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松木新左衛門始末聞書15 日向新田開発、新左衛門死去

(我が家上空の飛行船/12月18日撮影)

昨日、帰宅した女房が騒ぐので、表へ出ると我が家の上空を飛行船が飛んでいた。女房はお墓で見付けて追いかけてきたという。

松木新左衛門始末聞書の解読を続ける。

     日向新田開発、新左衛門死去の事
一 日向国に大なる原有りて、開発の願人なし。新助様の取り持ちに依って、かの国に参向し、見分して願い下し、手代召し連れて、かの国へ立ち越し、草創する処に、これも水懸かり悪しく、遠方より筧(かけい)を以って水を取る処に雨降りて、大水の節は筧を押し流し、度々修造すといえども、入用多く引き合い兼ねしなれども、仕懸けて致しかたなく、段々広く切発したくは有りしなれども、味方ヶ原にて大金を費し、元手少なにもなり、気も進まず、長くそこも荒野となりけり。

※ 新助(しんすけ)- 関新助(孝和)。江戸時代屈指の和算家(数学者)。
※ 参向(さんこう)- 参上。


ここにかの龍渦車を用いば、極めて宜しからんと人々勧めれども、味方ヶ原にて懲りはて、龍渦車は用いずとなり。この節、田蔵は手代の中にも発明なるゆえに、養子になり、則ち名を改めて松木喜八郎と申す。続いて、忠蔵も出精して手代を勤めて、別家して苗字を貰い、松木忠蔵という。羽衣治兵衛は作人の親方を勤めて出精し、喜八郎、忠蔵、崇敬に逢い、別宅して新左衛門を貴びたり。無類なる実体人となりしなり。
※ 実体(じってい)- まじめで正直なこと。また、そのさま。実直。

然るに新左衛門、ふと煩い付き、心痛弥増に募りて、火の付きたる様に成りて、悶惵して絶え入りしたる儘にて段々弱り、唯三日の病にあえなくも、正徳五年未七月廿三日、野辺の煙となりにけり。
※ 弥増(いやまし)- ますますもっと。さらにいっそう。
※ 悶惵(もんちょう)- もだえ恐れること。


然るに、遺跡は喜八郎なり。享保年中まで、新左衛門の弟、友野与左衛門かた新蔵の乳母の子、青屋久兵衛等へ、日向より折々音信あり。喜八郎、忠蔵は親、新齋と養子の新蔵へ対面して、罷り下りて様躰を見て帰りしよし。
※ 遺跡(ゆいせき)- 先人ののこした領地・官職など。また、その相続人。

この時、新蔵を連れ行きて、日向の遺跡に立つべしと申す時に、さすれば駿河の跡取りなし。罷りならずというて、与左衛門承知せず。さあらばお政を連れ行くべしといえば、これは事によれば、友野の跡取りの心当てなりとて、これもまた、与左衛門不承知にて、新蔵、捨政に金子少々土産に置いて、本意なく帰国したると承る。
※ 捨政 - 郷蔵の娘、新左衛門の姪である。捨政という文字面から男の子かと思ったが、「お政」という呼び方は女である。

後に吉河屋小右衛門、青屋久兵衛の旦那寺、感応寺に於いて、七回忌の法事をなして、光雲院一寳日慈として、塔婆を建しなり。小右衛門は新左衛門出入の計(はかり)屋なり。日向の戒名聞かず。
※ 諡(おくりな)- 生前の徳やおこないに基づいて死者に贈る称号。のちの諱(いみな)。諡号(しごう)。戒名。

ここでいきなり主人公の松木新左衛門が病死してしまった。この聞書もまだ三分の一のところで、まだ三分の二が残っているのに、どうする積りなんだろう。この聞書は必ずしも年を追っていないから、行ったり来たりで何とか続いていくのであろうか。
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