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海野弥兵衛信孝日記(13) - 駿河古文書会

(すっかり秋の夕空)

力餅さんからコメントがあり、亡くなった同級生N氏の最期の様子が判ってきた。昨年11月に膵臓がんが見つかり、この8月1日に亡くなったという。何ともあっけない話である。小学生のころ、つるんで遊んでいた記憶が蘇ってきた。町外れにあったN氏の実家にも行ったことを思い出す。

   *    *    *    *    *    *    *

海野弥兵衛信孝日記の続きである。1月20日から23日の分である。弥兵衛さんはまだ府中の難波屋に滞在している。

二十日
一 十八文、大半紙一
一 三十弐文、奉書紙弐枚

二十一日
一 百文、紙

二十二日
一 井川只助来たる
 但し、於喜代さまより乳母への伝言、申し来たり候由
一 同常吉来たる、もっとも同人儀、当目こくうぞう(虚空蔵)参りに来たり候由
※ 当目(とうめ)焼津の地名、「当目の虚空蔵さん」で有名
 但し養父よりの伝言、申し来たる、もっとも井川にての金談の儀なり
一 二十四文、莨(たばこ)

二十三日
一 八文、なおし賃
一 百文、ゆるか
一 十八文、大半紙
一 兄儀、加番方御家来中と、当目こくうぞう(虚空蔵)参詣に参られ候
※ 加番(かばん)- 江戸幕府における職名のひとつ。大坂城と駿府城に置かれ、定番(じょうばん)または大番に加勢して城を警備した。
一 十六文、半切紙
一 井川常吉儀、明日出立帰られ候由、申し来たる
 但し、養父方より伝言、申し越され候儀、なおまた伝言、常吉へ得と申し聞け遣わし候、その外左の通り申し遣わす
かぞ相送り申しべき段、申し遣わす、もっとも都合次第の事
※ かぞ(楮)- コウゾの別名
一 口坂本村神楽の儀、承り候に付、の儀に付、与四兵衛への伝言申し遣わし候事
※ 花(はな)- 心付け。祝儀。
一 小児事、品々申し遣わし候事、もっとも持薬弐包み遣わす
※ 持薬(じやく)- 常用している薬。また、用心のためにいつも持っている薬。
一 伴野氏よりたいどく(胎毒)くだし、三包とる、使いなつ
 但し、壱包、当方小児への分、弐包、井川へ相送り候分
※ 胎毒(たいどく)- 乳幼児の頭や顔にできる皮膚病の俗称。母体内で受けた毒が原因と思われていた。
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同級生N氏の訃報に言葉も無し

(アメジストセージ - 片雲さんから頂いた株を裏の畑の隅に植えて置いたら、大きな群落になって咲いていた)

今朝、送られて来た同窓会の会報を、何の気なしに見ていたら、最後の訃報の欄に、高17、N氏の名前が出ていた。えええー、と声を上げた。高17は旧制中学から新制高校になってから、17期目の卒業ということで、自分たちの所属した学年である。あの一番元気であったN氏が亡くなったことが、いまもって信じられない。

N氏は高校時代に同じクラスになったことはなかったけれども、小学校の高学年では同じクラスであった。今も、小学校5、6年のクラス同窓会は2、3年置に行なわれている。今は、そこで時々逢うだけの付き合いだった。その同窓会で久し振りに会った時、彼は女子大の英文学の先生になっていて、若い女性たちに囲まれている写真を皆んなに見せびらかして、男性たちを、大いに羨ましがらせていた。

少しづつ老いに向かっている同級生たちの中で、N氏は生き生きと楽しいときを送っているように見えた。一番元気で、バイタリティに溢れているように思えたN氏が、最初に逝ってしまうとは、大きなショックであった。

大学生のときは落研に入っていて、何時だったか、その落語を聞いたことがあった。演目は無難にこなしていたが、もう一つ馬鹿になりきれない点が、彼の落語の限界なのだろうなどと、批判的に聞いていたことを思い出す。

大阪のYOOさんに久し振りに電話をした。N氏の訃報のことを話すと、初めて聞くと驚く。実は、YOOさんは時々コメントを書いてくれていたが、前回の小学校の同窓会に、帯状疱疹をこじらせて、出席できないと言って来てから、音信不通になっていた。帯状疱疹は治療が遅れると命にも関わるといわれ、その後どんな様子か、心配していた。気になるなら電話を一本入れればよいのだが、ずるずると日が過ぎていた。

N氏の訃報を伝えるついでに、YOOさんの近況も聞きたいと思った。奥さんが出て、本人に代わるまで、少し時間が掛かった。声に変わりがなくほっとしていた。帯状疱疹では、痛くて1ヶ月寝込んだと話す。幸いに後遺症も無く回復したようで、最近、脚光を浴びている箸墓古墳を見に行ってきたと話す。大和路を歩く計画を早く具体化して、一度大阪にも行ってきたいと思った。お互いにいつ訃報が舞い込んでも不思議ではない年代に差し掛かっている。N氏の訃報はそのことを如実に伝えている。

YOOさんへ電話した後、ふるさとのK氏へ電話した。K氏はふるさとにいて、同窓会を企画してくれている。訃報を伝えると、K氏も初めて聞くといい、言葉を失っている様子であった。高校の同窓会会報で見ただけで、いつ、どうして亡くなったのか、詳細は判らないと話すと、情報を集めてみる。何か判ったら連絡をくれるという。
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嘉永東海大地震 その2 - 古文書に親しむ

(庭のチェリーセージ)

推理小説、推理ドラマが好きである。小説なども、謎を示されれば最後まで読んでしまう。古文書を学び始めて、はまってしまったのは、解読のため、自分の知識をフル動員して謎を解いていく、推理小説を読むようなわくわく感があるからである。

嘉永東海大地震の続きを以下に示す。東海道の宿場の名前がたくさん出て来るが、東海道の五十三宿についての知識があれば、解読するのは難しくはない。「西坂(日坂)、金谷、島田 ‥‥」の終わりに、「弐里違いにて」と書かれている。何が2里違いなのか。その前の項に掛川宿の記述があるから、掛川と日坂の距離だろうか。掛川、日坂間が2里(8キロ)と言われれば、その位の距離である。こんな風に自分で疑問を見つけて、その答えを求めて行く。文書の解読はそんな作業のくり返しで、先へ進んで行く。

一 藤川宿、五六軒、相潰れ申し候
一 赤坂宿、弐軒、相潰れ申し候
一 御油宿、これは別状無し
一 吉田宿、御城やぐら四ヶ所、相潰れ、同様町家およそ弐百軒計りも相流れ申し候
一 二川宿
一 白須賀、格別にこれ無き趣
一 荒井宿大変、第一御関所津浪にて相流れ、浜手方、漁人七八拾軒計り、津浪にて相流れ申し候
※ 大変 - 大変事。一大事。
一 舞坂宿五十軒計り相潰れ、これも浜手付の家は少々相流れ候由
一 浜松宿、弐百軒計り焼失
一 見附宿、三拾軒計り相潰れ申し候
一 袋井宿、残らず焼失仕り候
一 掛川宿、残らず焼失仕り候
一 西坂(日坂)、金谷、嶋田、丸子、岡部宿、締めて五宿は格別にこれ無き由、弐里違いにて
一 駿州府中宿、大地震は勿論、御城下およそ九分通り焼失
一 江尻宿、七分通り焼失

それより段々はなし聞き迭(かわる)に申し上げ候、三州浜手、平坂辺り、表浜、裏浜、およそ九十里間、道中筋より大変の次第、それより申すも、地震の加役高堤、津浪相添え申し候
一 阿州徳島御城下、七分通り焼失
一 紀州若山(和歌山)も右同様との事、中国、西国は追々相知れ申すべく、江戸辺はいまだ往来留め、一向相分かり申さず候事
一 岡崎辺にての地震、十一月四日第一、同夕第二、五日、六日、七日、八日、九日、十日、これだけ九度計りずつ、中ゆり申し候、十一日、十二日、十三日、十四日、十五日、これだけ小ゆり申し候、
右の通り、岡崎宿福嶌屋弥兵衛殿より、聞けさせられ仕り候


今まで、地震記録は幾つか読んできた。関心のある地域は詳しくなり、被害が大きくなるが、関心のない地域は何事もなしとなる。他の記録では壊滅的な打撃を受けている町が、何事もなしという表現になってしまう。これを正しく判断するには、複数の記録を比べてみないと、被害状況は正しくつかめない。
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「DASH島」を捜せ!

(「DASH島」= 由利島写真)

台風16号の影響であろうか、今日は雲の動きが激しく、一日突然に激しい雨となり、5分と続かずに止むといったような、不安定な天気であった。

「鉄腕ダッシュ」という番組があって、TOKIOのグループがDASH村で様々な農業体験をやるユニークな番組で、よく見ていた。ところがDASH村は福島原発事故の危険区域に入って、活動が出来なくなってしまった。

昨夜の番組では、無人島で壱から生活を築いていくという新しい企画が始まった。その初回で、今や、中年のおっさんに近付いてきたTOKIOの5人が、無人島生活で遊ぼうという番組である。昭和40年頃までは人が住んでいて、その痕跡も残っている島で、生活出来る条件があるのかどうか、TOKIOのメンバーが島を調べるところから、番組が始まった。

DASH村もそうであったが、この無人島(「DASH島」と命名された)が日本のどこにあるのかは秘密になっている。しかし、番組の中にたくさんヒントがあって、どの辺りにあるかは、推理力を働かせれば、ほとんどバレバレに近い。地図で捜せば、きっと見つけることが出来ると思った。

DASH島は大変に特徴的な形をしている。大きな島と小さい島の間を砂州でつないだ形である。イメージ的には「ひょっこりひょうたん島」である。番組の始まりに、手漕ぎの船でTOKIOが漕いで砂浜に着くところから始まる。この絵を見て、波の静かな内海だと思った。大きな内海なら瀬戸内海しかない。お遍路で一回りしたときに思ったが、四国の海は瀬戸内海に入ると全く様相が変わって静かになる。

瀬戸内海だと、山陽新幹線から行けるから、忙しいTOKIOでも、何とかロケに行けるエリアだと思った。しかし瀬戸内海と言っても随分広いから、捜すのに時間が掛かるだろうと思っていると、浜に打ち寄せられたゴミの中に、中国語の書かれたペットボトルがあった。これは大きなヒントになった。中国からペットボトルが流れ着いているとすれば、瀬戸内海でも関門海峡に近い、西の方であろうと思った。潮の満ち引きがあるとしても、そんなゴミは奥までは達しにくいのではないかと想像した。

探す方法はネットで見ることが出来る地図で、瀬戸内海を西の方から見ていくことにした。結果、5分足らずで、DASH島を見つけてしまった。松山港から西へ20キロほど伊予灘を進んだ先にある、「由利島」がDASH島であった。不思議に周囲10キロほどに島影がない。山陽新幹線を利用するのかと想像していたが、松山空港からの方がはるかに近いと思った。

決め手は砂州に沿って小さい島の方に、構築された港の跡が細長く残っている点で、間違いないと思った。おそらくネットの中では数百人単位の人が、すでに場所を見つけてしまっているのではないだろうか。多分、判っても、一般の人は行く手段を持たない無人島だから問題ない。そんな判断から、DASH村のときほどには、厳しいバリアを張らなかったのであろう。
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嘉永東海大地震 その1 - 古文書に親しむ

(朝顔がいっぱい-土曜日、ムサシ朝の散歩)

夕刻より、時々激しい雨が降る。久し振りにまとまった雨になりそうである。これから一週間は季節の変わり目、秋雨前線の影響で、雨の日が多くなりそうで、それを越せばいよいよ秋がやってくる。

昨日土曜日、「古文書に親しむ」講座へ出席した。課題は嘉永(安政)の東海大地震の各地の被害記録である。同様の古文書は幾つか読んだが、それぞれの町々の被害程度が違う。この文書を書いた人は定かではないが、最後を見ると、岡崎宿の福島屋弥右衛門殿より伝聞と記されている。内容としては、岡崎宿近辺の様子は福島屋弥右衛門からの伝聞に違いないとして、その外にも詳しく書かれたところもあり、弥右衛門以外の人から聞いた情報も織り込まれているように思う。

大坂市中や岡崎宿近辺の地名がたくさん出てくるが、固有名詞は解読が難しいところで、人名、地名の予備知識がないと解読が大変に厄介である。間違っているところも幾つかあるかもしれない。

以下へ読み下したものを書き示す。

嘉永東海大地震
一 嘉永七年寅十一月四日辰の刻、大地震並び津波、火災、大坂市中、損所多く、崩れ家左に、阿波座にて三四軒、北久四郎町坐婦通りで弐軒、南堀羽根四町に十四軒、堂島にて土蔵余程損じ、京町堀羽根橋通りにて五六軒、具屋町通り七八軒、この町より出火いたし候えども、早々打消し、鰹座にて三四軒、五日町、中寺町余程潰れ家有り、翌五日申の刻、四日同様烈しく崩れ家多くこれ有り、在町にて四ヶ所ほど焼上り候えども、早々打消し申し候

その後空ともなく地ともなく、雷の如く響鳴、市中一統、恐怖仕り候、則ち、天保山沖より津浪押し来たり、安治川船場辺より、老若男女数百人、御城番所へ押し寄せ、昼夜を凌ぎ申し候、津浪にて難渋の場所、沖中大船残らず、内川へ押し込み、安治川橋、亀井橋、道切堀川にて、日吉橋、心見橋、幸橋、住吉橋、堀口町長堀川、右皆々押し破り、橋落ち申し候、川々船に乗り、川中へ夥しく出おり候は、押し合い、皆々大船も川舟も破れ崩れ相成り、死人何百人とも相わかり申さず候

その外、河内、大和、紀州、泉州、城州、在辺ヶ国は、手軽い様子に御座候、京都同様手軽き方、損所少々これ有る由
※ 城州 - 山城(やましろ)国の異称。

一 伊勢山田辺り、およそ三四分通り潰れ、大湊神社、川崎、鳥羽、何れも津浪にて多分流れ、白子、神戸、四日市辺、崩れ家余程、桑名手軽き方、かつ上方筋道中、手軽きに御座候

一 三州岡崎矢矯村(矢作村)四拾五軒相潰れ、その外は六七分潰れ、矢作橋五拾五間の間、六七尺余りしずみ、その続き八丁村、松葉町、田町、肴町、これだけの処、下町と申す、岡崎宿にて右だけの処、表通りは相潰れ申さず候えども、内の中は壱軒もまんぞくな家、御座なく、上町と申すは、坂上より伝馬町辺まで、これは格別に御座なく、しかし、内には寝る者御座なく、皆々広場へ板家相立て、十四日まで昼夜相休むなり、南無阿陀仏計りにて、相暮れ申し候、残地裏手は田畑残らず、水海同様の事、浜手筋、大浜、平坂辺高堤、津浪にて相流れ申し候

(つづく)

「矢矯村」は講座では「矢橋村」と読み、正しくは矢作村で、筆者の書き間違いであろうと説明があったが、復習をしている中に、「矢作(やはぎ)」は「矢矯(やはぎ)」とも書き、間違いではないようであった。
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「上垂木村の倹約取締り箇条」その3 - 掛川古文書講座

(今朝の秋空)

女房が留守で、朝夕とも、ムサシの散歩へ行く。夕方よりも、朝の方が、散歩も気持ちが良い。空はすっかり秋空になって、さわやかな涼しさを味わうことが出来た。朝顔がいっぱいに花を咲かせているのも、朝ゆえである。

夕方、女房は帰ってきた。ちなみに今夜のカレーは自分が作ったが、一段と味良く出来た。

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「上垂木村の倹約取締り箇条」の続きである。
     追加
御免勧化、高壱万石に付、金壱両に相定め、最寄り村々申し合わせ、その積りを以って、惣代にて取計い申すべき事
※ 御免勧化 - 幕府の許可を得て、僧侶などが寺の堂塔や仏像の建立のための寄付を募ること。
一 瞽女、座頭へ仕切りの義、仕来り半減に致すべき事
一 長脇差壱本刀帯し候、浪人躰の者、決して休み泊り致させまじく候、万一狼藉いたし候わば、組合村々申し合わせ、その筋御役所へ申し上ぐべき事
 附けたり その節、諸入用の儀、組合村々高割に致すべき事
※ 壱本刀 -(武士が大刀・小刀の2本を腰に差したのに対して、侠客は長脇差1本であるところから)侠客。一本差し。
一 婚礼祝儀の節、酒当日ばかりに致すべき事
(この間に落丁あり、文が続かない)

相成り候に付、諸色直段、減じ方の儀、御公儀様より御触れ書も御座候程の儀、殊に世上一統、奢り相募り、百姓家にても神事、仏事、祝儀、不幸並び衣類、野菜等までも、とかく手製の物に限らず、所々の産物を買い入れ、物ごと、花(華)美に相成り、困窮相嵩み、永続成り難く、このままに押し移り候わばとても、取り続き出来がたく、安心仕らず候
※ 世上 - 世の中。世間。

もっともこれまで奢りの儀、精々御上様仰せ出されるもこれ有り候らえども、一統の世の栖ゆえ、自然と等閑に相成り、今更、恐れ入り奉り、なおまた今度、御上様より仰せ出されるも御座候に付、この上質素の形に村々申し合わせ、前書箇條の通り、村中一統相守り申すべく候
※ 精々(せいぜい)- 能力の及ぶかぎり努力するさま。できるだけ。精いっぱい。
※ 御上様 - 掛川藩の殿様


然る上は、右箇條の外にも、いささか費(ついえ)の儀これ無き様仕り候、これにより銘々承知、印形仕り候、以上
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「上垂木村の倹約取締り箇条」その2 - 掛川古文書講座

(水路脇の花々-ご近所の方が花を植えて、今花盛りである)

女房が名古屋の娘のところへ一晩泊まりで出かけたため、今夜は留守番である。かなくんの通う幼稚園で、明日は祖父母参観日で、祖父母が行かないと、その園児は出席できないという。何だかおかしなルールだが、その参観に行くと話していた。ムサシは様子が違うと思ったのか、少し騒いだので、裏のムサシの部屋に入れた。ゆっくりと本でも読もうと、図書館から数冊本を借りてきたが、なかなか読書が進まない。

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一昨日、掛川古文書講座では、7月に続いて、「上垂木村の倹約取締り箇条」が解読された。この文書は手控えであるため、文言に線が引かれて消されたところもある。文面をまとめる上で、部分的に書き直したのであろう。そのことで、この文書が手控えであって、回ってきたお触れの写しではないことが判る。

一 男女給金並び手間、日雇の義、村々定めの外に、壱日の雇いたりとも、増し賃致し差出し候者これ有り、後日に顕われるにおいては、取締をなし、 過科仰せ付け下されたき事 組合村々相談の上、取り計いの事
一 諸職人作料、弐割減の事
一 諸職人、これまで出入場などと申す儀も、これ有り候えども、御役相勤め候職人に候わば、勝手次第、誰にても相雇い申すべき事
※ 出入場 - ひいきにされて、足しげく出入りする得意先の家。
一 村内商人並び職人在り来たるの外、新規初め候事、相成らず、もっとも病身にて農業相成りがたき者は、庄屋所へ相願い、村中相談の上取極めの事
一 紺屋、鍛冶屋弐割減の事
一 在方にて髪結渡世致し候儀、相成らざる事
一 百姓の内にて、近来虚無僧躰と相成り、渡世致し候者、間々これ有りやに候えども、相止め申すべし、もし、この末、右躰の渡世いたしたき者は、願の上、何方へ成りとも引越させ、村方人別にかゝり候ものは、右様の渡世相成らざる事
一 諸奉加相断り、万一よんどころなき節は、組合村々相談の上、取計い、もっとも帳面員数、正路に書き記し、送り人足の義、御免奉加にても、継ぎ人足、御証文これ無く候わば、定り賃銭受取り申すべき事
※ 正路(しょうろ)- 正直なこと。また、そのさま。
※ 御免奉加 - 幕府の許可を得た、神仏への金品の寄進。また、その金品。

一 浪人仕切りなど相成らず、通り掛りの浪人、壱人銭三文限り、申すべき事
一 諸国寺社配札の儀、定宿これ有る分は、これまでの通り取計い、その外相断り申すべき事
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「足のつめは大丈夫ですか」

(足の爪の生え具合)

松山の「まめ名人」さんから「足の爪は大丈夫ですか」というコメントが書き込まれていた。お遍路から戻って3ヶ月余り、足の爪のことはすっかり忘れていた。他の方には何の事やら、判らないと思うから、少し事情を書こう。

お遍路の後半を宇和島から始めたとき、靴を新しくした。全く同じ靴を2足買っていて、1足目の靴底がかなり減って薄くなり、最後まで持つかどうか不安であったので、後半は新しいものに交換した。交換は予定したことであった。この靴をお遍路で履くのは、2度のお遍路で4足目になり、今までマメが数個出来たくらいで、軽くて安い割りに足には優しくて、自分の足に合っていると思っていた。よもや爪を痛めることになるとは思っても見なかった。

歩き始めてしばらくして、右足の親指が靴の先に当って、このままでは危ういと思いながら、なおしばらく歩いたところで、遍路道の石ころに嫌というほど当て、爪をやってしまったと思った。痛む足をかばいながらたどり着いた宿で見ると、右足の親指の爪が内出血して赤紫に腫れている。まだ先は長いのに困ったと思ったが、親指は絆創膏できつく巻いて、靴の親指が当てる部分を、金剛杖を差し込んで何度も突いて、少しでも靴を広げるように工夫し、靴紐も先を緩め、足首に近い方をきつく結ぶなど、対処をした。

爪先が靴に当たることは無くなったが、痛みは残って、少しつらい歩きになった。二日ほどして、内出血している親指の血を出したら、痛みが無くなり、その後は絆創膏できつく巻いておけば、普通に歩けるようになった。それでも爪は一度取れてしまうだろうと覚悟した。

その状態のところを、おそらく松山で「まめ名人」さんに見せたのだと思う。足のケアについては、随分研究されている「まめ名人」さんゆえに、心配されてのコメントである。たしか、御本人も親指の爪を詰めて、生え変わるまでに医者に掛かったことがあると聞いていたから、気にされていたのだと思う。

自分の場合、30代後半に夏山登山をするようになり、当初、履いていたキャラバンシューズが足に合っていなくて、2泊3日ほどの山から帰ってくる度に、爪をおやして、生え変わるのに数ヶ月掛かった経験を何度もしていたので、今回も何も心配はしていなかった。

お遍路を結願して、帰宅後、爪が取れてしまうと、その下に新しい爪が生えつつあって、今では写真の通りに7割方生え替っている。それだから、爪のことはコメントを見るまで全く忘れていたのである。「まめ名人」さん、そんな訳で全く問題ないと思う。
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「ぞうじ(雑事)」の話 - 掛川古文書講座

(5月23日、伊予の麦秋)

午後、掛川古文書講座に出席した。前回は7月11日で、8月は講座はお休みだったから、2ヶ月ぶりである。課題は前回に引続き、「文政2年上垂木村倹約取締り箇条」である。

前回、納得できる解読が出来なかった部分が何ヶ所か確認されたが、その一つ、

一 伊勢参宮、その外、物参りの節、何によらず留守見舞相止め申すべく候、もちろん土産など一統相止め申すべき事
 但し、村そうしばかりに致すべきこと


この「そうし」が判らない。実際には変体仮名で「楚うし」と書かれていた。「少しばかり」が鈍ったのかとも思ったりして講座に望んだが、講師も判らないようであった。そんな話を聞いていて、最近聞いたことがあるような気がした。キーワードは「伊勢参宮」と「雑事」であった。「雑事」は「ぞうじ」と読み、書くときには「そうし」「ぞうし」「そうじ」などとかな書きされる。

駿河古文書会の8月の講座で出てきて、詳しく話しを聞いたばかりであった。そこで、最後の質問の時間に、「そうし」は「ぞうじ(雑事)」のことで、伊勢参宮から戻ったときに、皆さんに伊勢参宮の報告する簡単な宴会のことを「ぞうじ」という。ことが終わったときの簡単な慰労会のようなもの、あるいは神事の後の「なおらい」なども「ぞうじ」と呼ぶようだと説明した。

それなら意味も通じる。留守見舞や土産は止めて、「ぞうじ」だけで済ますようにということになる。そんな風に講師も納得してくれ、会場からそう言われれば、今でも「ぞうじ」という言葉は使われていると発言が何件かあった。講師はその言葉を知らなかったようで、勉強になったという。

六十の手習いで、町の古文書講座に出席し始めて、早くも5年目に入った。今では、靜岡、金谷、掛川の3ヶ所の古文書講座に参加していて、けっこう、あちらで学んだことがこちらに出てきたり、こっちで知ったことを、あっちの講座で発言したりとしている。

そして、何だかんだ言いながら、最近は古文書が判ってきたような気がする。まだまだ読めない文字も多いけれども、読む自信が大分付いてきたように思う。

自分が受けている古文書講座の中で、掛川の講座は最も大人数で、人気の講座である。文書の解読という意味では、他の講座よりも、やや雑駁なところがあるが、古文書から庶民の歴史を学ぶという点では、他の講座よりも、興味をもって解釈を加えられて、大変に判りやすい。おそらくその辺りが人気の秘密なのだと思う。
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海野弥兵衛信孝日記(12) - 駿河古文書会

(千葉山智満寺本堂)

夕方、本当に久し振りに雨がぱらついた。雨が無くて、大代川もこのところ流れがほとんど無くなって、水溜り状態になっている。雨はすぐに止んで、焼け石に水であった。ただ、夜は気温が下がり過ごしやすくなった。

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「海野弥兵衛信孝日記」の続き。
府中に着いて、二日間の日記である。ほとんどが買い物の手控えで、それらを荷造りし、同行した長五郎に持たせて、井川へ帰す。井川へ持ち帰らせた分は、井川では手に入らないものと考えられる。お米も井川では取れなかったようだ。

十八日
一 汐見まんじゅう代、百文相調え候
 但し、難波屋へ年玉として進上いたす、もっとも同所御一統方へ面會
一 十八文、大半紙
※ 大半紙 - みの紙(一回り大きい半紙)
一 二十四文、莨
一 四十八文、あんま
一 三十弐文、酒
一 十壱文、とうふ(豆腐)


十九日
一 銀八匁、大ろうそく壱箱、拾八丁入
一 弐百文、はんぺん
 締めて、金弐朱と弐百五十弐文
  内、金弐朱と弐百文、過日養父より預り置き候、不足分足し相払い候
  右、井川下屋敷分
一 銀四匁、大ろうそく九丁
一 弐百文、小ろうそく十二丁、内弐丁、自分遣いに残す、引きて、十丁井川宅へ遣し候分
  〆(以上)
  右、井川上屋敷分
 右品々、井川養父方へ相送る、もっとも上屋敷品相頼み遣わし候事
一 玄米八升、但し難波屋へ預け置く米の内なり
 右、井川上屋敷へ送り米、もっとも送り状相添え、右品々、荷拵え致させ、長五郎へ相渡し、井川へ相送り候、もっとも養父への手紙相認め長五郎へ相渡し、同人出立致させ候事
一 銭三百文、長五郎小遣いとして、同人へ渡し遣わす
一 八文、元結(もっとい)
一 八拾八文、折紙一
一 十六文、漉油梳油
※ 漉油(こしあぶら)- ウコギ科の落葉高木。樹脂をこして金漆(ごんぜつ・きんしつ)とよぶ塗料を作った。但し、ここは梳油(すきあぶら)の間違いと思われる。
※ 梳油(すきあぶら)- 髪をすくときにつける油。植物油に生蝋(なまろう)、香料などを加え、練って作る。

一 五十三文、梳き櫛
※ 梳き櫛(すきぐし)- 髪を梳いて垢を取るのに用いる、歯の目の細かいつげなどの木製の櫛。
一 八文、同(柄)
※ 柄(え)- 梳き櫛の柄
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