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島報徳社の設立 - 駿遠の考古学と歴史

(咲き始めたノースポールの花)

昨日に続いて、地元に設立された島報徳社の設立経過を追って、報徳思想が結社式仕法による、地域への浸透の様子を追ってみる。

島報徳社については、「金谷町史資料編三 近現代」に山田信家所蔵文書として、記録が残っている。長い記録から抜き出して、現代文に直し読んでみる。

明治31年7月3日、山田猪太郎、山田実太郎両氏が協議し結社に向けて調査に入る。

同年10月28日、同志募集前に14名の賛同を得て、集会を行い、13名の賛成を得て、名簿に記名調印した。集会諸氏に地区への発表を託し、賛成者は来月五日に服部伊吉店で集会することを決める。

同年11月4日、区内有志服部伊吉店にて集会し、報徳の主趣、結社の方法など詳しく説明し、32名が新たに記名調印した。

同年11月5日、山田猪太郎、掛川へ出向き、善種金通帳8冊、善種金積立台帳外弐種各一冊、定款100冊を注文する。

同年11月6日、掛川農学社で岡田良一郎氏に面会したが、同日報徳社賞与授与並びに定款認可祝宴会で多忙のため、結社について概略話し、報徳訓の揮毫を依頼した。さらに伊藤副社長に面会し、結社の打ち合わせと定款のチェックを御願いした。

同年11月13日、山田猪太郎、印章2個を金谷の金生堂へ注文した。

同年12月4日、山田猪太郎、掛川農学社にて、二宮翁肖像及び神号幅を購入し、表装を依頼した。

同年12月27日、午後2時半より、長泉寺にて、創立会を開く。
  出席社員55名、欠席社員3名
  定款を決め、役員を選挙で選ぶ。社長山田実太郎、副社長山田猪太郎、
  幹事8名を選ぶ。
  善種金積立口数決定(各自自己申告)通帳及び定款を配布。
  定款、遠江報徳社入社願い印鑑簿調印

明治32年1月2日、副社長山田猪太郎、遠江報徳社社長を倉真へ訪問し、結社式の日取りを決める。

同年1月5日、結社式の日取りを1月19日正午より、場所を長泉寺と決め、来賓の招待状を発送する。

同年1月16日、区長山田佐吉を訪問、結社式1月19日及び毎月定会(第3日曜日)を区内休日とすることを交渉し、決定した。

同年1月19日、午後1時より結社式を挙行した。
  その次第は、社長宣誓、定款捧読、報徳訓唱和、祝辞など、
  報徳演説(浅井五郎-鍬鎌の説、榛葉元三郎-報徳訓略解、岡田社長-報徳結社について)、
  その後、場所を移して祝宴が行われた。


社長宣誓の中で、「この度五和村島の有志等、二宮先生の教えを信奉し報徳結社をなし、各善業を勉め、実地正業に力を尽くし、子孫永遠に幸福を遺さんことを期し、今日結社式を挙行せり」と述べている。

報徳教と呼ばれたように、宗教色の濃い部分もあるが、ここでは外した。島報徳社は遠江報徳社を本社とする支社であった。このように各地に結社された報徳社は、積み立てたお金(善種金)を必要とする社員へ貸し付けた。銀行が未発達の時代に、銀行の役割を荷うことになった。その後、合併などで姿を変え、信用金庫などの金融機関へ発展していく。靜岡県には現在でも12信用金庫を数えるが、このようにたくさん存在するのは、報徳社が数多く結社されたことによる。
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