のため、御進発在らせられ候に付ては、兵粮米並びに秣(まぐさ)など用意致すべく候。最寄り御代官にて取り調べ候筈に付、その前において差図を請け、差し支えこれ無き様致すべし。もっとも右に付、米穀は勿論、諸色など謂れ無く直段引き上げ、売買致すまじく候。右の趣、東海道、中仙道、それより長防へに道中、南北海岸並び津和野通り、最寄り国々、在町へ御料の代官、私領は領主、地頭より、洩さざる様相触れらるべく候。右の通り、万石以上以下、面々へ相触れらるべく候事。
   元治元年子九月七日
※ 在町(ざいまち)- 田舎と町。

十一月廿日、大水、善光寺下水丈、六、七尺。

子の十二月より、御関所厳しく相成り、御印鑑これ無くては通行むずかしく相成る。御殿様より御印鑑出る。荒井は国の事にて、村役人の手形にて相済み候。
※ 国の事 - 新居関所は遠江国の国内だから村役人の手形で済んだ。

常州脱走賊徒、およそ六百八十人、馬弐百疋、甲州より信州へ出、遠州へ趣く由にて、太田様、秋葉山へ押し寄る。西尾様、井上様、それぞれ御手配りと承り。
※ 常州脱走賊徒 - 天狗党の騒乱のこと。

五月になり、弥々御新発仰せ出され、五月廿九日、掛川御城へ御泊り、およそ五千人、町方へ御供衆壱万人余、また継ぎ立て人足は袋井人足、掛川へ三千五百人引き、掛川人足六千人、都合九千人なり。また廿九日夜、大風雨にて、閏五月一日五つ半頃、将軍様、善光寺下、御通輿に相成り候処、往来へ乗り水壱尺ばかり、御輿差し上げ、御通御遊ばされ候。その日暮れに水増し、水丈五、六尺に成り、太田様御用意の御船、領家川よりこぎ出し、御越し立て遊され、御端供の面々、舟七艘にて相渡す。往来の地より善光寺下へこぎ通う。誠に珎しき事どもなり。夕七つ頃までに、御渡舟終る。その夜、見付御泊りにて、明二日天竜川留まる。御逗留三日、御出立に相成り候。
※ 通御(つうぎょ)- 天皇・三后がお通りになること。将軍の使うのは間違い。
※ 端供(はしとも)- 重要でない供。その他多勢の供。


閏五月十五日夜五つ半頃より大風雨、家の棟吹き落す。十六日朝大満水、善光寺下、水丈九尺。田方へ虫付き違作す。慶応元年と改元これ有り。

(続く)
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松木新左衛門始末聞書9 相撲取り(後)

(7日目の干し柿)

松木新左衛門始末聞書の解読を続ける。

    相撲取りの事(続き)
彦四郎の力は、牛車の猛り懸けて駆け引くを、跡より追いかけて、車のを握り、壱、弐間引き戻す程なり。また七間町の大谷仁右衛門という者、蔵を造る時に、棟木を拾六人懸けて行わるを、擔い上げるに上らず、彦四郎壱人して荷い上げしなり。もっとも大男にして、丈六尺余も有るべし。後に日雇取りに成りて老衰し、剃髪して享保廿年の頃、宮中千体地蔵に於いて死去す。
※ 軛(くびき)- 車の轅(ながえ)の先端につけて,車を引く牛馬の頸の後ろにかける横木。

治兵衛は微力なりといえども、二階より米壱俵を投げて、治兵衛に打ち付けるに、中にてとりしとなり。また力足をふむ時に、新左衛門、彦四郎が蹈むときは、地大きには窪まず。小男の治兵衛がふめば、甚だくぼみしなり。さすれば、いずれにか大いに宜しき所、有りしと見ゆ。
※ 力足(ちからあし)- 相撲の四股(しこ)のこと。

ある時、地取りするに、新左衛門、彦四郎を見事に投げ、また次に彦四郎が左りを差して、右の手を無理に推し込む時に、角力見えたりとて引き分けて、治兵衛おどけて申す様、彦四郎に向いて、角力東の方に於いて赤松木と申したれば、新左衛門笑って居る処に、治兵衛図に乗りて、また申す様、新左衛門に向いて、西の方に於いて千頭山と申したれば、いの外に立腹し、柔術(やわら)の身構えして、飛び懸かりて、治兵衛を負い投げにして、両手をねじ上げれば、座も興もさめはて、見る人も肝を潰す。

治兵衛が即興で「千頭山」と新左衛門に四股名をつけて呼んだところ、烈火のごとくに怒った。「千頭山」がどういう訳で気に触ったのか、説明はされない。「千頭山」という山奥の小さな山を四股名にしたためか、あるいは、「千頭山」から木を伐って、巨万の富を築いたことを揶揄するように感じたためか。いずれも想像の域を脱しない。

新齋も羽衣の仰天したるを、甚だ笑止く思い、治兵衛ここへ参れというて、傍へ引き付けて、耳へ口を当て、かく名乗りを申し替えよという時に、治兵衛おづ/\として、新齋様の仰せられ、御免あられ。御心を和(やわ)らげられかし。これまた御隠居様の仰せ、西の方に於いて、四ノ関と申す。左はさては算術の関流の四人の内四番目という心かと、心に悦びて色を直し候なり。
※ 笑止い(しょうしい)- 気の毒だ。かわいそうだ

治兵衛は千頭の組頭の子なり。右の名乗り、千頭山という事は心にかけず、しらず顔して笑いて居りたらば宣しかるべきに、なまじいに治兵衛を打擲しける故に、人々がこれを広く知りて、四ノ関とは誰もいわず、蔭にては千頭山/\と人々申したり。
※ 打擲(ちょうちゃく)- 打ちたたくこと。なぐること。

新左衛門には誰も構わざる故か、また不埒なる事は致さざる故か、違いたる事をいわざるゆえにや、喧嘩口論少しの物言いも致したる事、一度も見たる者なし。唯一寸の噺も、完(まったし)に/\として、理の詰りたる面しろき事ばかりいいて、笑顔を離れず。依って怒りの顔色を見たるものなし。親々も今初めて見たるという、その面魂真っ赤く成りて、鬼面のごとくなるを、治兵衛はこれを見て大いに肝を冷し、恐れ入りて手を組んで跡へ去りてかゞみ居りたるとなり。
※ 面魂(めんかい)- つらだましい。強い精神・気迫の現れている顔つき。

しかれども、親の命を嘆じ、羽衣が肝を潰したる不便(ふびん)の仁愛を顧み、見物人の短慮なりと誹(そし)らん事、かれこれを早く鑑みて、即座に機嫌を直したる才覚の速なる事は、まことに大人と等しかるべしと申しけるよし。
※ 短慮(たんりょ)- 考えがあさはかなこと。思慮の足りないこと。また、そのさま。
※ 大人(たいじん)- 徳の高い人。度量のある人。人格者。大物。


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松木新左衛門始末聞書8 相撲取り(前)

(ムクドリの群れ、北日本の厳冬を避けて、温暖なこの地に渡って来たか。)

松木新左衛門始末聞書の続きである。新左衛門の相撲取りとしての一面がこゝでは描かれている、どこまで多才な人なのだろう。

    相撲取りの事
一 その身の丈は五尺八寸五分、横肉に肥りて、節々立て、月代厚く、白面青髭にして、右の糸切歯半分打ち欠けて、右の小鼻と左の耳の際に大なる疱瘡の疵有り。大力ゆえに相撲を好んで、羽衣治兵衛という名人を召抱えて習いしなり。
※ 膊(ほじし)- 肩から手首までの部分。うで。かいな。
※ 月代(さかやき)- 中世末期以後、成人男子が前額部から頭上にかけて髪をそり上げたこと。また、その部分。


治兵衛の丈は五尺三寸にして、痩形、角力取りとは見えず。手代を兼ねて、穀物の出し入れをばかり懸かり居りて、下男の親方を勤めたり。また、新左衛門母方の従弟に、岡村彦四郎という大力を、手代に致し置きて、ともども相撲を習わせ、治兵衛の指導を請けしなり。

両人と新左衛門と取る時は、組み合えば全躰、新左衛門勝ちしなり。羽衣治兵衛と組めば、颯と解く事の奇妙を得、また取り放せば請けつ流しつして、後には取り得る事ならず。組みて押せばすかし、寄りて屠(ほう)るべにして、正面へ向いて組まんとすれば、外して横へ廻る事、目に見えず。誠に透きたる事なき名人なり。

荒浪彦四郎は、左の手を差せば、あとの右は是非差し込んで、両手にて横腹を挟み、揉み立てれば、いかなるものも、あばらが拉げるようにおぼえ、怺えられず、多くの相撲が面を真っすぐして、態(わざ)と土俵を出、または、中にて引き別れしとなり。
※ 拉げる(ひしげる)- 押されてつぶれる。ひしゃげる

両人の下帯は晒木綿二重廻りばかり締めて、金襴緞子は一切しめず。然れども新左衛門は下案の業奈りとて、勧進相撲の場所へ出てはとらず、また大坂、江戸へ毎年位に角力大寄せを見物に行くに、今年江戸へ行くは、来年大坂行きしよしなれども、両人を連れ行きて取らする事を嫌う。

その訳は如何にというに、彦四郎は力ばかりにて不器用なり。治兵衛は微力なり。諸国の大力名人の大寄せなれば、もし連れ行きて取らせたらば、先方の角力の中に以前当地にて両人に負けたるものあらん、然る時はその意趣にて両人の透きたる所を見済まして、相談の上にて、敵手の人を撰びてかけたらば、負ける事、心元なし。大場所にて、もしも負けて広く名を上だすよりは、当地へ来たらば、その時勝ちて、江戸、大坂へも聞ゆるほどに名を知られよと云いて、一切連れ行かざるなり。
(この項、続く)
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松木新左衛門始末聞書7 鑑判大風破却、銭青錆

(山芋を機械で摺る/山芋会で)

午後、近所の有志による芋汁会に夫婦で出席した。毎年、この時期に行われ、今年で13回目となる。芋汁は男性陣が2時間ほど早く出て作るのが恒例となっている。山芋を摺るのは昔は下ろし金で摺っていたが、今は機械が登場して最初の摺りは出来るようになった。擂鉢に移してからの作業は、地元出身の人には手際の良さで負ける。いつももっぱら見分役(?)である。

今年は出席が21名で、昨年より4名ほど増えた。芋汁以外にも、各戸で自慢の料理などを持ち寄って、4時過ぎから9時近くまで芋汁会は行われた、毎年お世話を頂く皆さんに感謝である。

   *    *    *    *    *    *    *

松木新左衛門始末聞書の解読の続きである。

     鑑判(看板)大風にて破却の事
一 醤油の鑑板(看板)を住宅の南西の角に立て、両替町六丁目、安西三丁目の、横町、四つ足町、堤添町などの四方より見え渡りたるよし。その看板を大風の時吹さらい、本通壱丁目へ落ちて、商家の見世と尾垂れを打ち潰し由、筆跡を読みしよりも、噺を聞くよりも、すさまじさ、諸人の目を驚かしたる事のよし。
※ 尾垂れ(おだれ)- 軒先の垂木の木口を隠すための横板。鼻隠し

この看板、長九尺、巾六尺、厚五寸の壱枚板のよし。これは御用木切れ端と申す。八朔荒れと申すはこの時なり。この折、上石町辺りより町内南側の瀬戸屋根へまでを、吹き上げて舞い落し由。寛文、八月十五日の大風以来の暴風のよし。十五日は風は家をも潰し、人も大分死にしたるよし。咄しに及ばれざる大騒ぎなる事、明和、安永に至りては噺し知るもの少なし。
※ 八朔荒れ(はっさくあれ)- 風の厄日の一つ。二百十日前後。
※ 瀬戸屋根(せどやね)-「瀬戸」は「背戸」のことか? 家の裏手の屋根。


八朔嵐の事は、元文年中、我ら江戸へ参りたる時に、当府出生の老女噺したるには、右の鑑判(看板)にて、柱も梁も掛け戸なども、微塵に打ち折りて、家もゆかの表側を打ち潰したるを、見物に参りしとの物語なり。鑑判覆い屋根は、街屋の真中に落ちて有りし由。大きさ八尺四方、黒塗りにて有りしとなり。

     銭青錆の事
一 見世(店)売り場の銭の坑蔵へ投げ込みしよし、銭を買いたきなどいうものありても、小売は仕らず、五拾両か百両かと申して、事大そうに見えけれども、売りたる銭を車に載せ行くを見れば、皆青錆浮きらるよし。銭は早く廻るをもって宝とするを、かくのごとく留め置くは、心得違いのよし、人々申せしなり。

※ 坑蔵(あなぐら)- 地下に穴を掘って,物を蓄えておく所。

「銭は早く廻るをもって宝とする」とは経済の根幹を突いた言葉である。銭を死蔵させてしまうと景気は良くならないことは、現在進行中の日本経済を見ていても良く判る。
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小野寺十内の妻丹宛の手紙(後半) - 駿河古文書会

(まーくん出演の竜神の踊り)

午前中、まーくんの幼稚園に発表会を見に行く。会場いっぱいの人である。年少、年中、年長と、2回入れ替えをするようだから、軽く1000人を越す観客になるのであろう。園児の家族と爺さん婆さんを入れると、まーくん一人に7人の観客となる。外の家族も似たようなものであろう。去年の年少に続いて年中になったが、一年違うと随分成長するものだと思った。

開会の言葉を言う園児3人に入っていたが、自分で手を上げて、じゃんけんで勝って手に入れた役割だった割には声が小さかった。まあ、手を上げた勇気を良としよう。自分のその頃にはない積極性である。合唱、遊戯、言語劇など、12の演目があった。その内、出演したのは二つだった。周りの家族の構えたデジカメを見ていると、どの子が家族の一員なのか、一目瞭然で面白い。

   *    *    *    *    *    *    *

「妻に宛てた小野寺十内の手紙」の続きである。

ここ元の埒明きたるとの便は、一番に玄渓より告げ知らせ申すべく候。世上の沙汰をも聞きつくろいて、このほども申し入れ候如くの心得を、よく/\めさるべく候。苦しからぬ様子に候わば、十兵衛殿はじめ、金沢どのみな/\、藤助、おろくふたり、善右衛門などへ、よきほどに伝え申さるべく候。十兵衛へわざとひかえ申し候。兼ねても語り申さず下りて、文もやらず候。もなきなどゝ思い申さるべく候えども、その段もこの方遠慮の使いを察し給いて御ゆるしたまえと、今まで御心入れ、申し尽しがたく過分にて候。
※ 埒明き - こゝでは討ち入りが実行されることを言う。
※ 曲(きょく)- まがっていること。また、正しくないこと。不正。


何事なき世の中とならば、そもじ事頼み入り候。または、方々の一門中へもかつて通じ申さず候まゝ、右の思わく折りを以って能々御伝え下さるべく候。武義のきずは付き申さず候まゝ、御心安かれと覚え申して、一門中へもその段御申し伝えたまわるべく候。十兵衛殿へはそもじが申さるべく候。
一 貞立様並びおちよ事、そもじへ頼み置き候。貞立様へも、文の通り同じ事に申し上げ候由、申さるべく候。
※ 武義のきず - 討ち入りは決して武門の傷になることではないと考える。

時節近付き、あたりも、めい/\に支度の申し合わせなどゝて、人多くてこの文も夜明けに二階へ上り、よう/\書くゆえ、いづ方へも文も遣し申さず候。
慶安殿、西方寺了賢房へ猶々頼み申し候。立こう院様へ猶々頼み申し候。荷物も一両日中に上(のぼ)せ申すべく候。それには文もなり次第にて候。詠み歌、たんざく遣わし申すべく候。見て慰み給えかしにて候。はや/\人々わやつき、筆をとめまいらせ候。あとの事、頼み入りまいらせ候。 かしく
  極月十二日         小野寺 十内
    おたんどの

返す/\なきあとにて、京にても定めて、この度の事、一まずとこそ、斯くは書いて遣し申すべく、こゝ元にてもはやその沙汰御座候。末代まで天下に名をのこし書き留めん事、誠の本望これに過ぐべからず、そもじ見てもうれしく思いたまうべきと、せめてそれをそもじへの名のかたみとも覚えたまへかしにて候。この元の左右なきうちは、さたなしにて候。 以上


十内の妻丹は討ち入り後、十内の切腹の知らせを聞いて、食を絶って十内に殉死する。一説には自刃したとも伝わる。
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小野寺十内の妻丹宛の手紙(前半) - 駿河古文書会

(靜岡城北公園の紅葉)

12月に入ると、赤穂浪士の討ち入りの季節である。大石内蔵助の妻りくの実家が我が故郷の町であったために、故郷では、12月14日は、四十七士が討ち入り前にそばを食べたとの由来から、「討ち入りそば」と称して、そばを食べる慣わしがあった。今ではほとんど廃れてしまったのだろうが、自分の子供のころには我が家でもそばを食べた記憶がある。

午後、風邪気味なのを押して、駿河古文書会に出席した。今日のテーマは四十七士の一人、小野寺十内の妻丹に当てた手紙である。小野寺十内、妻丹は夫婦共々、短歌をよくした、赤穂藩でも文化人であった。討ち入りがあった元禄15年は江戸時代になって100年、既に戦国の世は遠く、文化人であった小野寺十内が刀を抜くなど思いもしなかっただろうと、感想を述べたら、小野寺十内は文武に秀でた人だったと言われた。江戸時代に浸っている古文書会では忠臣蔵は極近い時代の事件なのである。

「赤穂浪士 人の鑑 一名涙襟集 下」より、

  九月より在府、京都妻方へ来たる、午の極月十二日の書状
一筆申し入れまいらせ候。この程上(のぼ)せ申し候文ども、届き申し候わんまゝ、ここ元左右、今や/\と待ち給うらんと、その心の中、推しはかりまいらせ候。この方の事、よう/\時至りまいらせ候。この上いかなる大変あらんは、格別替りたる事なければ、最早きょうより三日は過ぐまじく候。
※ 此元(ここもと)- 此処許。話し手自身の方をいう。自分の方。当方。
※ 左右(そう)- あれこれの知らせ。便り。手紙。


二年の内の我れ、人、いくばくの心をつくし、身をくだき申し候甲斐有りて、この時節にいたり候事、まずまずこれまでを本望とよろこび、勇ましく、さきにもさぞ心あるべければ、勝負は互いの天運次第にて候。兼ねても申すごとくに、公儀より如何様の御咎めにて、たとえ屍(かばね)をさらされ申し候とても、少しも恨みとも物憂しとも思うまじく候。忠義に死したる身体を、天下の武士に見せて、人の心も励さん事、かえって本望にて候。かくの如くの心ざしにて候まゝ、ゆめ/\気遣いめさるまじく候。心やすう思いたまい候べく候。

そもじ、兼々の合点のほども存じ候ゆえ、たとえ萬一如何様の難儀かゝり参り候とても、見苦しき様には有るまじと、また何事もなき世の中にて候わば、なお以って、如何様とも渡世めさるべく候、心のはたらきのおわしますと覚へ候ゆえ、中々心安く存じ候。今さら思い残こす事もなくて、心よく打ち立ち候まゝ、そこ元にても、せめての本望と思いたまえかしにて候。
※ そもじ - 二人称の人代名詞。そなた。あなた。

この度の事、我身ひとりにはあらねども、かように珍しきわざにてなり果つるものと、添いて憂きめを見たまう事、いつの世の悪縁かと思うに、甲斐ぞなき是非に及ばぬ因果のほど、互いに思いあきらめ候外なく候。
(後半に続く)

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松木新左衛門始末聞書6 楊弓名誉、牛馬を二階、八尺の桶、

(干し始めて二日目の柿)

風邪をひき青息吐息でブログを書き込む。書き溜めした松木新左衛門始末聞書を上げるだけである。

     楊弓名誉の事
一 京都、大坂へ行き、楊弓の会に出て射る時に、外に名人あり。百本の内、三、四本外れ、その余は皆あたる。同格の者数多ある中に、新左衛門八拾本当て、他の名人を誉めければ、矢取りの調市、駿河の御客は無双の射手なりという。上手下手は矢数の多少によらずして、何ぞや、矢数の少きを矢大将とはいかにと、面々咎める時、矢取申す様、八拾本にても駿河の御客の帰り矢は五分と違わず、手にて並べたるように、何本にてもその儘に揃うなりと申す。依りて、両所にて楊弓の名人壱番と誉められし事、人々知る所なり。

※ 楊弓(ようきゅう)- 遊戯用の小さな弓。約85センチの弓に約27センチの矢をつがえ、座って射る。江戸時代から明治にかけて民間で流行した。
※ 矢取り(やとり)- 射場で放たれた矢を拾い集めること。また、その役の人。


     牛馬を二階へ追いあげする事
一 薪(まき)、燃木(もえぎ)外より運び入れ候に、手間費(つい)えなりとて、裏門より牛車を引き入れて、大釜のきわへさせ、また蔵の二階へ、穀物を牛馬にて直に付け込まするとて、巾壱間の箱梯子を、長さ六間に拵らえ、勾配を遅く厚木雪頽に仕立て、追い登せ、二階にて牛馬嘶き、おい合う事、京、江戸、大坂にも聞き及ばずと人々申しけるよし。これも不吉に唱えしは、牛馬を人間の天窓の上へ騰(のぼ)せ、勿躰なくも人々の位を落す事、その身は覚悟の所なれども、余人の位を刪(けず)る事、その罪我が身に蒙るべしと申しあえりとぞ。

※ 箱梯子(はこばしご)- 側面に戸棚・引き出しなどを設けた階段。箱階段。箱段。
※ 厚木(あつぎ)- 分厚い板状の木。
※ 雪頽(ゆきなだれ)- 山などの斜面に積もった雪が、気温がゆるんだ時などに、一時に大量にくずれ落ちること。


少々批難を受けようとも、合理性を貫く。その精神は現代にも通じると思う。

     八尺の桶、五尺の釜の事
一 大儲けしてより後、醤油屋を始めて、八尺の桶、五尺の釜を拵らえしに釜へ人落ちて死にし。また八尺の桶へも人おちて死するなり。これは六尺なれば、立てば縁へ手が届くゆえ、死なすまじきを、八尺にては手が届かざるに依りて、死にしと申す。これらは大不吉に申したり。


冷静に反省しながら、死んだ雇い人に対して、まったく同情しない冷徹さは経営の才というのだろう。
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松木新左衛門始末聞書5 年行事振舞、算者会合

(庭のツツジの葉裏に止る蛾、羽根の多くの部分が見えている。
冬の日差しが、かえって気持よいのであろう)

今日は珍しく風邪気味で、ブログは簡単にまとめて寝ることにする。松木新左衛門始末聞書の続きである。

    年行事振る舞いの事
一 新左衛門の親も新左衛門と云う。隠居して新斎という。新斎より新左衛門へ丁頭役を譲りて、初めて年行事を勤めて、首尾よく相済みたるに依りて、町内より祝義に振る舞いたしと、申し込まる所に、それは左にあらず、この方より町内饗応すべき筋なり。浜遊山か、または当時丸子宿に、山獅子戸平、猛熊弥太八、漣三三郎などという珍しき相撲芝居あり。これを見物か、何れなりとも望みに任すべしという。

※ 芝居(しばい)- 歌舞伎など有料の興行物の見物席。特に桟敷に対して、大衆の見物席をいう。

町内より角力然るべしと好めば、その当日の朝、行厨長持拾壱棹、荷なわせ行きて、芝居の中を行馬にて結(ゆ)い切りて、半分仕切りて、外に木戸を明けて、荒波彦四郎木戸と札を打ちて、中に竃(かまど)を築きて火を焚き、膳部立てして、畳の上にて一振舞畢(おわ)り、角力始り、見物させたり。
※ 行厨(こうちゅう)- 弁当。
※ 行馬(やらい)-矢来。竹や丸太を縦横に粗く組んで作った仮の囲い。


右芝居半分借代として、金子百両というとも、出すべきを漸く六拾両と申して、金子を請け取りしなれば、樽肴を付けて渡せしとなり。
※ 樽肴(たるざかな)- 贈り物の酒樽と酒のさかな。

さすが、材木で儲けた新左衛門さんは年行事が終って、町内に振舞った相撲見物、何とも豪勢である。

     算者会合の事
一 日向国より算者来りて、新左衛門へ申す様、大唐より渡りたる算本三巻の内、壱冊、損亡紛失して、この書、海内闕所す。今一両人相手を尋て、新たに考え出して、全部に調達したき願望にて、遥々とこれまで来たるなりという。

※ 算者(さんじゃ)- 算術にすぐれた人。
※ 海内(かいだい)- 四海の内。国内。
※ 闕所(けっしょ)- 欠けているところ。


然るに、新左衛門の朋友に御代官の手代、関戸条右衛門という算者有り。三人同道して江戸へ行き、今壱人相手を取るべし。しかも宜しき心当り有りという。関戸を初めて三人江戸へ同道し、御勘定方に関新助様という人は、新左衛門知人にして、算者の聞こえあれども、その事はいまだ談せず。行きて語りたれば、悦び遣(や)る。すなわち弐人を引き合わせて、四人合躰して勘語す。
※ 関新助(せきしんすけ)- 関孝和。江戸時代屈指の和算家(数学者)。
※ 勘語(かんご)- 考えたことを語る


新助様は病氣と称して篭居す。珎味美色を忘れて肝膽を催して、四人勘書を毎度突き合せ見て、いざこれにて宜しと四人手を打ちし日は、発端の日より百七拾五日なり。その考えしは終日終夜なりとぞ。
※ 篭居(こもりい)- 家に閉じこもって外に出ないこと。
※ 肝膽(かんたん)- 心の奥底。真実の心。
※ 勘書(かんしょ)- 考えた結果を書き記したもの。


時に新助様を師と崇める義を、関流と号して、拾遺ともに弐冊板行改彫しける。書林より関氏へ、年々徳用貢ぐべき約束して、面々数冊を取り持ちて、我が国々へ退散すと承る。駿府に於いて、宝暦、明和の頃まで残る算人は、ことごとくみな新左衛門が弟子なり。駿府の者、普(あまね)く知る処なり。日向の算人の事、委しく聞かず。
※ 拾遺(しゅうい)- 漏れ落ちたものを拾って補うこと。そうして作ったもの。
※ 書林(しょりん)- 書店。本屋。書房。
※ 徳用(とくよう)- 利益。もうけ。


多才と言われた新左衛門さんには、算者としての一面があった。まだまだ底知れない人であるようだ。
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松木新左衛門始末聞書4 大金付込、大根売、老中町宿、と、みの柿の干し柿

(みの柿で干し柿を作る)

帰郷して、故郷で熟したみの柿を頂いた。昔、深々と冷え込む真冬にとろとろに熟しきったみの柿を食べた記憶が蘇った。あの頃は冷蔵庫もなかったが、冬は凍てつく寒さに、そんなものは不要で、掘り炬燵の上で食べた舌にしみるような冷たさ、甘さ、そんな豊穣な感覚を今の若い人たちは味わうことはないのだろうと思う。

これをもっと硬いうちに干し柿にしてみたいものだと、そんな話をして帰靜した。今朝、思い付いて、清水の行き付けの果物屋に電話して、渋柿はもう終っただろうかと聞いた。大きな渋柿が少しある。一袋700円で7個入っている。今年はこれがほとんど最後だよ。午前中に行くと話して、三袋取っておいて貰った。1個100円とは高いが、その分期待が膨らんだ。

買って来て、皮をむいて、熱湯で一分間消毒して、出来上がったのが、写真の柿である。故郷で頂いたみの柿と同等くらいに大きい、紛れもないみの柿であった。どんな干し柿が出来るのか、楽しみである。都合、今年は干し柿を164個作り、8000円ほど掛った。

松木新左衛門始末聞書の解読を続ける。

    大金を付け込みし事
一 右儲けの金子を、江戸より駿宅へ付け送る節、馬一疋に手代壱人ずつ付いて越されたり。居宅よりも手代、袴を着して、江尻駅辺りまで、迎えとして罷り出でしなり。近所、町内の子供は、今日何時に金子、馬に付けて来るよし。見物すべしと毎日待ち請けて見たる事、七日、八日なり。一日五、六駄ずつ付け込みしよし。新左衛門着府には駕篭に乗り、前後へ金子五駄ずつ、金、荷の中へ挟まれて乗り込みしとなり。右小供と申すが、今、安永八年に九十才の内外なり。右新左衛門は大話の人なれば、定めて壱駄三千両は付け多し。千両ずつも付けしならんと、皆人疑いしよし。然れども見聞きたるものなし。

※ 内外(ないがい)- 数量がほぼその程度であること。
※ 大話(おおばなし)- 途方もない空想的な誇張を主題にした一群の笑話。


     大根売り大荷の事
一 御材木の御用いまだ終り付けられざる内、江戸詰め余り久しき故、親元より雑用金を送り候にも、永き事大分懸りて送り兼ねるに依りて、雑用に差支えて、忍んで頬かぶりして、大根を荷(にな)いて商い、朝夕を営む時に、大根夥しく売りたり。その訳は、新左衛門は大力故、三人前荷いて歩き行きたるを、江戸広き所なれども、かの大根売りの荷物を見よ、冷(すさま)じく荷いし事かな、と目を驚かし、人々大力を帰依して、高直なりと思えども求めしとなり。

※ 帰依(きえ)- 神仏や高僧を信じてその力にすがること。

    御老中、御町宿の事
一 宝永年中、当御城地震にて御石垣破却す。見分として御老中稲垣對馬守様、駿府の時、町宿は新左衛門なり。下宿なしに、馬ともに一軒へ推し込みしなり。伝馬宿の宿りにては、本陣三軒程もなくて相済まずと申す。
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松木新左衛門始末聞書3 御上洛町宿割り、金儲け、手跡のハレの事

(金谷、洞善院の紅葉、11月29日)

30日から今日まで、在所の母の三回忌で故郷へ帰っていた。今回はパソコンを持たずに、30日、1日のブログは事前に公開予約をしておいた。首尾よく、二日間はブログのことも忘れていた。夕方帰って、さっそくまた、ブログを書き込んでいる。

「松木新左衛門始末聞書」の解読を続ける。

     御上洛、町宿割りの事
台徳院様 大猷院様両度御上洛の時に、当町宿割りの書き立て、年行事に控え帳有り。これを見るに、間口四間位の家には壱、弐千石より三千石位の御籏本衆、弐、三人も向会(もやひ)に入らるゝと見えたり。その内に、新左衛門、与左衛門、孫左衛門、見えざるは、国主、大名御入り故に有るべし。この時は、親類、妻子、兄弟などは遠方の親類等へ引き移り、家は明け渡しに致せしよし。

※ 台徳院(たいとくいん)- 江戸幕府二代将軍徳川秀忠の院号。
※ 大猷院(だいゆういん)- 江戸幕府三代将軍徳川家光の院号。
※ 向会(もやひ)- 共同で一つの事をしたり一つの物を所有したりすること。あいあい。おもやい。こゝでは相部屋になったことを言う。


家族を遠方に移して、将軍一行の大通行に家は明け渡す辺り、オリンピックの開催都市で、観客の宿不足を補うため、その時期、住民が部屋を開けて、供用に付すようなもので、面白い。

     金儲けの事
一 元禄の末か、宝永の初めの頃か、江戸御殿御修造の御材木を、駿州千頭山の御林より伐り出す。その御入用請負、江戸紀伊国屋文左衛門という者と松木新左衛門と両人に仰せ付けられ、御材木滞りなく江戸へ通船し、御用相済みて、大金を儲けしよし。


紀伊国屋文左衛門が大井川奥で材木を求めた話は聞いたことがあるが、地元の協力者が新左衛門であったことは初めて聞く話である。

     手跡はれの事
一 御材木の御用に付、御評定所へ召し出され、訴状書き様悪しきに依って、かくのごとくに認め直して、次の御寄合日に持参すべしと仰せ付けらる時に、さすれば時日延引して宜しからざるに依って、御硯を御貸し下し置かれ候様にと願いければ、則ち御貸し遊ばさる時に、頭を低くめて居なりし。新左衛門、書き直して差し上げる。若年寄、稲垣對馬守様、御覧有りて、新左衛門が手跡見事なるも、おのおの御覧あれと仰せられしよし。これに依って、博学多才も追々に御上へ響きて、願い筋の大きなる助けとなりしよし。

※ 手跡(しゅせき)- 文字の書きぶり。筆跡。
※ はれ - 表立って晴れやかなこと。おおやけのこと。また、そのような場所。
※ 延引(えんいん)- 物事を先に延ばすこと。遅らせること。


新左衛門の博学多才ぶりは、この後、徐々に知ることになる。
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