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嘉永東海大地震 その1 - 古文書に親しむ

(朝顔がいっぱい-土曜日、ムサシ朝の散歩)

夕刻より、時々激しい雨が降る。久し振りにまとまった雨になりそうである。これから一週間は季節の変わり目、秋雨前線の影響で、雨の日が多くなりそうで、それを越せばいよいよ秋がやってくる。

昨日土曜日、「古文書に親しむ」講座へ出席した。課題は嘉永(安政)の東海大地震の各地の被害記録である。同様の古文書は幾つか読んだが、それぞれの町々の被害程度が違う。この文書を書いた人は定かではないが、最後を見ると、岡崎宿の福島屋弥右衛門殿より伝聞と記されている。内容としては、岡崎宿近辺の様子は福島屋弥右衛門からの伝聞に違いないとして、その外にも詳しく書かれたところもあり、弥右衛門以外の人から聞いた情報も織り込まれているように思う。

大坂市中や岡崎宿近辺の地名がたくさん出てくるが、固有名詞は解読が難しいところで、人名、地名の予備知識がないと解読が大変に厄介である。間違っているところも幾つかあるかもしれない。

以下へ読み下したものを書き示す。

嘉永東海大地震
一 嘉永七年寅十一月四日辰の刻、大地震並び津波、火災、大坂市中、損所多く、崩れ家左に、阿波座にて三四軒、北久四郎町坐婦通りで弐軒、南堀羽根四町に十四軒、堂島にて土蔵余程損じ、京町堀羽根橋通りにて五六軒、具屋町通り七八軒、この町より出火いたし候えども、早々打消し、鰹座にて三四軒、五日町、中寺町余程潰れ家有り、翌五日申の刻、四日同様烈しく崩れ家多くこれ有り、在町にて四ヶ所ほど焼上り候えども、早々打消し申し候

その後空ともなく地ともなく、雷の如く響鳴、市中一統、恐怖仕り候、則ち、天保山沖より津浪押し来たり、安治川船場辺より、老若男女数百人、御城番所へ押し寄せ、昼夜を凌ぎ申し候、津浪にて難渋の場所、沖中大船残らず、内川へ押し込み、安治川橋、亀井橋、道切堀川にて、日吉橋、心見橋、幸橋、住吉橋、堀口町長堀川、右皆々押し破り、橋落ち申し候、川々船に乗り、川中へ夥しく出おり候は、押し合い、皆々大船も川舟も破れ崩れ相成り、死人何百人とも相わかり申さず候

その外、河内、大和、紀州、泉州、城州、在辺ヶ国は、手軽い様子に御座候、京都同様手軽き方、損所少々これ有る由
※ 城州 - 山城(やましろ)国の異称。

一 伊勢山田辺り、およそ三四分通り潰れ、大湊神社、川崎、鳥羽、何れも津浪にて多分流れ、白子、神戸、四日市辺、崩れ家余程、桑名手軽き方、かつ上方筋道中、手軽きに御座候

一 三州岡崎矢矯村(矢作村)四拾五軒相潰れ、その外は六七分潰れ、矢作橋五拾五間の間、六七尺余りしずみ、その続き八丁村、松葉町、田町、肴町、これだけの処、下町と申す、岡崎宿にて右だけの処、表通りは相潰れ申さず候えども、内の中は壱軒もまんぞくな家、御座なく、上町と申すは、坂上より伝馬町辺まで、これは格別に御座なく、しかし、内には寝る者御座なく、皆々広場へ板家相立て、十四日まで昼夜相休むなり、南無阿陀仏計りにて、相暮れ申し候、残地裏手は田畑残らず、水海同様の事、浜手筋、大浜、平坂辺高堤、津浪にて相流れ申し候

(つづく)

「矢矯村」は講座では「矢橋村」と読み、正しくは矢作村で、筆者の書き間違いであろうと説明があったが、復習をしている中に、「矢作(やはぎ)」は「矢矯(やはぎ)」とも書き、間違いではないようであった。
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