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深谷郷から見た遠州勢力図-島田金谷の考古学と歴史

(白のサクラソウ)

「島田金谷の考古学と歴史」第7回に出席した。本日の演題は「深谷郷と諏訪原城-今川・武田氏の金谷支配」である。

参加した地元の方の話によると、「深谷郷」は、JR金谷駅から下り電車に乗って、すぐのトンネルを抜けたところが島田市神谷城で、その一部に深谷の地名が残っているという。

今川氏の系図を見ると、応仁文明の乱の時代、東軍に加担していた今川義忠は、領地の駿河に戻る途中で、西軍の斯波氏が支配していた、横地城、勝間田城を落とした。しかし、凱旋途中の塩買坂でその残党たちに討たれてしまった。勇猛果敢な義忠にも油断があったのだろう。

跡継ぎの龍王丸はまだ幼く、太田道灌や伊勢新九郎(後の北条早雲)の仲立ちで、一統の小鹿範満が、龍王丸成人まで、今川家の家督を預かることになった。小鹿範満は龍王丸が成人しても家督を戻さず、龍王丸は北条早雲の力添えで小鹿範満を討ち、家督を取り戻して、今川氏親となった。

その後、再び氏親からの家督相続争いから、花倉の乱が起き、今川義元が家督を継ぐ。しかしその義元も、桶狭間の戦いに敗れ、今川氏真が家督を継いだ。今川氏真は戦国大名としての今川氏の最後で、やがて武田信玄軍に破れ、駿河守護職を北条氏直に譲って終った。

この四代の今川の系譜の中で、金屋郷深谷(後の深谷郷)がどう推移したかを見ることで、当時の遠州の勢力図を知ることが出来る。

元々金屋郷は1491年将軍足利義材により、清和院に安堵されていたが、1496年にはすでに実効支配がなく、横岡城主鶴見氏の支配化にあったものと見られる。今川氏と斯波氏の抗争の中で、横岡城の鶴見氏(斯波方)と松葉城の川井氏(今川方)が戦い、川井氏を倒した横岡城の鶴見氏も今川氏親によって滅ぼされた。

掛川の長松院に残る文書によると、1496年、氏親は金谷郷深谷を長松院に寄進している。さらに1505年、氏親は長松院に金谷郷深谷宮田名を安堵し、不入権を付与している。守護などからのすべての諸役を免除したのである。今川氏が戦国大名となった証拠である。

1537年、今川義元も長松院に金谷郷深谷宮田名を不入権付で安堵した。代替わりの度に、安堵状は出される。1560年、桶狭間の敗北の後、後を継いだ今川氏真もすぐに同様の安堵状を出している。

ところが、1565年になって、氏真は孕石元泰に対して深谷郷を本領として還付する書状を出している。没収地を返還することで、家臣たちの繋ぎ止めに必死だった様子がうかがえる。

しかし、今川氏は敗れ、今度は1568年、武田氏が孕石元泰に対して、深屋(谷)郷を安堵する書状を出しているから、今川氏真は孕石元泰の繋ぎ止めには失敗したことがうかがえる。

深谷(屋)郷という定点で歴史を追いかけても、当時の勢力図がおおよそ知れるものである。
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