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鴎外の歴史小説 - 島田文学講座

(会場は島田図書館のある、オビリア4階こども館の多目的室、
小さく、子供館の音楽が聞こえていた)

明日より、我が家の回線がようやく光回線に切り替わります。ところが手続きが遅れたために、ネットへ接続までに数日を要することが判明しました。このブログもその間休載となります。ご了解下さい。

島田文学講座の続きである。

明治45年に鴎外は「かのように」という小説を書く。主人公が歴史学者で、日本という伝統や特殊な国家思想や神話が温存されている国において、歴史を研究するものの苦衷を述べている。この頃から鴎外は歴史に取材した小説を志向したと思われる。大正元年、鴎外の歴史小説の第一作は「興津弥五右衛門の遺書」で、明治天皇に殉死した乃木希典夫妻の事件を予見したような作品であった。作品は事件の前に脱稿されていたといわれる。さらに翌年、同じく武士の殉死を扱った「阿部一族」を書いた。「忠興公以来御三代殉死の面々」と題する細川藩に伝わる古文書がもとになっている。

大正5年に書かれた「渋江抽斎」に代表される史伝群を、54歳から5年ほどの間に、新聞に連載した。「津下四郎左衛門」「椙原品」「寿阿弥の手紙」「伊沢蘭軒」「都甲太兵衛」「鈴木藤吉郎」「細木香以」「小嶋宝素」「北条霞亭」がそれである。

それらの作品群について、鴎外は「歴史其儘と歴史離れ」と題して、次のように書いている。

私が近頃書いた、歴史上の人物を取り扱った作品は、小説だとか、小説でないとか云って、友人間にも議論がある。(中略)小説には、事実を自由に取捨して、纏まりを付けたあとがある習いであるに、あの類いの作品にはそれがないからである。(中略)こういう手段を、わたくしは近頃小説を書く時、全く斥けているのである。なぜそうしたかと云うと、その動機は簡単である。わたくしは史料を調べて見て、その中に窺われる「自然」を尊重する念を発した。そしてそれをみだりに変更するのが厭になった。これが一つである。わたくしは又現存の人が自家の生活をありの儘に書くのを見て、現在がありの儘に書いて好いなら、過去も書いて好い筈だと思った。これが二つである。

これは、当時、大いに流行った、自然主義文学を頭に置いて書かれている。そう来たか、といった感じである。鴎外のこの考え方は、ある意味で納得できるけれども、人の人生は何も起きないで淡々と進むのが常で、そのまま書かれては、読むにつらい作品となる。鴎外はさらに続けている。

わたくしは歴史の「自然」を変更することを嫌って、知らず識らず歴史に縛られた。わたくしはこの縛の下に喘ぎ苦しんだ。そしてこれを脱せようと思った。

こうして、歴史から離れて書いた作品が「山椒大夫」で、鴎外は「山椒大夫」の舞台裏を詳しく書いている。安楽死を扱った「高瀬舟」も、同じ系統の小説であろう。
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