平成18年に60歳を迎える。六十と縦に書くと傘に鍋蓋(亠)を載せた形である。で、「かさぶた(六十)日録」
かさぶた日録
第23番六角庵、第22番向善寺 - 駿河百地蔵巡り 3回目
次は第23番六角庵である。藤枝大手の交差点を左折して、一度は行過ぎてしまった。戻ってうろうろ住宅地を歩くうちに、市部延命地蔵堂に行き着いた。迷って、番外の地蔵堂を一つ見つけられた。堂内を覗いてみる。壇上に六地蔵が並んでいるが、垂れ幕に顔が隠れてよく見えない。地蔵堂の外に、藤枝市指定有形文化財の標柱が立っていた。「彫刻 市部延命地蔵堂の石造六地蔵像」と書かれていた。この六地蔵は延命地蔵だと知れる。また6体は石像であった。
(市部延命地蔵堂)
藤枝大手の交差点近くまで戻り、改めて東高を目標に進む。勝手口を出て来たおばあさんに、東高の方角を聞いて進んだ。200メートルほど進んだ正面に、六角堂があった。第23番六角庵というのは、この六角堂のことだとすぐに判った。「駿河一国百地蔵尊第廿三番」の板が六角堂に張られ、確認出来た。板の上部に、どういう意図か、観音像の頭部のレプリカが掛けられていた。六角堂の内部を覗くと、岩の上に半跏坐した地蔵像がどっしりと鎮座していた。
(六角堂の子育地蔵尊)
地蔵尊と六角堂の由来は不明であるが、古くからこの地にあった。堂宇が老朽化したため、藤枝市大手の源昌寺四世佛州玉頴和尚の弟子、智岩妙高尼が再建を志し、文政二年(1819)、六角堂の再建と本堂の新築にとりかかり、高齢のため、その志しは弟子の慧林法春尼に引き継がれ、文政三年に完成した。そして、源昌寺の佛州和尚を開山に仰ぎ、尼僧寺になった。開基は妙高尼である。
代々尼僧が住職をつとめてきたが、昭和40年代に無住となり、昭和53年に地元で本堂などを取り壊し、六角堂の補強工事を行った。現在は、六角堂は、子育地蔵尊として、地元の人々と源昌寺で守られている。
お参りを済ませて、戻ろうとしていると、先ほど道を聞いたおばあさんが自転車でやって来て、教え方がいい加減だったので、心配で追いかけてきたという。藤枝東高と聞いたけれども、行きたかったのは六角堂だったので、役立ったことを話す。始めから六角堂の場所を聞いた方か良かったと思った。道を教そわった人が、心配で追いかけてくることは、お遍路でも経験をしたが、地元でも起きた。少なからず感動的で、何度もお礼を言って別れた。
次の、第22番の向善寺はさらに困難を極めた。地図に印をする時に、東高の近くで記すべきところ、国道端の藤枝北高のそばに印をしていた。北高そばまで行くが、もちろん見つからないため、通りかかった年配の郵便配達の男性に尋ねた。かなり離れているから方向だけ教えてくれたが、あとは近くで尋ねるようにという。最もな話で、旧東海道筋に戻ったところで、道路を渡ってきたおじいさんに聞いた。おじいさんは向善寺を知らないようで、お役に立てなくて申し訳ない、という。この言葉、自分も使うことがあるが、気持ちの良い言葉だと思う。
次に通り道の洋装店前のベンチで、地図を出して確かめていると、店の女性がきて、どこか探しているのかと声を掛けてくれる。こういう声掛けはお遍路でも度々受けた。旧東海道筋には、東海道歩きの人も多く、道を聞かれ慣れているのであろう。涼しい店に入るように言い、もう一人の女性と二人して評定が始まり、凡その場所は判った。
(向善寺本堂)
最終的には、通りの交番に入り、住宅地図で最終的に教わった。向善寺は旧東海道筋から北へ少し入った、藤枝東高正門に近い所であった。「駿河一国百地蔵尊第廿ニ番」の板は本堂に付いていた。ご本尊が延命地蔵菩薩であった。
結局は、向善寺は六角庵の前に参れば最も効率的で、無駄が無かった。けれども、色々な人に道を聞き、それぞれに精一杯教えようとしてくれて、そんなふれあいがあっただけでも、迷った甲斐があったというものである。(つづく)
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